音は語る
七條夫妻と会ったその晩。
雪菜はベッドで読書していた。先日借り直した『猿でもわかる百人一首』だ。雪菜にはこの本が合っていた。隣ではリーベが真似するかのように腹ばいになっている。
また例のようにランダムに開くと、五十九首目の赤染衛門の歌があった。雪菜は知らなかったが、『栄花物語』の作者らしい。
──やすらはで寝なましものを小夜更けてかたぶくまでの月を見しかな
(あなたがいらっしゃらないとわかっていたら、ためらわず寝てしまったでしょうに。今か今かとお待ちしているうちに夜が更けて、西の空に傾く月を見たのですよ)
これは男を待ち続け一晩明かしてしまった姉妹の代わりに詠んだ歌のようだ。相手の男は藤原道隆。道長の兄であり、中宮定子の父だ。
雪菜は三人とも聞き覚えがあった。特に中宮定子は授業に出てきてなじみがあった。
指名されたクラスメイトがうっかり、
「中宮定子が──」と訳したら、古典の東海林先生が
「お前みたいなやつが呼び捨てしていいお方ではない! 様をつけろ。様を」と激昂したから強く記憶に残っている。
雪菜はさっそく音読をした。さらっと二回読んだ。自分でもわかる棒読みのせいか頭に入ってこない。今度は好物の生八ツ橋を味わうように読むことにした。一句目の現代語訳や解説箇所をしっかり押さえてから、「やすらはで」と発音し、古語を体になじませる。そして二句目にすすむ。五句目を終えたらまた最初に戻り、定着するまで反復しようと思ったのだ。
和子に詩吟のように読むのは恥ずかしいと言った雪菜だったが、ひとたび声を出すと気にならなくなった。国語の授業で指名されたときのような棒読みより、付属CDのような朗詠の方が歌意がつかみやすかった。
集中したおかげもあってわずか二、三回繰り返しただけで、ひっかからず暗唱できるようになった。クラスの誰もできないことを自分はやっているのだ。和子が褒めてくれたように、自分は本当にセンスがあるのかもしれない。天狗みたいな高い鼻になって音読していた雪菜の頭にこんな映像が浮かんだ。
着物姿の女性が寝殿の縁側に座り、空を見ながらうとうとしている。おそらく彼女が赤染衛門の妹なのだろう。彼女のもとに赤染衛門が近寄り、今日はもう来ないだろうからと、寝るようにうながした。しかし、妹はうつむいたまま「もうちょっと待ってる」と答えた。赤染衛門は短いため息をつき隣に正座するように座った。聞こえてくるのはささやくような風の音ばかり。静かな夜だ。西の空には月が沈みかかっている。しかし、二人の後ろ姿からは道隆に対する恨みも、次は必ず約束を守ってくださいねというとげとげしい気持ちも感じられない。月明かりにあきらめの気持ちが融けているようだった。
雪菜ははっと我に返った。赤染衛門の意識が頭に流れ込んだみたいだ。現代語訳を目で追っていたときは、待ちぼうけを食わされたわけだから少なからず恨みをもっているだろうと考えていた。ところが音読をしたら線路の分岐が切り替わったかのようにカチッと視点の変化があったのだ。もしかして赤染衛門の妹はいつも待たされていたのではないだろうか。はじめこそ愚痴の一つや二つ言っただろうが、いつしかそれも消えて、あきらめが勝るようになったのかもしれない。
そんな心配をしていた雪菜に、糸のほつれが抜けたようなカタルシスがあった。本に書かれている現代語訳はプロが訳しているとは言え、和歌に込められている微妙なニュアンスまでは表現しきれないのではないか。
雪菜は和子の教えてくれた、ボールと陰の比喩を思い出した。陰を分析するよりもボールに目を向けてごらん、と彼女は言った。それが現代語訳の不完全性を指していたとしたら、和子が「現代語訳はそこまで重要じゃない」と言ったのも、「音読は和歌そのものに意識を向けるのに効果がある」と言ったのも、すべてがつながりそうだ。
母を気遣ったばかりに始めることになった野鳥観察がきっかけで、優しい老夫婦に出会い、古典学習のコツまで教えてもらった。この不思議な一日を思い返すと、雪菜は興奮から胸が震えるようだった。




