七條家ホームパーティー
ホームパーティー当日になった。プラットホームから見渡すと、夕空が鮮やかな蜜柑色に染まっていた。薄墨色の雲がいくらか浮いているけれど、今にも消えそうなほど淡い。こんなおあつらえ向きの秋の夕暮れは久しぶりだ。どこからかヒヨドリの声が聞こえる。ここ最近、特ににぎやかだ。「いーよ、いーよ」と優しさを押し売るような声で鳴いていた。
海秋沙駅で降りて十五分ほど歩くと、胡桃色のマンションに着いた。
エレベータに乗って三階で下り、角部屋までまっすぐ歩いた。廊下はひっそりしていて、二人の足音しか聞こえない。
「あ、ここだね」と美月に小声で話しかけ、インターホンを押した。
ドア越しに何かが倒れたような音とくぐもった声が聞こえた。
ドアが開いて出てきたのは、小太りでナチュラルボブの女性だった。亜麻色のニットセーターと藍色のデニムを着ている。母と同年代だろうかと雪菜は思った。
「七條香織と申します。お母さんから話は聞いてるよ。今日はよろしくね」
香織の足に子どもが二人くっついていた。以前和子が話していたひ孫だろうか。男の子は手かけ猿のように香織の袖をつかんでこちらを見上げ、女の子はコアラのように香織の足につかまって顔を半分だけ出していた。
玄関に入るとほんのり藺草の香りがした。
すりガラスのドアに人影が見えた。ゆっくり開いて和子が出てきた。
「ほら、あなたたちもあいさつして」
和子がうながすと、男の子はぴょんと香織から離れて、
「朝陽です。五歳です」と挨拶した。明るい子のようだ。
女の子は指をくわえて覗いていたが、雪菜と目が合うと香織の足に顔をうずめた。
「ほらっ。名前は?」
香織が女の子の頭をぽんぽんと触ると、女の子はちょこんと顔を出し、雪菜から目をそらしたまま、
「柚葉……」と答え、また隠れてしまった。
ホールに上がった。雪菜は壁に飾ってある一枚の絵画の前に立った。くすんだ真鍮の額縁に入っている。天の川のような星々の中、月面を背景にシャチが跳ねる絵だった。月光や水しぶきなど細部に至るまで写真のような筆致で描かれている。
五時前に和子の教え子が二人やってきた。
一人は長谷川と名乗った。白髪交じりのおしゃれなオールバックのすらっとした男性だった。ジャケットの下の杏色のセーターがまぶしい。
そしてもう一人はなんと山本先生だった。学校ではたいていスーツなので、こうして私服姿を見るのははじめてだ。空色のポロシャツに淡いスラックスと、これまでの先生のイメージを覆すさわやかな服装だった。
「先生、なんでここに」
「アホ。それはこっちのセリフだ」
和子が言った。
「雪菜ちゃんの先生って、やっぱり山本くんだったのね」
自然公園で会ったあの日、雪菜が「山本先生」「古典」「磯鴫高校」と続けて出したのを聞いて、もしかしてと思ったらしい。
パーティーが始まった。机の上には茄子入りラザニア、トマトとアボカドのシーザーサラダ、ローストビーフ、野菜たっぷりのテリーヌ、フランスパンが並んだ。
ムードメーカーの長谷川は気さくな人だった。ビールを飲み始めてまもなく、
「トイレってどうして一人で行くのか知ってる?」と謎かけをして、
「思考と空想をするためだよ」と言ってみんなを笑わせたり、
「信じられないかもしれないけどさ、万有引力の法則って質量と距離だけで決まるんだよ。だから理論上はね、このグラスとラザニアの間にも働いてるってわけ」と出し抜けに難しい話もした。
勝利と和子は雪菜と同じく、オレンジジュースやお茶を飲んでいた。
「お二人はお酒飲まないんですか?」
雪菜がたずねると、七條夫妻は顔を見合わせ、雪菜の隣の和子が答えた。
「私が飲めなくなった日に、勝利さんも一緒に辞めるって言ってくれて、それ以来飲んでないの」
