接点は寂蓮法師
引き返すのがおっくうなほど遠くに来てしまった。雪菜はため息をついて踵を返した。ところが雑木林を抜けた先にあったのは見覚えのない小径だった。
「あれっ?」
迷ってしまったようだ。今すぐ引き返そうかとも思った。しかし直感がこのまま進めと命じる。朝からこつこつ洞窟を掘ってここまで来た、そしてこの壁の向こうには財宝庫があるかもしれない、まさにそんな探検家の気分なのだ。スマホを見るとなんと十一時十一分。雪菜は背中を押されたように歩き出した。
葉むらに挟まれた土道は蛇のようにうねうね曲がっている。見通しが良くなったかと思えば、行く手を塞ぐかのように大きな石が転がっている。それがなおさら雪菜の冒険心を駆り立てた。徐々に道が細くなり、行き止まりかと思ったら、ぱっと開けた。
目に飛び込んできたのは精霊が水遊びしているような瑠璃色の池だった。池の左右には雑木林が広がり、向こう岸には葦原があった。人々の記憶から忘れ去られ、ふらりと迷い込む者を静かに待ち続けているようだ。雪菜は池の縁にしゃがみ表面を撫でた。神社の手水舎みたいにひんやりしている。
顔を上げると、二、三十メートル離れたところに人がいた。車いすに乗った女性とその後ろにしゃがんでいる男性だった。
いつ来たのだろう。雪菜はぼんやり見つめた。
ところが視線が男性に絞られると、まわりの風景から孤立しているような、夏の夜空にオリオン座を見つけたような、そぐわなさを感じたのだ。すっと立ち上がり、人に向けるのは後ろめたかったけれども双眼鏡を覗いた。
白髪の男性が頭を垂れ、だらんと手を下げ、体を折るように膝をついている。女性は車いすに体を預けている。男性の異変に気づいていなさそうだ。
雪菜は考えるより先に駆け出した。
「大丈夫ですか?」
彼らの元に着いた頃にはすっかり息が上がっていた。
男性はぽかんとこちらを見上げた。しかしすぐに状況がわかったらしく、
「ああ。心配してくれたんだね」
「あ、もしかして、勘違いでしたか? すみません。しゃがんでいらっしゃったので、つい……」
彼は膝を押すようにしてゆっくり立ち上がった。背の高さは美月くらいだろうか。彼はうなじが見えるほど深く頭を下げた。
「ありがとうね」
「いえ、何事もなくてよかったです」
水草の間に浮いている花が雪菜の目に留まった。花びらは薄紅色と白百合色の二種類あったが、どちらも雄しべは柚子色だった。
雪菜はつぶやくように言った。
「きれいですね」
「そうだねえ」
「蓮ですかね」
「これは睡蓮だよ」
「よくわかりますね」
「ええとね、蓮は水面から一メートルほど高い場所で開花するんだよ。睡蓮は水面かその近くだね。葉に切れ込みがあるからすぐにわかるよ」
「へえ。お詳しいんですね。私、ごっちゃになっていました。教えてくれてありがとうございます」
男性はにこりと笑った。初対面なのに気を許してしまいそうな甘い笑顔だった。
女性が口をはさんだ。
「お名前訊いてもいい?」
「あっ、申し遅れました。橘雪菜と申します。季語の花橘の『橘』に、天気の『雪』に、菜の花の『菜』です。あっ……漢字の説明はいらなかったですよね」
「ううん。教えてくれてありがとう。きれいな名前ね」
女性はカシミヤのような暖かい眼差しをしている。
「私、自分の名前って好きじゃないんですよね。『菜』という漢字から思い浮かべるのって、やっぱり野菜じゃないですか。雪と野菜って合わないし、もし野菜が大根だったら雪と区別がつかなさそうですよ。それに私、六月生まれですし」
「そうなの? 強さと美しさを備えた素敵な名前だと思うよ」
雪菜はぴんと来なかったが、
「そう考えるようにします。ありがとうございます」と前向きに答えた。
雪菜に続き、二人も自己紹介をした。
女性は七條和子と名乗った。麦わら帽子をかぶり、アンダーリムの眼鏡をかけ、胡蝶蘭のワンピースを着ていた。胸元のブローチは銀の小鳥が南天をついばむものでその一点が輝いていた。彼女の微笑に気品を感じたが、不自然に浮き上がった鎖骨と手首の出っ張りが気になった。
男性は七條勝利と名乗った。プラチナフレームの眼鏡をつけ、半袖のポロシャツに薄いスラックスを着ている。白髪や服の皺にも清潔感があった。
雪菜は和子が見上げているのに気づいた。
「あ、すみません」としゃがんだ。
「ありがとうね。おいくつなの?」
「おかげさまで十七になりました」
「おかげさまって」と和子は口を押さえながら笑って、
「青春真っ盛りなのね。一人で遊びに来たの?」
「はい。最近はソロ活動が流行っているんですよ」
「ん? バンドか何かしてるの?」
