源俊頼と橘雪菜
秋彼岸の墓参りに行った翌朝。
雪菜はリビングに入るなり、ふてくされるように、
「お母さん、暇〜」
「何よ、朝っぱらから。一日始まったばかりじゃない」
Tシャツにハーフパンツ姿の伊澄は息を切らしながら言った。フラメンコの練習をやっていたようだ。二階まで床を鳴らす音が聞こえていた。
フラメンコは母が五十を超えてからの趣味だ。来年の暮れには初舞台があるらしい。一年以上先だから気が早いと思うけれども、ここ最近身が入っている。
伊澄はソファーに腰をかけ、汗をぬぐいながら、
「最近一人でふらふら出かけて行くから、やっと趣味ができたかと思ったのに。鳥でも見に行けば?」
「おととい行ったからいい」
「それなら美月ちゃんでも誘えば? どうせあの子も暇でしょ?」
「連絡したけど、読みたい本があるからって断られた」
「あらま。めずらしいこともあるのね」
「最近哲学に夢中だから」
「へえ……。あの子が哲学ねえ。むかしは真っ黒で男勝りでいつもあんたの手引いてたのにねえ」
「本たくさん読んでてすごいよ」
「雪菜も学問に打ち込んでくれるなら、本くらい安いものなんだけど」と母は茶化すように言った。
「ほんと?」
「もちろんよ」
「じゃあ、買ってほしい本があるの」
「ラノベとか漫画ならお小遣いで買いなさいよ」
「違うよ。百人一首の本」
「ああ、百人一首、それなら……あれっ? 本持ってなかったっけ?」
「前見せたやつは図書館で借りたやつ。もう二回も借り直したんだよ。とても良い本なんだけど、他にも借りたい人がいるだろうから遠慮した方がいいかなと思って。でね、自分の買いたいなって思ってたの」
「別に遠慮しないでもいいんじゃない?」
「ええ〜。買ってよ! ここ最近問題集や参考書を買ってもらってないし、百人一首も古典に含まれるでしょ。学問じゃん! さっき学問するなら買ってくれるって言った」
伊澄はしまったと渋い顔をしたが、
「うん。わかった。あんたが勉強するなんてめずらしいもんね。いいよ」と財布を取ってきた。
「いくらするかわからないから、ほらっ。好きなの買っておいで」と気前よく五千円くれた。
雪菜は開店と同時に本屋に入った。大きい書店なだけあって百人一首の本はたくさんあった。図書館に置いてあるような本――和歌がくずし字で書かれたり活字でぎゅうぎゅう詰めの本はなく、フルカラーの本、イラストの多い本など初学者向けのものが多かった。欲しい本がたくさんあって、どれを買うか迷ったけれど、明日からの生活がどう変わるかを想像しながら選ぶのは楽しかった。
雪菜が帰宅すると、伊澄が台所でニンニクを潰していた。まな板の横には、前日に雪菜が道の駅で選んだ野沢菜漬けと、パスタの束やベーコンが並んでいた。
雪菜はカウンターにレシートと小銭を置いた。
「ここに置いとくからね」と二階に行こうとすると、
「待ちなさい!」と呼び止められた。
伊澄は無言でレシートを見ていたが、顔を上げてニコッと笑った。
「これはどういうことかしら?」
母は台所から出てきた。手には包丁が握られ、刃先が弧を描くように揺れている。
「違うの」
伊澄は不思議そうに、
「何が違うの?」
「どちらか選ばなきゃいけないってわかってたの。でもね、ほらっ、どっちも解説が良くて、それぞれに良さがあって……。だからどうしても選べなかったんだよ」
雪菜は伊澄に買ってきた本を出すように言われ、食卓に並べた。