「すごいですね。勝利さん、辞めるの大変だったんじゃないんですか?」
「うーん……。そうでもなかったかなあ。煙草を辞めたときと同じだね。みんな、意志が強いねって褒めてくれるんだけど、結局のところタイミングだと思うよ」
「タイミングですか?」
「そう」と勝利にしては力強くうなずいて、
「振り返ってみたらさ、僕の人生で重要な決断っていくつかあったんだけど、自分で決めたというより、いくつかの条件が整ったからそう行動できただけだと思うんだよね」
「そうなんですね。母もお酒好きなんですけど、禁酒は難しいみたいなんですよ。タイミングが合えばできますかね?」
「心配?」
「まあ。でも楽しそうなので」
「そっか。優しいんだね。無理に辞めなくてもいいと思うけどね。お酒のない人生なんて信じられないと思っていたけど、禁酒して三日経つと体調が良くなったし、一週間もすればすっかり頭から抜けたんだよ。僕が四、五十年執着してきたお酒なんて結局その程度のものだったんだよね。タイミング次第だね」
勝利はそう言って立ち上がって、台所からワインを取って戻ってきた。彼が山本先生と長谷川に注ぐと、二人とも「待ってました」とうれしそうだった。三人はワインの原産や銘柄について話していた。
「雪菜ちゃん」と和子が内緒話をするように、
「ちなみにね、勝利さんが料理始めたのは、私が車いすになってからなのよ」
「もしかしてタイミングと言ったのは、実は照れ隠しだったりして」
「どうだろうねえ」
パーティーが始まって一時間も経たないうちに、山本先生の頭は真っ赤になっていた。スキンヘッドだから顔だけでなく後頭部まできれいに染まっているのがわかる。
「やまーん、マッチ棒みたいだぞ」と長谷川が茶化すと、山本先生は自分の頭をパシン、パシンと叩いた。学校では一度も見せたことのないひょうきんな姿だ。雪菜は目を疑った。
ラザニアはパスタよりもちもちした食感だった。秋茄子、チーズの焦げた薫り、ミートソースのこってりした風味が食欲をそそった。
野菜のテリーヌはカステラほどの大きさに切り分けられレタスに包まれていた。中にはトマト、キュウリ、パプリカがあり、そのあいだを寒天が埋めている。勝利か香織が前日から仕込んだのだろう。
ローストビーフはぜいたくチャーシューみたいな厚さで噛みごたえがあった。ソースはバーベキュー味と和風ニンニク味の二種類あったが、子どもたちのせいでバーベキューのはすぐなくなった。
雪菜は和子が食事に手をつけていないのが気になった。勝利が取り分けたラザニアやローストビーフ、どちらにも箸を入れた跡はあるけれど、香織や長谷川にきかれても、
「きちんと食べているよ。ありがとう」と答えるだけである。こってりした料理は体に負担があるのだろうか。
雪菜と美月が「満腹だね」と休憩していると、朝陽が遊びに来た。
「どうして月なの?」
「名前のこと?」
彼はこくりとうなずいた。美月は朝陽に向き直って、
「お月様を見たときみたいに、みんなが笑顔になれるためにだよ」
彼はごまかすような笑みを浮かべた。
「朝陽くんはお月様すき?」
「太陽の方が好き」
「どうして?」
「太陽は明るくて月は暗いから」
「お姉ちゃん、悲しいな」
美月が泣き真似すると、朝陽は天使のような笑顔を見せて、長谷川に「名前教えて~」と訊きに行った。
宴もたけなわ。長谷川、山本先生、香織はお酒のせいか叫ぶように話していた。何を訊いても許されそうな雰囲気だ。
「和子さん。山本先生は昔どんな生徒だったんですか?」
美月が便乗した。
「私も知りたいです」
「私たちは真実を知りたいんです」
和子が「山本くん」と呼びかけると、先生はお酒で赤くなった目を開いた。
「話してもいいの?」
