雪月花
美月と花音がお月見の準備をしている間、雪菜は一人外で待つことにした。花音は美月の妹だ。
リビングの窓を開けると、足を伸ばせるくらいの濡れ縁がある。その先には庭園が広がる。雪菜は腰を下ろし、後ろに伸ばした両腕にもたれ、ぼんやり眺めた。
美月の両親の笑い声が聞こえる。夜風が美容師のように髪を触っている。
花水木の影が手前の灯籠に落ちていた。おんぶしてもらっているみたいでうれしそうに揺れている。あちらの南天の実がなるのはもっと寒くなってからだろうか。毎年同じことを思う。お月見が始まったら忘れてしまう。
木製のサイドテーブルが設えられ、お団子を乗せた三方と芒を挿した花瓶が置かれた。
雪菜が考えなしに真ん中に座ったので、美月と花音は左右に座った。
「雪菜ってさあ、今好きな人いるの?」
「うん。いるよ」
「え、いるの? 教えてよ」
「絶対誰にも言わない?」
「うん。約束する」
「百人一首」
「なんだよ!」
「今の私に必要なのは、恋じゃなくて愛だから」
「どうして百人一首なんですか?」
花音が訊くと、代わりに美月が答えた。
「この人、最近ハマってるんだよ。学校で百人一首のテストがあったんだけど、満点は雪菜だけだったし」
お団子に手を伸ばしていた花音が「ええっ!」と頭の先から抜けるような声を出した。
「うちの親も友達もみんな驚くんだよね」
「そりゃあ驚きますよ」
「そんなに意外かなあ」
「いえ、そういうわけじゃ……。あ、でも、和歌に詳しいとこういうとき楽しめそうですよね。お月見の歌で何かおもしろいのないんですか?」
「百人一首じゃないけど、こんな歌があるよ。月を八個も入れちゃいました、ってやつ。
──月月に月見る月は多けれど月見る月はこの月の月」
「どんな意味ですか?」
「中秋の名月のことだよ。『毎月毎月、月を鑑賞できる月は多いけれど、名月を見られる月は今月のこの月なんだよね』という歌」
美月が口をはさんだ。
「この歌に出てくる『月』ってさあ、moonの場合もあればmonthの場合もあるわけじゃん? 外国人が読んでわかるものなのかな?」
「ああ、そう言われてみれば……。日本語に親しんでいる人じゃないとわからないかもね」
「日本人でも解説聞かなきゃわかんないよ。雪菜は百人一首覚えすぎて、百人一首脳になってるからわかるだけだよ」
「というかさ、美月ってほんと想像力が豊かだよね」
「そう?」
「うん。前から思ってた」
「でもさあ、なんで八回なんだろうね。私ならもうちょっとがんばって、ぴったし十回にするかも」
「ああ、これには理由があってね、中秋の名月は旧暦の八月十五日の月なんだよ。だから八回」
「へえ。適当に詠んだわけじゃないんだね。百人一首には月の歌ないの?」
七條夫妻と百人一首の話をして以来、美月も興味を持ち始めたらしい。こうして尋ねる機会が増えた。
「いろいろあるけど、ぱっと頭に浮かんだのはね、藤原顕輔っていう人の歌」
雪菜が答えると、まず美月が正座し、花音がならった。二人が「お願いします」と仲居さんのようにお辞儀したのがおかしかった。
──秋風にたなびく雲の絶え間より漏れ出づる月の影のさやけさ
「暗記しているのがすごい」と美月は笑って、
「どういう意味なの?」
「えっとね、『秋風にたなびく雲の切れ間から漏れ差してくる月の光の、なんと清らかなことでしょう』という意味だよ」
「すごくきれいな歌ですね。ちょうど今の景色そのまんまですね」
美月は歌を調べているのか、じっとスマホを見ていたが、
「『たなびく』とか『漏れ出づる』とか聞くだけでさ、おっ、おっ、ってなるじゃんね。でも最後の『影のさやけさ』って反則じゃない?」
「反則?」
「だって四句目までどんなにひどくても、五句目で絶対にいい歌に変わるじゃん。だって『影のさやけさ』だよ」
「たしかに~」
「私、百人一首の中でこの歌が一番好きかも」
「決め手は『影のさやけさ』?」
「そうそう」と美月は笑って、
「この歌って芸術点高いの?」
「うん、富士山より高いと思う。何のレトリックも使ってないのに芸術の域に達している歌だと思う」
「ん? なんか矛盾してない?」
言葉足らずだったと雪菜は思った。美月の言葉を借りれば百人一首脳になって当たり前のことが増えただけで、成績の差こそあれ、神岡姉妹は授業でしか習っていないわけだし、指導室に通う前の自分と変わらないのかもしれない。
