紫式部と清少納言
夏休みの終わりが近づくたび、雪菜は母の言葉を思い出す──
「あんた、もう中一なんだから、宿題やりなさいって言わないからね。もしもの場合は自分でなんとかしなさいよ」
これを聞いたとき、自由になれたと喜んだのか、急に突き放されて不安になったのか、はっきり覚えていない。しかし毎年思い出すから、二つの間で揺れてうまく処理できなかったのはたしかだろう。そして高二のこの夏も、まったく手をつけず最終日を迎えていた。
夕方雪菜はスクールバッグを開け、終業式の匂いを残したままのプリントとテキストを取り出した。並べてみると見事に机が埋まった。さすがに今回は厳しいか。まずは一番時間がかかりそうな数学から取りかかることにした。
配られたテキストは百ページほどあった。運よく解答がついていた。解答を丸写ししている途中で、一言一句同じだと怪しまれるのではと勘ぐり、語尾を変えたり、主語と目的語を入れ替えたりと工夫した。
世界史や生物のプリントには解答がついていなかった。知識を問うものよりも考察問題が多い。美月や同じクラスの子に連絡したが、皆まだ手をつけていないらしい。本当にのんびりした人たちだ。さすがに教科書や資料集を調べる時間はなさそうだ。試しにAIに投げたら、ずらっと硬質な文章が出てきた。
『高校生らしい言葉に直して四百字にまとめてください』と指示したが、なかなかこちらの思い通りに動いてくれない。雪菜はAIと喧嘩しながら終わらせた。
夜、宿題に疲れてスマホを見ているとドアがひとりでに開いた。風でも入ったかと思ったが、犯人はリーベだった。きちんと閉まっていないとこうして額だか前足だかを使って勝手に入ってくる。リーベは「みゃっ」とあいさつしてベッドに向かった。
何の心配もなさそうに毛繕いしているリーベを眺めているうちに、どうしてこんな思いして宿題をやらなければいけないのだろうと迷いが出てきた。先生に叱られないためにやる宿題なんて意味あるのだろうか。やがてかろうじて保っていたやる気も真夏のアイスバーのように溶けてしまった。
雪菜はリーベの隣に横になった。頭皮を後ろにひっぱると、眠そうなリーベの目が飛び出すくらいに大きくなる。
「リーベしゃん、眠いですか? それじゃあ寝てください」
彼が目を閉じたらすぐに頭皮をひっぱり、
「あいっ! おはようございます」と幸せな時間を過ごした。
しかし、リーベはすぐに夢の世界へ行ってしまった。裏返しになったぬいぐるみみたいな恰好ですうすう寝息を立てている。雪菜は体を起こした。
まだ宿題に戻る気がしない。考えずとも百人一首の本に手が伸びた。リクライニングチェアに座って本を開くと、五十七首目の紫式部の歌が出てきた。
「へえ。百人一首に選ばれていたんだ……」
もしやと思ってその近くを調べてみると、六十二首目に清少納言の歌もあった。東海林先生が二人は不仲だったと言っていたのを思い出した。今ならそりが合わなかった原因がわかるかもしれない。さっそく読み比べることにした。
まずは紫式部の歌だ。
──めぐり逢ひて見しやそれともわかぬ間に雲隠れにし夜半の月かな
(久しぶりにお会いできたのに、幼友達のあなただったかどうか見分けられないうちに、雲に隠れる月のように姿を隠してしまいましたね)
雪菜は直感で恋の歌だと思ったが、実はこの相手は女友達のようだ。本に作歌事情が書いてあった。七月十日ごろの夜、紫式部は久しぶりに幼なじみに出会い、そのとき詠んだ歌らしい。
十日の月がキーワードになりそうだ。ネットで調べた雪菜は「おやっ?」と動きを止めた。これまでは新暦と旧暦では一、二か月ずれているのだろうと漠然ととらえていた。ところが、新暦は太陽の動きを基準とするのに対し、旧暦は月の満ち欠けを基準とする。
「あっ、そうか!」
雪菜はぱんと手を叩いた。
「新暦だと毎月形が変わるけど、旧暦だと同じになるんだ!」
十日の月は上限の月と満月の間だからこんな感じかとざっくり計算した。