「はい」と先生は答えた。
「そう?」と和子は意外そうに言ってゆっくりと話し始めた。
「若かりし日の山本くんはね、リーゼント頭の血気盛んな高校生だった。朝っぱらから血だらけで登校して職員室に連行されたり、よく警察の世話になったりと、とにかく目立つ生徒だったの。弱い者いじめを見過ごせないタイプで、自分を持っていたけれど、順序立てて話すのが苦手だったから、誤解されやすい子だったね。忍耐力はなかったかしら」
和子が言うと、先生は恥ずかしそうに口をゆるめた。
「赤点なのに補習に出てこなかったり、ようやく出てきても目離した隙に逃げ出すもんだから、ひっ捕まえて説教したり、放課後も課題が終わるまで居残り勉強させたの。時には取っ組み合いになって、他の先生に止められたのよ」
和子は雪菜が大げさだと感じるくらいの身振り手振りで話した。
「そんなこともありましたかね」
頭を掻いている山本先生に朝陽が近寄って、
「力の強い人が弱い人をたたいちゃいけないんだよ」
「はい。勉強になります」
二人のやりとりに、どっと笑いが起こった。
「夏休みではなかったと思うんだけど、とにかく暑い時期よ。職員室にいたら、山本くんが警察に補導されたって連絡があったの。普通なら引き取りに行くのは親御さんなんだけど、当時山本くんと折り合いが悪くてね。代わりに私が行ったのよ。部屋に通されたら、警察の人と山本くんが向かい合っていた。熊みたいな人でね、山本くんが他校の生徒を刃物で切りつけたなんて言うの。山本くんのワイシャツには血がついていないのに、否定もせず黙ったまま。だからすぐにわかった。誰かをかばっているんだな、ってね。事件になったらそれこそ将来に影響するでしょ。何とかしなきゃって思って、『この子はそんなことしません!』と叫んだの。フフフ、なんか変よね。生徒はぶすっとして何も言わないし、教師は興奮しているんだもの。今思い出しても、その熊の人が困っていたのがおかしくて」と和子は時折笑いをもらしたが、
「その日山本くんを家に送り届けたのは夜遅くだった。やっぱり親御さんが怒って、家に入れてもらえなかったの。だからここに連れてきてね、勝利さんと三人で話したの。学校で私が話しかけたら『うるせえ!』と突き放すのに、勝利さんには時間がかかりながらも自分の言葉を探していたからびっくりよ! でもいい機会でしょ? こんなチャンス、二度と来ないかもしれない。『嘘をつくなとは言わない。でもね、軽い嘘こそもっと大事なときに使いなさい』って言ったかしらね」
和子が山本先生にたずねるように言うと、
「先生はこんなことも言ってくれましたよ。『あなたがどんな選択をしても私だけは味方でいるから!』と。私にとっては、もう一度大人を信じてみようかと思った救いの言葉でした」
「なんか懐かしくなっちゃったねえ。あんなに短い夜ははじめて。こんな感じよ」と和子は和歌を朗詠した。
──夏の夜はまだ宵ながら明けぬるを雲のいづこに月宿るらむ
美月が小声で雪菜に、
「誰の歌? どんな意味?」
「清原深養父って人。清少納言のひいおじいちゃん。『夏の夜はまだ宵だと思っているうちに明けてしまった。こんなに早かったら月は沈む暇がない。月は一体雲のどこに宿っているのだろうね』という意味。夏の夜の短さを詠んだ歌」
「なるほど。ありがとう」
雪菜がふたたび和子を見ると、彼女はほほ笑んで、
「いいかしら? それから謹慎が明けてしばらくよ。山本くんが私のところにやってきて、七條先生みたいな古典の先生になりたいから勉強教えてくれ、なんて言うのよ。あんなに反発してたのに何があったんだろうと思ったら、山本くんはこんなこと教えてくれたの」
大人たちのみならず朝陽や柚葉も話に引き込まれているように見えた。
