和子先生の青空教室
九月も半ばを過ぎた。最高気温は下がってきたものの、まだ残暑が厳しい。雪菜はこの日も海秋沙自然公園に向かった。
野鳥の森を抜ける手前を右に折れ、黄花秋桜の咲く小径を道なりに進み、池のほとりに着いた。
「あっ! こんにちは」
雪菜が駆け寄ると和子はくしゃっと表情を崩して、
「雪菜ちゃん、今日も元気ね。ひと月ぶりくらいかしら」
「そうですね。タイミング悪かったんですかね。ちょくちょく来ていたんですけど、見かけませんでした。もし良かったら、連絡先交換しませんか?」
雪菜は誘われるよりも誘うほうが多い。七條夫妻の気安さもあって深く考えずに提案したのだが、二人ともぽかんと口を開け、宇宙人に遭遇したような顔になった。
「あ、すみません。急すぎましたかね。いやでしたら断ってください」
「ううん。そういうわけじゃないの。連絡取れたら待ち合わせできるのにねって、勝利さんとも話していたのよ」と和子はほほ笑んで、
「でもさすがに私たちから訊くわけにはいかないでしょ。困らせちゃうだろうし。だから雪菜ちゃんから言ってくれてうれしかったの」
「ええ~、困るなんてないですよ。せっかく知り合えたのに、すれ違いで会えないのはもったいないじゃないですか。時間合わせましょうよ」
「そうね。そうしましょう」
勝利はポーチから、和子はショルダーバッグから取り出した。
「お二人ともスマホなんですね」
「そうなの。せっかく娘がプレゼントしてくれたんだけど、よくわからないのよね」
勝利が補った。
「この前和子さんと一緒にスマートフォンの解説動画を見たんだよ。でも早口で聞き取りにくいし、ほんと参っちゃってね」
「娘も教えてくれたんだけど、私たちの覚えが悪いものだから、いらいらしているのが伝わってきてね」と和子は口を押さえながら笑って、
「なんとかしたいんだけど、結局今までどおり、娘や孫、ひ孫たちとビデオで話したり、メッセージ送ったりするくらいなの」
雪菜はパソコンとにらめっこしている二人の姿を思い浮かべた。勝利が難しい顔であごを触って、和子が眼鏡のテンプルに手をかけてのぞき込んでいる。二人で「困ったねえ……」と悩んでいたのだろうか。
「この前、百人一首のコツ教えていただいたので、もし私でよければ今度スマホの授業しましょうか?」
「本当? ありがとう」
「ひ孫さんもいらっしゃるんですね」
「うん。二人ね」
「おいくつなんですか?」
「五歳と三歳よ」
「かわいい頃ですね。目に入れても痛くないって本当ですか?」
「そうね。本当に入れたら痛いんだろうけど、」と和子は冗談も生真面目に拾って、
「金切声ではしゃぎまわる姿もかわいいし、転んで大泣きしている姿にも癒されるの。でも一番うれしいのは、泣き出しそうな顔で『おばあちゃん……』って近くに来てくれるときかしら」
「これは素朴な疑問なんですけど、子どもたちには勝利さんと和子さんどっちが人気あるんですか?」
「どっちだろう?」と勝利は視線を泳がせたが、和子が断言するように言った。
「それは勝利さんよ。孫もそうだったし、朝陽も柚葉も、」とおそらくはひ孫の名前を言って、
「勝利さんの膝を取り合うように座るの。横綱が賜杯を持つような顔して大事に抱いているのがおかしいのよ」
二人ともいいおじいちゃん、おばあちゃんをしていそうだ。雪菜は心が温かくなった。
向こう岸の葦原から鳥や虫の声が聞こえる。のどかな昼下がりだ。
「そういえば雪菜ちゃん、この前百人一首の話してたでしょ? 帰宅してすぐに和子さんが褒めてたんだよ。センスがあるって」と勝利が言った。
