雪菜と三条院
帰宅後、鼻歌を歌いながら制服の埃を取っているとスマホが鳴った。和子からだった。
「雪菜ちゃん、今時間大丈夫?」
「はい。大丈夫ですよ」
「よかった。忙しい時間かなと思ったんだけど」
「いえ。どうしたんですか?」
「ええとね、毎年勝利さんと香織とクリスマスコンサートに行っているの。今年はバンフィル──あ、わかるかしら? バン・フィルハーモニーを聴きに行く予定だったの。名前は聞いたことある?」
「はい。名前だけですけど」
日本の交響楽団だ。たしか専属の合唱団もあったはずだ。雪菜は夏休みや年末にCMを目にする。
「そういえば雪菜ちゃん、合唱してたのよね」
そんなことも話したかなと思いつつ、しかしどこまで話したかの記憶はあいまいで、
「そうなんですよ。幼稚園のときで、意味もわからずミサ曲を歌っていた記憶しかありませんけど」
「うんうん。それでね、私たち楽しみにしていたんだけど、香織に急用が入っちゃったみたいで、チケットが一枚余っちゃったの。雪菜ちゃん一緒にどうかしら?」
「あ、そうなんですか。コンサートはいつなんですか?」
「急で申し訳ないけど、来週の木曜日なのよ」
普段はゆっくり話すのに、今日はなんだかトランポリンで遊ぶ子どもたちみたいにうれしそうだ。がっかりさせてはいけないと頭が働き、
「楽しみにしています」と答えてしまった。
電話を切ってからオフィシャルサイトを調べた。
『コンクール優勝者などの一流プレイヤーたちが奏でる奇跡のハーモニー』
音楽の成績はよかったけれど、オーケストラに心得のない者が行ってもいいのだろうかと心配になった。
やがて興味はチケット代に移って行った。ディズニーランドのフリーパスくらいなら母の力も借りないといけない。でもコンサート代なんてせいぜい二、三千円だろう。まずは交渉してみて、もし断られたら懐には痛いけれどお小遣いから出せばいいかと高をくくった。
ところが目に飛び込んできた数字はそんな雪菜の期待を裏切るものだった。その衝撃たるや、子猫だと見くびって箱を開けたらアムールトラが入っていたような。なんと雪菜のお小遣い半年分である。
夕食の支度をしていたら伊澄が帰ってきた。
「あら、鯖の味噌煮? おいしそうね」とか、
「駅で近藤先生に会ったのよ。覚えてる? あの年になると、男の人のほうが変わるものなのかしらね」とまるで外でお酒をひっかけてきたかと思うくらい多弁である。
母が椅子に座ったタイミングでコンサートについて相談した。
「あら、今度はオーケストラに興味でてきたの? 百人一首って言ったり、鳥って言ったり、本当にまとまりがないわねえ」
「和子さんはね、お金はいいって言ってくれたんだけど」
「そんなわけにはいかないでしょ」
「でも香織さんが来れなくなったみたいで、チケットが余っちゃっうわけだし。無駄になるじゃん?」
「まあそうだろうけど」と母は『考える人』みたいなポーズで考えていたが、
「よしっ、わかった! 私が払いましょう」と胸を張った。
「よっ、セレブ! 総理大臣!」
「任せなさい! いくらくらいするの?」
「調べてみたら三万円だった」
「はぁっ? なんて?」
雪菜は遠慮がちに、
「だから……三」と指を立てて言った。
「そんなの払えるわけないでしょ。あんた、コンサートなんてはじめてなんだから、良し悪しなんてわかんないでしょ。一番安いとこにしなさいよ」
だからチケットはもう和子さんの手元にあるんだってば、と思ったが、
「B席でも一万円するよ」
「断りなさい!」
いつもならさっき払ってくれるって言ったのにと駄々をこねるところだ。しかし、今回は値段が値段だ。素直に断りの電話を入れた。
数コールで応答があった。お金がないからとやんわり断るつもりだったが、
「いいのいいの。お金のことなら気にしないで」
「そういうわけにはいきませんよ。私、アルバイトしていませんし……。肩たたき券なら発行できますけど、利子も入れたら返済まで何年かかることやら」
「雪菜ちゃんとお出かけしたいの」
和子の無邪気な声が風船のようにしぼんだ。
「違うんです。私も本当は行きたいんです。でも、お金を考えるとですね」