「当時山本くんは暴走族に入っていて、上から理不尽な命令を受けて悩んでいた時期だったらしいの。でも山本くんは警察に真実を話しに行った。それが正しいことだと思ったから、と彼は言ったの。でもさすがに傷害事件でしょう? だから友人が捕まっちゃって、それがきっかけで山本くんはグループから追い出されてしまったの。そして山本くんはこう言った──
『ずっと一緒にいようぜって約束したのに二年ももたなかったなんて情けないよな。この間先生言ったろ? 古典って千年以上前の言葉なんだって。本当にすごいことだよな』って。それまではこちらが身構えるくらいの目で睨んできたのに、その日は宝石のような目をしていたのを覚えてる。この子、こんな顔もできるんだなって感動したのよ」
和子が山本先生に
「結局浪人したのよね」とたずねると、先生はジェスチャーも交えて、
「はい。二年、予備校に通いました」
「青春の二年は長いでしょうけど、あなたにとっては特別な時間だったんじゃないのかしら?」
「そうですね……」と山本先生は虚空を見つめて、
「先生と同じ道に進んだ私ももうじき定年です。信念を持って生徒に向き合ってきたと思いますが、それでも寝食も忘れて一つのことに打ち込んだ経験はあまりないものですねえ。あの二年が最初で最後かなあ」
雪菜は和子の話を聞いて、また和子と山本先生のやり取りを見て、二人には二人だけの時間があったのだと知った。波間にたゆたう舟の上で、歩み寄ったりすれ違ったりしながら長い間話をしてきたのだろうか。
和子の言葉がきっかけで山本先生が古典の道を志し、先生のおかげで今度は雪菜が百人一首に夢中になっている。それだけではなく、雪菜と和子は親しく付き合っている。それらがトライアングルのように共鳴し合っているのに、何か因縁めいたものを感じた。
「山本先生」と美月が呼びかけて、
「先生のイメージがガラッと変わりました」
「そうか?」
「でもなんか損な立ち回りですよね。今の先生でいれば、人気出そうなのに」
先生は料理に視線を落とし、何やら考えている風だったが、
「誰かがやらなきゃいけない仕事もあるんだ」
「はあ」
「納得行かんか?」
美月がうなずくと、
「おまえにもいずれわかる」
「あともう一つあるんです。学校中の噂になっているんですけど、」と彼女はクラスの二、三人を「みんな」に変換するくらい大きく言って、
「うちの学校ってどういうわけか髪型というか身だしなみには寛容じゃないですか。もしかして先生が昔そうだったから、昔派手な髪型をしていたから、大目に見ているんですか?」
先生は口元をふっとゆるめ、
「どうかな?」とだけ答えた。
「あのねえ、みんなわかってないようだから教えるけど、俺みたいな優等生になれば校則なんてないに等しいんだよ」
「ええ~。長谷川さんは優等生だったんですか?」と美月がまぜっ返すように訊いた。
「あったりまえよ。俺はすべての教科ね、優が一つだけじゃ足りなくて三つか四つもらってたんだから。それに授業は全部一番前の席で受けてたからね」
「全部ですか?」
「そうよ。国語も、算数も、体育も全部だよ」
「もう何からつっこんでいいかわからないんですけど」
馬が合うのだろう。長谷川と美月は流暢なやり取りをしていた。
雪菜の帰る時間が近づいてきた。
朝陽と柚葉が遊びに来た。ちびっ子たちはさっきから香織のグラスを倒したり、山本先生のおなかを触ったり、いたずらばかりしている。こらしめてやろうと、雪菜が今話題のお笑い芸人のものまねをしたら、朝陽は「きんにく、きんにく」と大はしゃぎだった。柚葉もようやく慣れてきたらしい。二人で山本先生や長谷川のところに行き、「どっちなんだい?」「どっちなんだい?」と跳ねていた。