「え〜、ほんとですか? 自分では要領悪いと思ってるんですけど」
雪菜は面映ゆさから軽く答えたけれど、和子は雪菜を見据えて、
「ううん。和歌って聞くだけで蕁麻疹が出たような顔をする生徒が多いのに、楽しそうに話す雪菜ちゃんはめずらしかった。あなたはきっと素直な子だから、スポンジのようにたくさん吸収できるんじゃないかな」
「へえ。僕は気づかなかったけど、たくさんの生徒見てきたからわかるんだね」
「そうかもね」
「勝利さんも昔、百人一首を覚えたんですか?」
「僕の場合は覚えたんじゃなくて、覚えさせられたんだよ」と彼は笑って、
「和子さんの一番好きな歌はどれなの?」
「私?」
「うん。僕なんかは百人一首といえば、『田子の浦にうち出でて見れば白妙の』とか『玉の緒よ絶えなば絶えねながらえば』の有名どころを思い出すけど、教師視点だと変わるのかなと思ってね」
雪菜はいつ百人一首の話をしようかと探っていただけに、彼のさりげない気配りに感心した。
「年を取るにつれて変わってくるものだけど、」と和子は和歌を暗唱した。
──世の中は常にもがもな渚こぐ海士の小舟の綱手かなしも
「どんな意味なの?」
「『世の中は変わらないでいてほしいものだなあ。この渚を漕いで行く漁師が浜辺から、小舟の舳先にくくりつけた綱を引いているのを見ると、しみじみいとおしく感じられるなあ』という意味なのよ」
「へえ。いぶし銀みたいな歌だねえ」
「そこがいいの」
「和子さん、この歌には何かおもしろいエピソードないんですか?」と雪菜が口をはさんだ。
「そうねえ。これは源実朝の歌なんだけど」
「ええっ! 実朝って歌人なんですか?」
「そうよ。実朝は歌人としてとても優秀だったのよ」
「そうなんですか……。まったく知りませんでした」
「残念ながらこの歌にあるような平和な日は続かなかった。彼は二十八歳で甥に暗殺されて悲劇の運命をたどったの。私ね、この歌を読んでいると、この町のものとは違う海の香りを感じるのよ。このまま平和な世の中が続いてほしいという願いと、漁師が引き綱を引く日常的な風景の調和が美しいと思わない?」
雪菜はわかるような、わからないような、あいまいな理解だったけれども、
「はい。そうですよね。実朝が悲劇の将軍だったのは授業でも習いましたけど、歌人だったなんてほんとびっくりですよ」
「百人一首には悲劇の歌人が多いから」
「何か意図があるんですかね」
「雪菜ちゃん、百人一首がどうやってできたか知ってる?」
「本にも書いてあったんですけど、歴史書みたいな文体に打ちのめされてしまいまして。詳しく知らないんです」
「入り組んでいるからわかりにくかったかな? 後鳥羽上皇と藤原定家の関係に注目するときれいに整理できるのよ」
「そうなんですか? もしよかったらなんですけど……」
「やってみる?」
「はい。お願いします」
和子は変わらずに車椅子の手すりに手をのせていたけれど、いつの間にか丸い背中が伸びていて、凛とした口調で話し始めた。
「定家の和歌の才を見出したのは後鳥羽上皇なの。定家は和歌所の役人に登用されたり、『新古今和歌集』の選者に抜擢されたりと、歌壇の頂点へとのぼりつめていく。でも、次第に二人のそりは合わなくなるの。定家は和歌になると相手を立てられず、後鳥羽上皇もまた強いこだわりがあった。上皇が『新古今和歌集』の選歌に口を出すようになると、二人は陰口を言い合う関係になってしまう。そして歌会で定家が上皇批判ともとれる歌を詠んだものだからさあ大変。定家は謹慎処分を言い渡されるの」
「貴族とはいえ上皇批判は問題ですよね」