「うーん……。そうねえ、」と和子は沈黙の向こうで考えているようだったが、
「あっ、そういえば雪菜ちゃん。この間スマートフォンの授業してくれたでしょ。勝利さんとね、アルバイト代払わなきゃね、と話していたの。それじゃあ、チケットのお金はその代わりでもいいのかしら?」
思いもよらぬ返答にへどもどしていると、
「本当にお金の心配はいらないからね」と和子は念を押して、
「あっ、ごめんなさい。これからごはんなの」と電話を切ってしまった。
雪菜がうまく伝えられなかったのを知ると伊澄は「えっ!」と声を張り上げた。母はこうなるのも予想していたはずだ。そのわざとらしい反応にむっとしたけれど、
「だってさ、思ったより和子さんの押しが強くて……」
「だってじゃないわよ! お金についてはきちんと線引きしなさいって、何度も言ってるでしょ。どうするのよ」
「わかったよ。明日電話してみるよ」
「今すればいいじゃない」
「いろいろあるんだよ。和子さん忙しい人だし、私もごはん作らなきゃだし。電話かけろって言うならお母さんが料理代わってくれるの?」
「あんたの仕事でしょ!」
落し蓋を取って煮詰めていると、トントントンとせわしない音が聞こえた。ちらっと見ると伊澄は椅子にふんぞり返るように座り、指先で机を叩いている。さっきまで笑顔だったのにすっかり機嫌を損ねてしまったみたいだ。
しかし、雪菜はどうしてそこまで怒られるのかわからなかった。サンドウィッチのように和子と母の間にはさまれてしまっただけなのだ。二人で話し合ってくれればすぐ解決することなのに。
その晩、雪菜は『一冊でわかる物語百人一首』を読んでいた。ところが母と口論した日は自分の部屋にいても落ち着かない。一階からの荒い音が自分への当てつけに聞こえる。その窮屈さと言ったら籠に閉じ込められた小鳥みたいだ。すぐに解決したいけれども、経験上このわだかまりは明日まで解けなさそうだ。
気が紛れる歌がないか探したところ、六十八首目の三条院の歌が目にとまった。
──心にもあらで憂き世にながらへば恋しかるべき夜半の月かな
(心ならずもこのつらい世に生き永らえたならば、きっと恋しく思うに違いない、今夜の美しい月を)
雪菜は和子に百人一首には悲劇の歌人が多数選ばれていると教えてもらった。歌の背景を調べるうちに百人一首歌人で一番不幸なのはこの三条院ではないかと思った。
内裏が二度も炎上した。治療をしたけれども当時は技術が不正確だったらしく余計に視力が悪化した。物の怪にも憑かれた。さらに藤原道長に圧されて孤立し、即位してからわずか五年で譲位を迫られた。
これらを踏まえ雪菜は歌を次のように整理した。「心にもあらで」「憂き世に」と逃げ場のない状況の中、それでもなお月を「恋しかるべき」ものと見る。
彼の苦悩を感じた。まだ月を鑑賞できる視力は残っている。じきにその月さえも見られなくなる。
身につまされる思いから雪菜は小窓をのぞいた。この日は満月だった。千年前に三条院が見た月も今夜と同じく完全な円だったのだろうか。彼は失意の中、もの言わぬ月とどんな会話をしたのだろう。
三条院の歌を音読していたら、雪菜をつかんで離さない言葉があった。それは「夜半の月かな」である。雪菜はこのフレーズを知っている。百人一首の紫式部の歌にもあった。しかも同じ五句目に。
──めぐり逢ひて見しやそれともわかぬ間に雲がくれにし夜半の月かな
雪菜は飛びつくように机に座った。ノートを広げてこの言葉はたしか別の歌にもあったはずと記憶を頼りに組み合わせを書き留めていく。
「あっ!」
雪菜は蜘蛛がひっくり返るような奇声を発した。
意図せずに秀歌を選んだら、「秋の夕暮れ」や「逢はむとぞ思ふ」など人気フレーズは何首にも出てきそうなものだ。しかし、百人一首では二首一組に限られていた。同じ句が同じ場所で使われているのが十七組あり、一字だけ異なるのは三組あった。合わせて四十首である。これは藤原定家の仕掛けた謎と見て間違いなさそうだ。
百人一首のミステリーに興奮しているうちに、母に叱られくさくさしていた気持ちは晴れていた。明日もう一度和子に相談してみようと前向きな気持ちになった。