「あ、すみません。そういうわけではなくて。一人をソロって言うじゃないですか。だから一人で活動することを言ったんですけど、わかりにくかったですね」
「なるほどね。最近の言葉は難しいから」
「僕たちが覚えたときには、もう使われなくなっちゃってるんだよね」
「そうそう」と和子はほほ笑んだ。
二人は白鳥のつがいのように睦まじく見えた。雪菜が中心になって話しているときでも互いに顔を見合わせて笑っていた。
「夏休み、部活動はないの?」と和子が訊いた。
「はい。私、中学では美術部でしたが、高校では帰宅部なんですよ。ぱっと見で何部に見えますか?」
「もうその通りにしか見えないかなあ」と勝利がツッコミを入れるように言った。
「あ、そうですよね」
雪菜が頭を掻くと二人は高く笑った。場が明るくなった。また和子が訊いた。
「今日は何かを見に来たの?」
「ちょっと長くなりますけどいいですか?」
「うんうん」
「うちの高校に山本先生という悪い人がいるんですよ。何回も遅刻する私も悪いんですけど、遅刻した分だけ生徒指導室の掃除しろ、なんて言うんです」
「あとどれくらい残ってるの?」
「四十回くらいです」
「それはちょっと多いかなあ」と勝利が言った。
彼の笑顔のせいだろう。何を言われてもおだやかに受け入れられそうだ。
「ですよね。でも山本先生は掃除のあと、いろいろ話してくれて、あっ、山本先生は古典の先生なんですけど、教えるのがめちゃくちゃ上手なんですよ。おかげで私、百人一首に興味が出てきまして。勉強を進めるうちに和歌には人間と自然が描かれていることに気づきまして、それで今日ここに観察に来たというわけなんです」
「雪菜ちゃん。それ、すごい発見よ」
和子が孫をあやすみたいに褒めた。
「そうですかね」
「うんうん。百人一首ではどんな歌が好きなの?」
雪菜はお気に入りの和歌を暗唱した。
──村雨の露もまだ干ぬ真木の葉に霧立ちのぼる秋の夕暮れ
「どんな意味なの?」と勝利が訊いた。
そう訊いてくれるのを期待していた雪菜はしたりげに、
「『にわか雨が過ぎ、その露がまだ乾き切っていないうちに、杉や檜などの葉っぱのあたりにゆっくりと霧が立ちのぼって行きます。そんな秋の夕暮れですよ』という意味なんです。この歌、すごいんですよ。秋の夕暮れって言ったら色があるじゃないですか?」
勝利が答えた。
「そうだね。オレンジだよね。鮮やかな」
「でもこれは違うんじゃないんですかね?」
「と言うと?」
「これは雨が上がった直後の歌なんですよ。『露もまだ干ぬ』って詠ってますから」
「ああ、そうか!」
「前半は葉っぱにズームして見ている感じですけど、後半になるとカメラが引いてパノラマみたいに見えてくる。陽は出ていない。つまり、水墨画のような世界じゃないかな、と私は思うんです」
「すごいねえ。そんな見方もできるんだね。そっちのほうが好きなの?」
「いえ、私も蜜柑色の秋の夕暮れのほうが好きです。秋の夕暮れを愛する心は日本人の遺伝子に組み込まれていると思うんですよね。武士にも、商人にも、農民にも。この寂蓮法師の歌はその裏をかいたのがすごいと思うんです」
自信満々に言うと、「雪菜ちゃん」と和子が呼んだ。
「あなたの言った水墨画のイメージは私も賛成。和歌をよく知っている子だなと思った。実りの秋という言葉があるけど、たとえば米農家は収穫で忙しい時期でしょ? 秋の夕暮れを楽しめたのは僧侶や貴族など時間を持て余した人だけじゃないのかな?」
「そう言われてみればそうですよね。和子さん、どうして詳しいんですか?」
雪菜のうわずった声に和子はおかしそうに笑って、
「実は私ね、二十年以上前の話だけど、高校で古典を教えていたのよ」
「そうなんですか?」
「うん。雪菜ちゃんはどちらの高校?」
「磯鴫です」
「ああ。隣の駅ね。さっき雪菜ちゃんの口から百人一首って聞いて昔を思い出してね。これも何かのご縁なのかな」
「もしかして、和子さんも百人一首が好きなんですか?」
「もちろん。私もあなたと同じ高校生のころ、はじめて和歌に興味をもったの。私たちの一番身近にある和歌と言ったら百人一首でしょう?」
「私、今まで古典の勉強を疎かにしていたので、文法がわからなかったり、知らない単語も多いんですよ。その都度調べているんですが思うように進まなくて。何かいい方法ありませんかね?」
「どんなところに時間がかかっちゃうの?」
「やっぱり掛詞のところでしょうか」
「ああ。難しいよね」