「お母さん、落ち着いて聞いてね。この『一冊でわかる物語百人一首』は百人一首に特化した本で、歌人の人生や詠まれた背景が物語形式で書かれていてわかりやすいの。物語と言ってもフィクションじゃなくて歴史に忠実でね、細かいところまで網羅してるんだよ。そしてこっちの『決定版 和歌の鑑賞事典』は和歌のアンソロジーなんだけど、スサノオノミコトから俵万智まで千首以上入ってるの。毎日三首覚えたら一年でマスターできるでしょ? だから勢いで買っちゃった」
「勢いで買わないでって毎回言ってるでしょ! 『一冊でわかる――』って本なのに二冊買ってきてどうするのよ!」
「学問がしたくて」
「学問って言えば許されると思わないで!」
母はそのあとも不平を言い、たまに雪菜を睨んでは、
「今、どんな顔してるのよ!」と反応に困る質問をした。
昼食後雪菜は部屋に戻り、さっそく『一冊でわかる物語百人一首』を開いた。出てきたのは七十四首目の源俊頼の歌だった。
──憂かりける人を初瀬の山おろしよはげしかれとは祈らぬものを
(冷淡なあの人をなびかせてくださいと、初瀬の観音様に祈りこそしたが、初瀬の山おろしよ。ひどくなれとは祈らなかったのに)
舞台は奈良県長谷寺。聞き覚えのある名前だ。本堂に十一面観音菩薩があるらしい。日本初の愚痴作品である『蜻蛉日記』や元祖オタク女子の『更級日記』など女流文学にも登場する名刹だそうだ。
それにしても観音様ってどんな仏様だろう。何か重要な意味がありそうだ。雪菜はパソコンを開いた。
調べてみるとおもしろいことがわかった。しばしば耳にする阿弥陀如来様は極楽浄土に導いてくれる仏様であるのに対し、観音様は恋の願掛けなど現世利益の仏様と役割が異なるという。なるほど、だから初瀬山は女性に人気があったのかと雪菜は合点が行った。
和歌をなぞるように見ると、「憂し」「山おろし」「はげし」と強い言葉が散らばっている。雪菜はさっそく音読した。すぐに意図がわかった。三つのキーワードに注目して読むと、一つの物語が浮かび上がるのだ。
男は恋をしていた。しかし、恋仲になりたいと思っていた女は取り合ってくれない。困った男は何か良い方法はないかと模索する。男は閃いた。女がなびいてくれるように、霊験あらたかな観音様にお祈りしたのだ。ところが、女の態度は山から吹き下ろす風のように冷たくなり恋路は悪化する。そして男は歌を詠んだ。祈ったのにうまくいかなかったと、観音様を恨む歌を。
願いを叶えてくれなかった神仏を非難したい気持ちは雪菜も経験がある。それでも言葉にするのはためらわれた。
小学生の 秋彼岸の墓参りに行った翌朝。
雪菜はリビングに入るなり、ふてくされるように、
「お母さん、暇〜」
「何よ、朝っぱらから。一日始まったばかりじゃない」
Tシャツにハーフパンツ姿の伊澄は息を切らしながら言った。フラメンコの練習をやっていたようだ。二階まで床を鳴らす音が聞こえていた。
フラメンコは母が五十を超えてからの趣味だ。来年の暮れには初舞台があるらしい。一年以上先だから気が早いと思うけれども、ここ最近身が入っている。
伊澄はソファーに腰をかけ、汗をぬぐいながら、
「最近一人でふらふら出かけて行くから、やっと趣味ができたかと思ったのに。鳥でも見に行けば?」
「おととい行ったからいい」
「美月ちゃんでも誘えば? どうせあの子も暇でしょ?」
「連絡したけど、読みたい本があるからって断られた」
「あらま。めずらしいこともあるのね」
「最近哲学に夢中だから」
「へえ……。あの子が哲学ねえ。むかしは真っ黒で男勝りでいつもあんたの手引いてたのにねえ」
「本たくさん読んでてすごいよ」
「雪菜も学問に打ち込んでくれるなら、本くらい安いものなんだけど」と母は茶化すように言った。
「ほんと?」
「もちろんよ」