「そうよね。一方、上皇を取り巻く環境もいいものとは言えなかった。百人一首に選ばれた彼の歌にもそれは表れているの」
和子はふたたび和歌を暗唱した。
──人もをし人もうらめしあぢきなく世を思うゆゑにもの思う身は
「『人が愛しくもあり、恨めしくもある。世の中をつまらないと思うせいで、あれこれ思いわずらってしまう私には』という意味ね。鎌倉幕府に圧されて朝廷の力が衰えている時期でね、この歌からもわかるとおり、上皇は人間に対して矛盾する二つの感情を持っていた。そして彼は一二二一年に幕府を討伐しようと承久の乱を起こす。ところが、そのかいむなしく朝廷側は敗れ、彼は隠岐に流されてしまう」
「隠岐だか壱岐だかに流されたって授業でよく聞いたけど、どれくらいの刑の重さなの?」と勝利が訊いた。
「天皇経験者に死刑はタブーだから、流刑が最高刑よ」
「へえ。知らなかったなあ」
「承久の乱は学校でも習いましたけど、そこまでくわしく教えてもらいませんでした」
「そうなの?」
「はい。あ、でも、定家はどうなったんですか?」
「定家の境遇は好転していってね、『新勅撰和歌集』の選者になるの。選者に選ばれたのは定家一人だったから、今度は自由に選歌できるはずだった」
「はずだった?」と勝利が素早く反応した。
「そう。定家は優れた歌人である後鳥羽上皇の歌も入れたかったけどできなかった」
「あっ、そうですよね。だって鎌倉幕府からしたら上皇は敵ですもんね」
「そうよね。そして月日は流れて、定家は息子の義父である蓮生上人からこんな依頼を受けたの。小倉山荘の襖に和歌を書いた色紙を貼りたいからその百首選んでほしい、と。これまで選者として制約のあった定家にしてみればやっとの悲願よ。彼が政治のしがらみなく選んだ百首こそ、小倉百人一首なのよ」
「そういうことだったんですね。和子さんの説明、すんなり頭に入ってきました」
「でもね、」と和子は含みをもたすように一呼吸置いて、
「今の話だときれいにまとまりすぎていない?」
「そう言われてみれば……。なんだか台本通りの気さえしてきました。実際は違うんですか?」
「そうなのよ。百人一首の九十九首目は後鳥羽院、百首目は順徳院になっているでしょ? これは天皇の死後につけられる諡と呼ばれるものなの。二人の諡が付けられたとき、定家はすでに亡くなっていたから、それを彼が知っていたら変でしょう? つまり、百人一首は定家の死後に再編集された、ということ。定家は出世欲の塊のような人だったから、子孫の地位に気を配らず、鎌倉幕府に睨まれる選歌をしたとは考えにくいのよ。だから今ではね、後鳥羽院と順徳院の歌が加えられたのは、子の為家の時代になってからだろうと考えられているの」
雪菜は子どものころからずっと、百人一首は定家が選んだアンソロジーだと信じてきた。しかしその成立のみならず、多くのミステリーを残していたなんて目から鱗だった。
「私さっき、百人一首は山荘の襖に貼るために選んだ百首だ、って言ったでしょ。そしたら、おかしな点が出てこない? どうして悲劇の歌人が多いのかしらね」
「あっ! そっか。縁起が悪いですよね。私なら順風満帆な人生を送った歌人を選ぶと思います」
「そうよね。私は和歌を鑑賞するのも楽しいけれど、百人一首に仕掛けられた謎解きも醍醐味の一つだと思ってるの。雪菜ちゃん、挑戦してみたらどうかしら」
「はい、やってみます。やっぱり百人一首って奥深いんですね。勉強するのが楽しみになってきました」
雪菜の目の前に入れ替わるようにして二人の和子が現れた。スマホの扱いに困っている和子と百人一首になると能弁になる和子。そのギャップに雪菜は心が惹かれるようだった。