背景をつかんでから赤染衛門の歌と同じ要領で音読した。「わかぬ間に」「雲隠れにし」など、紫式部の歌は文節ひとつひとつに意味が凝縮されているように感じる。特に「見しやそれとも」が圧巻だった。本当にあの人かしら? と紫式部の戸惑いが伝わるように計算されている。それぞれの言葉をつなぎあわせれば一枚の絵になりそうだ。雪菜はこんな絵を思い浮かべた。
渡殿で紫式部が一人の女性に手を伸ばしている。さっき会ったばかりの幼友達だ。彼女は「もう行かなきゃ」と背を向けている。きっと遠い任地へ行ってしまうのだろう。雲からわずかに漏れる月光は取り残された紫式部の心を表しているようだ。
次は六十二首目の清少納言の歌だ。
──夜をこめて鳥の空音ははかるともよに逢坂の関はゆるさじ
(夜が明けていないうちに鶏のものまねをしても、逢坂の関の関守はだまされませんし、私も決してあなたに会いませんよ)
本によると、この歌を読み解くには中国の歴史書『史記』のエピソードを押さえる必要があるらしい。こんな話だった。
秦の国に使いに行った孟嘗君はいったんは捕らえられたが、命からがら逃げ出した。しかし、斉の国に帰るには函谷関を越えなければならない。函谷関は朝にならないと開かない。絶体絶命かと思われたとき、付き添いが鶏の鳴きまねをした。すると関守が朝になったと勘違いして函谷関が開いた──というのだ。
締め切り直前の漫画家がお酒に逃げてやっつけで描いたような話だ。雪菜はあきれたがどう折り畳むのかが気になり、吸い込まれるように読み進めた。
夜、清少納言が藤原行成と語り合っていた。彼は午前一時ごろに帰ってしまった。翌朝行成は清少納言に文を送る。
『鶏が鳴いていたから朝になったと思って帰ったんですよ』
清少納言は孟嘗君伝になぞらえた。
『まさかとは思いますが、深夜に鳴く鶏の声というのは、函谷関のことですか?』
これに対して、行成は甘い言葉をかける。
『いいえ。関は関でも、あなたに逢うための逢坂の関ですよ』
そこでしっかり者の清少納言がこの和歌で誘いをつっぱねたのだという。
本ではこのエピソードを、知識人同士の機知に富んだ応酬だと絶賛していた。しかし、雪菜はだまされなかった。また忖度だと思った。そもそも前提に無理があるだろ。真っ暗なのに空音にだまされて開くなんて関所の機能果たしていないだろ。そんなふざけた話を引用したら断られるに決まってるだろ。
清少納言の歌は上の句、下の句それぞれがまとまっていてユーモアをくみ取りやすい構成になっていた。一つの短編映画みたいだ。
二首の特徴をつかみ、雪菜はそれぞれの歌に込められた思いやその表現方法の違いに合わせた音読をしようと思い立った。紫式部の歌は絵画を鑑賞するよう丹念に読み、清少納言の歌は映画を楽しむようにテンポを重視した。
気まぐれな実験だったけれども、雪菜は授業で習った言葉を思い出した――『源氏物語』は「あはれ」の文学、『枕草子』は「をかし」の文学。
さっそく古語辞典を引いた。
これまでは疑いもせず「あはれ」も「をかし」も「趣深い」と便利な訳でごり押ししていた。しかし「あはれ」はしみじみとした感動に、「をかし」は知的ユーモアに対して使われる。二人の歌のとおりじゃないか。二語を手触りで識別できるようになった瞬間だった。
二ヶ月前、母に中間試験の成績表を見せたときには「『あはれ』も『をかし』も何それって感じ」と苦し紛れに訴えたものだ。うちのパントリーみたいにきれいに分類できたのは百人一首に触れたおかげだろうか。思いがけない喜びだった。
そしてこんな気づきもあった。紫式部と清少納言の歌がそうだったように、歌人の訴えが和歌になっているのだから、彼らの性格や生き様を表す歌があっても不思議ではない。百人一首にはそんな歌が選ばれているとしたら……。
雪菜は和歌を学ぶ際、エピソードから歌人の姿を思い描いていた。しかしそれは本の著者がまとめた文章にすぎない。それをあてにするより、和歌を徹底的に読み込んだほうが歌人の心の扉を開けそうだ。
なんとはなしに時計を見ると、あと数分で日付が変わるところだった。雪菜はあわてて宿題に戻った。この日は明け方まで起きていた。