「じゃあ、買ってほしい本があるの」
「ラノベとか漫画ならお小遣いで買いなさいよ」
「違うよ。百人一首の本」
「ああ、百人一首、それなら……あれっ? 本持ってなかったっけ?」
「前見せたやつは図書館で借りたやつ。もう二回も借り直したんだよ。とても良い本なんだけど、他にも借りたい人がいるだろうから遠慮した方がいいかなと思って。でね、自分の買いたいなって思ってたの」
「別に遠慮しないでもいいんじゃない?」
「ええ〜。買ってよ! ここ最近問題集や参考書を買ってもらってないし、百人一首も古典に含まれるでしょ。学問じゃん! さっき学問するなら買ってくれるって言った」
伊澄はしまったと渋い顔をしたが、
「うん。わかった。あんたが勉強するなんてめずらしいもんね。いいよ」と財布を取ってきた。
「いくらするかわからないから、ほらっ。好きなの買っておいで」と気前よく五千円くれた。
雪菜は開店と同時に本屋に入った。大きい書店なだけあって百人一首の本はたくさんあった。図書館に置いてあるような本――和歌がくずし字で書かれたり、また活字でぎゅうぎゅうに詰まった本はなく、フルカラーの本や語り口調の本など読みやすい本が多かった。欲しい本がたくさんあって、どれ買うか迷ったけれど、明日からの生活がどう変わるかを想像しながら選ぶのは楽しかった。
雪菜が帰宅すると、伊澄が台所でニンニクを潰していた。まな板の横には、前日に雪菜が道の駅で選んだ野沢菜漬けと、パスタの束やベーコンが並んでいた。
雪菜はカウンターにレシートと小銭を置いた。
「ここに置いとくからね」と二階に行こうとすると、
「待ちなさい!」と呼び止められた。
伊澄は無言でレシートを見ていたが、顔を上げてニコッと笑った。
「これはどういうことかしら?」
母は台所から出てきた。手には包丁が握られ、刃先が弧を描くように揺れている。
「違うの」
伊澄は不思議そうに、
「何が違うの?」
「どちらか選ばなきゃいけないってわかってたの。でもね、ほらっ、どっちも解説が良くて、それぞれに良さがあって……。だからどうしても選べなかったんだよ」
雪菜は伊澄に買ってきた本を出すように言われ、食卓に並べた。
「お母さん、落ち着いて聞いてね。この『一冊でわかる物語百人一首』は百人一首に特化した本で、歌人の人生や詠まれた背景が物語形式になってわかりやすかったの。物語って言うと小説みたいだけどそうじゃなくて、歴史に忠実でね、細かいところまで網羅してるんだよ。そしてこっちの『決定版 和歌の鑑賞事典』は和歌のアンソロジーなんだけど、スサノオノミコトから俵万智まで千首以上入ってるの。毎日三首覚えたら一年でマスターできるでしょ? だから勢いで買っちゃった」
「勢いで買わないでって毎回言ってるでしょ! 『一冊でわかる――』って本なのに二冊買ってきてどうするのよ!」
「学問がしたくて」
「学問って言えば許されると思わないで!」
母はそのあとも不平を言い、たまに雪菜を睨んでは、
「今、どんな顔してるのよ!」と反応に困る質問をした。
昼食後雪菜は部屋に戻り、さっそく『一冊でわかる物語百人一首』を開いた。出てきたのは七十四首目の源俊頼の歌だった。
──憂かりける人は初瀬の山おろしよはげしかれとは祈らぬものを
(冷淡なあの人をなびかせてくださいと、初瀬の観音様に祈りこそしたが、初瀬の山おろしよ。ひどくなれとは祈らなかったのに)
舞台は奈良県長谷寺。聞き覚えのある名前だ。本堂に十一面観音菩薩があるらしい。日本初の愚痴作品である『蜻蛉日記』や元祖オタク女子の『更級日記』など女流文学にも登場する名刹だそうだ。