「レトリックは和歌の表現の手段なだけで、使わなきゃいけないってわけじゃないんだよ。この歌は聞いただけで情景が浮かぶでしょ。ひっそり澄み切った空気、夜長を彩る虫の音、風になびく雲、そこからふと現われる月の清かさとかね。つまりさ、レトリックを使う必要がないくらい完成された歌なんだよ」
「ああ、そんな見方もあるんだね。私、体裁を保つために使わなきゃいけないと思ってた」
それから会話は減り、三人で静かに月を眺めた。
高校生の雪菜は笑いが絶えない関係のほうが好きだ。しかし今夜は特別だ。沈黙を楽しめる三人の関係に、時間の束縛から放たれていつまでも思い出に浸っているような安らぎを覚えた。月の光に導かれたような、和歌に誘われたような。言葉なき会話は成熟した人間関係にのみ許されるのだろうか。今年の中秋の名月は雄弁だった。
雪菜を現実に戻すように美月が言った。
「そうだ! ちょうどお月見してるんだしさあ、私たちも短歌作ろうよ」
「ええ〜。そんな簡単に作れるかなあ」
「始めと終わり決めてさ、三人で一首作るなら出来そうじゃない?」
「ああ、なるほど」
「うんうん。いいかも」と花音も賛成した。
「雪菜。最初の句、決めてよ」
「うーん。じゃあ、月見団子だから『月見餅』で」
「いいね。花音、最後決めて」
「あっ!」
「花音ちゃん、びっくりするから隣で調子っぱずれな声出すのはやめて」
「あ、すみません。さっきの『影のさやけさ』とかはどうですか?」
「いいけど、最初と最後で方向性が違いすぎる」と美月はけらけら笑っていたが、
「それじゃあ、できた順に言っていこうよ」
「オッケ~」
最初にできたのは美月だった。
「閃きました。『噛めばもちもち』でお願いします!」
「お姉ちゃん、二句目無駄にしちゃっていいの?」
「無駄じゃないよ。韻を踏んでるし、月見餅の説明にもなってるでしょ」
「あ、そっか」と花音はうなずいた。
雪菜はマシュマロのような花音の横顔を見た。彼女は三人の中で一番勉強ができる。けれども思いのほか抜けているところがあってよく美月に丸め込まれている。
花音から月へと視線を戻したとき、今の状況にぴったりの言葉が浮かんだ。
「三句目、『望月の』でお願いします」
「それどういう意味なの?」
「満月のことだよ」
「おおっ、すごい! 餅から満月につながった」
月にわずかに雲がかかっていた。その雲がようやく風に流されたと思えば、また新しい雲が月をかじるように現れる。雲の焦らしもお月見の楽しさの一つみたいだ。
「雪菜さん。古文で雲がかかっていないみたいな表現ってないんですか?」
「陰りがないみたいな?」
「はい。そうです」
「『くまなし』だよ」
「それじゃあ……。『くまなき宵の』でお願いします」
「花音ちゃん、当意即妙だね」
雪菜に続いて美月が言った。
「よく『宵』って言葉出てきたよね。花音さ、みすずとか、たつじとか、読みすぎなんじゃないの?」
美月が共通の知人みたいに言うので、何のことかと思ったが、
「花音ちゃん、詩好きなの?」
「はい。最近興味持ち始めたばかりであまり詳しくないですけど」
雪菜の知らない花音だった。
「あ〜っ!」と花音が脇の下を突っつかれたような声を出した。
「なんかすごい声が出た」
雪菜が笑うと、美月があきれたように訊いた。
「今度は何?」
「私たちの名前、一字ずつつなげると『雪月花』になる!」
「え、ほんと?……おお! よく気づいたね」
美月が音楽番組のMCのように言った。
「それでは聞いてください。雪月花のデビュー曲で、
──月見餅噛めばもちもち望月のくまなき宵の影のさやけさ」
「おおっ! なんだかそれっぽい」
「それにしても私たちの歌、もちが多すぎませんか? 四つもありますよ」
「しかも渋滞してるしね」
雪菜につづいて美月が言った。
「上の句にはさ、さっきの中秋の名月の歌みたいに溢れんばかり入ってるのに、下の句ではさあ、突然興味失くしたみたいに一個も入ってないなんて、なんだか私たちらしいよね」
「だからこんなに餅たくさん残っちゃったんだよ」と花音が河豚のように口をふくらませた。
「ねえ雪菜、月見餅の歌を訳すとどうなるの?」
「ええとね。『月見餅を食べると、柔らかくもちもちしていました。その餅ではありませんが、せんべえのように見える望月にまったく陰りのない宵には、月光がなんと美しく見えることでしょう』だね」
「きれいにまとまりましたね」
「いやいやいやいや、まとまってないって! せんべい、どっから出てきた!」
そのあとも事あるたびに笑い、夜は更けて行った。




