父の双眼鏡
送り盆をして数日が経った。あの晩の喧嘩も結局時間が解決してしまって、母は何事もなかったかのように話しかけてくる。しかしあの言霊は雪菜に返ってきたらしく、埋め火のように胸の奥でくすぶり続け、消えることはなかった。
早朝雪菜はリーベに噛まれて目を覚ました。痛くはないが夢から引き戻されるねっとりした甘噛みだ。部屋はまだ暗い。
「もうちょっと寝かして~」と足を引っ込め、タオルケットにくるまった。
リーベはしばらくおとなしかったが、雪菜が夢うつつになったころ「みゃあ、みゃあ」と上に乗ってきた。
外に出してあげようと階段を下りた。しかし、彼は蛇のように雪菜の足に巻きついて歩いた。
「ちゃんとついて行ってるってば!」と声をかけても用心深い性格から一段ごとに振り返る。ようやく玄関に着いてドアを開けると、これまでのだらだらした行動が嘘のように、リーベはタックルするラグビー選手のように暗闇に溶けていった。
朝食のとき雪菜が
「ごはん食べたら自然観察してくるね」と宣言すると、伊澄はパンを頬ばったまま、
「めずらしいわね。どういう風の吹き回し?」
「今学校で百人一首を習ってるから、花や鳥を見たら理解が深まるかもしれないでしょ?」
母はビー玉みたいな大きな目で、
「鳥? 鳥に興味出てきたの?」
「え、なんで? 鳥にというか、自然に興味はあるんだけど」
「いやあ、突然鳥なんか言うからさ、びっくりしてね」
だから鳥だけじゃないのに、と雪菜は思いつつも、
「百人一首には鳥も出てくるからね」
「へえ、そうなのねえ。まあ、出てきても不思議じゃないけど……。鳥の歌ってどんなの?」
雪菜は昨晩覚えたばかりの和歌を暗唱した。
──ほととぎす鳴きつる方を眺むればただ有明の月ぞ残れる
「暗記してるの? すごいじゃない。どんな意味なの?」
「『ホトトギスが鳴いた方角を眺めるともうその姿はなく、ただ有明の月が残っていた』って意味だよ」
「イメージしやすい歌ねえ」
「この歌すごくてね、二句目までが耳で聞いた世界なんだけど、三句目からはしれっと目で見た世界に変わっているんだよ。感動するでしょ?」
手品の種明かしをするように得意げに語ったが、伊澄の反応は「へえ……」と薄いものだった。
「それだけ?」
「そう言われても感想ないけど、そうねえ……。じゃあ、なんでホトトギスなの?」
「よくぞ聞いてくれました。ホトトギスは夏告鳥って言われててね、初鳴きに価値があったんだって。だからね、昔の人は夜を明かして聞こうとしたんだよ」
「あれっ? ホトトギスの鳴き声ってどんなのだっけ? ホー、ホケキョ……はウグイスよね」
雪菜はファルセットで聞きなしをまねた。
「特許許可局」
「ええっ! その鳴き声ってホトトギスだったの?」
「そうだよ」
「知らなかった。それにしても、昔の人は暇だったのね」
「違うよ。風流だったんだよ」
伊澄はフフッと笑って、
「そうとも言えるのね。これは一本取られたなあ。有明の月って朝見える月だっけ?」
「朝と言うか、明け方」
「あ、そっか。つまり、右側が欠けている月よね。と言うと、上弦? 下弦?」
伊澄も理科が苦手らしい。雪菜は牛乳をぐいっと飲んで、
「昨日知ったんだけどね、簡単な覚え方があって、月が沈むとき、弦が上にあるか下にあるかで見分けるといいんだよ」
「それじゃあ……」と伊澄は半月に見立てた手を動かしながら、
「下弦?」
「うん。正解」
「へえ。雪菜、すごいじゃない!」
「でしょ。人間三日もあれば変わるもんなんだって」
「そう言えば、」と伊澄は思い出したかのように、
「お父さんもバードウォッチングしてたっけねえ」