それにしても観音様ってどんな仏様だろう。何か重要な意味がありそうだ。雪菜はパソコンを開いた。
調べてみるとおもしろいことがわかった。しばしば耳にする阿弥陀如来様は極楽浄土に導いてくれる仏様であるのに対し、観音様は恋の願掛けなど現世利益の仏様と役割が異なるという。なるほど、だから初瀬山は女性に人気があったのかと雪菜は合点が行った。
和歌をなぞるように見ると、「憂し」「山おろし」「はげし」と強い言葉が散らばっている。雪菜はさっそく音読した。すぐにその意図がわかった。三つのキーワードに注目して読むと、一つの物語が浮かび上がってくるのだ。
男は恋をしていた。しかし、恋仲になりたいと思っていた女は取り合ってくれない。困った男は何か良い方法はないかと模索する。男は閃いた。女がなびいてくれるように、霊験あらたかな観音様にお祈りしたのだ。ところが、女の態度は山から吹き下ろす風のように冷たくなり恋路は悪化する。そして男は歌を詠んだ。祈ったのにうまくいかなかったと、観音様を恨む歌を。
願いを叶えてくれなかった神仏を非難したい気持ちは雪菜も経験がある。それでも言葉にするのはためらわれた。
小学生のころ心霊番組が好きだったせいもあるのだろう。負のエネルギーに満ちた言葉を使うと、魂が歪でどす黒いものになってしまうと、高校生になった今でも信じている。そんな雪菜にとって、仏様への恨みを言葉にした俊頼の発想は大胆であり新鮮だった。堂々と詠うダイナミズムやその厚かましささえ尊く思える。規則に縛られている自分がちっぽけに感じた。
雪菜は俊頼に導かれるように、
「だってあなた、叶えてくれなかったじゃないですか」と神様のすね毛を一本抜く程度の歌を作りたくなった。頭を掻いたりうなったりしながら、ノートに書いては消してを繰り返した。十分もかからずに歌ができた。
──つらきこと神のみわざと聞こゆれどなくばよきにと思ひぬるかな
(人生にとってつらいことは神様が与えた試練だとよく聞くけれど、それなら神様がいなかったら今より生きやすくなるのでは? と思ってしまうものだなあ)
世紀の大傑作ができたと雪菜はにんまりしたが、音読しようと思ったとたん、ずんと肩が重くなった。勢いで作ってしまったけれどこれは……。すね毛を抜くどころか、存在否定の歌じゃないか。雪菜は急いで消して、すみません、すみませんと手を合わせた。ころ心霊番組が好きだったせいもあるのだろう。負のエネルギーに満ちた言葉を使うと、魂が歪でどす黒いものになってしまうと、高校生になった今でも信じている。そんな雪菜にとって、仏様への恨みを言葉にした俊頼の発想は大胆であり新鮮だった。堂々と詠うダイナミズムやその厚かましささえ尊く思える。規則に縛られている自分がちっぽけに感じた。
雪菜は俊頼に導かれるように、
「だってあなた、叶えてくれなかったじゃないですか」と神様のすね毛を一本抜く程度の歌を作りたくなった。頭を掻いたりうなったりしながら、ノートに書いては消してを繰り返した。十分もかからずに歌ができた。
──つらきこと神のみわざと聞こゆれどなくばよきにと思ひぬるかな
(人生にとってつらいことは神様が与えた試練だとよく聞くけれど、それなら神様がいなかったら今より生きやすくなるのでは? と思ってしまうものだなあ)
世紀の大傑作ができたと雪菜はにんまりしたが、音読しようと思ったとたん、ずんと肩が重くなった。勢いで作ってしまったけれどこれは……。すね毛を抜くどころか、存在否定の歌じゃないか。雪菜は急いで消して、すみません、すみませんと手を合わせた。