「人間と自然の二重の文脈がからまりながら流れていくだけじゃなく、自然の描かれ方から人の心を読み取らなきゃいけないじゃないですか。それが難しくて。あと入り組んだものになると、和歌と現代語訳の──対応関係とでも言うんでしょうかね、うまくつかめなくて困っているんです」
「掛詞に慣れていないのに、人間と自然に掛かっているのには気づいているの? 雪菜ちゃん、やっぱりセンスがあるのね」
「ええ。ほんとですか?」
「うんうん。実はさっきの寂蓮法師の解釈にはうならされたもの」
「ありがとうございます」
「掛詞はパターンだから、今は点にしか見えなくても、あるとき急に線として見えてくるものよ。だからそこまで心配しなくて大丈夫。せっかく百人一首に興味を持ったんだから細かい点は気にしないで楽しんでほしいなあ。おすすめは音読すること」
「音読ですか?」
「そう。言葉は生きているからね。音から見える世界もあるの。これは教師やっていた頃には口が裂けても言えなかったことだけど、」と和子は前置きして、
「授業中居眠りしてる子も、遅刻の多い子も、いざ古典の勉強を始めると、急にまじめになって現代語訳全部暗記しようとするの」
雪菜はぎくりとした。背景やレトリックにも目を通すけれど、勉強時間の大半は現代語訳を覚えることに割いていた。
「でも訳自体はそこまで重要ではないのよ」
「ええっ、そうなんですか?」
和子は深くうなずいた。
「でも、意味がわからないと頭に入らない気がします」
「たしかにね。現代語訳が必要ないとは言わない。でもね、やっぱり和歌のほうが大事なの。和歌と現代語訳の関係ってね、昔の言葉を今の言葉で表したものだから、たとえば、そうねえ……。ボールと陰みたいな関係なのよ。ボールに太陽が当たると地面には陰ができるでしょ。その陰は模様のない真っ黒な楕円よね。でも陰から何のボールかわかるかしら? サッカーボールかもしれないし、バスケットボールかもしれない。ラグビーボールの可能性だってあるわね。つまり何が言いたいのかと言うとね、陰を分析するよりもボールそのものに目を向けてごらん、という話。音読は和歌そのものに意識を向けるのにとても効果があるのよ」
「そうなんですね。でも詩吟のように読むのは恥ずかしいです」
「そんな本格的に読まなくていいの。恥ずかしくない読み方で大丈夫」
「はい、わかりました。それにしても、先生をやっていらしたとは意外でした。これは素朴な疑問なんですが、問題児のほうが記憶に残るって本当ですか?」
「うーん。そういうわけでもないかなあ。教師と言っても人間だからね、どうしても好き嫌いってできちゃうのよ。もちろんお仕事だから私情をはさまず平等に接してきたつもりよ。でもこの年になって振り返ると、記憶に残したい人が残っている気がするなあ」
「一番記憶に残っているのはどんな生徒ですか?」
「リーゼントの男の子よ。言葉足らずの子でね、授業中に机を蹴っ飛ばして出て行ったり、おとなしく授業受けているかと思えば『また推量の助動詞かよ。一つにまとめろよ!』と悪態をついたりで大変だったの」
「そんな天然記念物みたいな人いたんですか?」
これまで二人の話に相づちを打っていた勝利は噴き出して、
「雪菜ちゃん、おもしろいこと言うねえ」
気をよくした雪菜は、
「あっ、そうだ! さっきリーゼントみたいな鳥がいたんですよ。えっとたしかこのへんに……。あ、この鳥です!」と二人に野鳥図鑑を見せた。
勝利が尋ねた。
「もしかして雪菜ちゃんの言いたいのは、モヒカンのことかな?」
「あっ、そうですね、うっかりしていました」
和子はくすくす笑って、
「こんなかわいい鳥がいるのね」
「はい。キクイタダキという鳥で、日本で一番小さいみたいです。……あっ、すみません。今わかったんですけど、この鳥はモヒカンというわけでなく、頭の上に菊の花をのせているみたいなのでキクイタダキというようです」
それからも雪菜は図鑑を見せながら、
「この鳥には異名がありまして、なんと『雪の妖精』と呼ばれているんですよ」と言ったり、
「びっくりすること言っていいですか? 私もさっき発見したんですけど、実はカラスって二種類いるんですよ」と鳥の話をした。
一時間ほど話していたらスマホが鳴った。母からだった。
「あんた、まだ公園にいるの? 昼はラーメン作るって言ったよね」
「ラーメンって今はじめて聞いたんですけど」
「待ってるから早く帰ってきなさい」
「はーい」
帰る準備をしてから、
「そろそろ帰りますね。ありがとうございました」と敬礼すると、勝利と和子がそれぞれ言った。
「こちらこそありがとうね。楽しかったよ」
「私たち、よくここに来るの。またお話ししましょうね」
雪菜はもう一度頭を下げてその場を後にした。