なるほど、それでさっき鳥にこだわっていたのか。雪菜は合点が行った。
食事を済ませて、雪菜は父の部屋に向かった。
父が亡くなってまもなく、このまま置いていても仕方ないからと母は処分も考えたみたいだ。しかし、結局捨てられなかったらしい。雪菜は物心ついてからずっと父の部屋を避けていた。入るのはこうして母と一緒のときだけだ。父の部屋は相変わらず整理整頓されていた。
伊澄はダンボールの前に膝をつき、蓋を頭で押さえながらごそごそ漁っていたが、
「あっ、これだこれだ」とチャコールグレーの双眼鏡とポケットサイズの野鳥図鑑を取り出した。
「今日野鳥観察するんでしょ? それならこれ使いなよ」
だからそんなこと言ってないのにと雪菜が思っていると、伊澄はぐいっと押しつけた。
「私は興味ないし、どうせ眠ってるだけだから雪菜にあげるよ」
「いいの?」
「うん。そのほうがお父さん喜ぶと思うよ」
雪菜は伊澄から受け取ってもじっくり見るわけでなく、さてどうしたものかと渋い顔でいると、
「それともお父さんの使った物は嫌?」
伊澄から聞いたところによると、父は雪菜の入園前に、見ず知らずの人を助け、代わりに事故に巻き込まれて亡くなった。雪菜はいまだに父を無責任な人だと思う。しかし、それは恨んでいるとか、許せないといった直線的な感情とは違う。
伊澄の悲しそうな目に誘発されるように、雪菜の頭に浮かんだのは中学の時に母に放ってしまったあの言葉だった──
「知らない人のために死んだなんてお母さんかわいそう」
母への同情から出た言葉だった。しかし、母の中ではずっと消えない言葉として残っているのだろう。こうしてうまく娘に伝えられなかった自分を恥じるような訊き方をする。雪菜にはそれが深く身にこたえる。
先日のいさかいもある。雪菜は伊澄を安心させたい一心で、
「そんなわけないじゃん。だって私もさ、鳥見たいと思ってたから。それにしてもバードウォッチングやってたなんて意外だなあ」
「そう? でもあまり続かなかったみたいよ。二、三か月くらいかしらねえ。私も一度お父さんに誘われたことあったのよ。でもあの人があまりに大きな声出すものだから鳥逃げちゃってね、見れたのはスズメとカラスだけだったかなあ」
伊澄は故郷に思いを馳せるような、父がまだどこかで生きているのを信じているような、遠い目で言った。
野鳥図鑑は持ち運びできるコンパクトサイズのものだった。帯もついたままで新品と言っても差し支えない。父もあまり使わなかったのだろう。
中を見ると、ページの上半分には野鳥の写真が載っていて、引き出し線で見分け方のポイントが書かれていた。下半分には鳥の生態や探し方のコツがまとめられている。ツバメ、ムクドリ、スズメなど見慣れた鳥もいれば、ウグイス、カッコウなど想像とかけ離れた鳥もいた。ページ右上にQRコードがあった。野鳥の声がダウンロードできるらしい。試しにコマドリのコードを読み取ってみると、「ヒンカラカラカラ」と馬のいななきに似た声が聞こえた。
雪菜は部屋に戻ってからも図鑑を眺めた。歌舞伎役者みたいな鳥や体の半分がくちばしの鳥がいた。こんな変な鳥がいるのか。運が良かったら会えるだろうか。心ならずとは言え母に宣言してしまったし、今日はたくさんの鳥を見てこようと前向きな気持ちになった。
リュックに、双眼鏡、野鳥図鑑、スマホのほかに、化粧ポーチ、ハンディファン、水筒、ハンカチ、タオル、リップクリーム、ハンドクリーム、虫よけスプレーなど手当たり次第に詰め込んだ。
雪菜は磯鴫高校そばの海浜公園に行くつもりだったけれど、伊澄の勧めもあって隣の駅の自然公園に向かった。




