禁忌の言葉
雪菜は九時過ぎに帰宅した。
勝手に出て行った負い目から音を立てず玄関に入ったが、待ち構えていたかのように伊澄が出てきた。
「どこ行ってたの?」
伊澄は上がり框から鬼神のような目で見下ろした。
「美月と会ってたんだけど」
「こんな夜中に?」
「まだ夜中じゃないじゃん」
「夜中でしょ!」
「美月に大事件が起こったの。だから話聞いてあげなきゃじゃん。ほんと大変だったんだから」
「仮によ。美月ちゃんと会ってたとしてもよ。あんた何も言わずに出て行ったでしょ。なんでそんなずるいことするの?」
母は雪菜に対してだけ清廉潔白を求める。「ずるい」という言葉を聞くたび言い知れぬ反感を抱く。
「だって、これから出かけるって言ったら、絶対にだめって言うじゃん」
「ん? だめって言われるから隠れるように行動したってこと?」
冷静だったら失言を誘う質問だと警戒したはずだ。しかし、つい売り言葉に買い言葉で、
「今そう言ったじゃん」
「ふーん。雪菜がそんなこと言うなんて思いもしなかったよ。なるほどね。自分が悪いってわかってるのに、開き直ってるんだねえ。へえ、なめられたもんだ」
火矢のような眼光から、母も冷静さを失っているのが知れた。
別にそんなつもりないよ、と暖簾のように受け流そうとしたら、伊澄は三和土に下り、強引に距離を詰めてきた。
母は威圧するような下目遣いで、
「あんた、いつからそんな人間になったの?」
「い、いや……そんな大げさな話じゃなくて。電話かかってきて深刻そうだったから、話聞いてあげたかったんだもん」
「えっ?」
拒絶の音が雪菜の耳に押し入ったとたん、消化器が噴射されたように頭が真っ白になった。
「こんなわかりやすく言ったのに、なんで聞こえないの?」
雪菜は自分の声の大きさに我に返った。本心ではない。ほんの少し牽制したかっただけなのだ。
「あっ……。違う! そういう意味じゃないの」
しかし母の耳に届いた気配はなく、言葉がむなしく宙に浮いただけだった。伊澄はそんな雪菜を責めず、ただただ生気を失った目で見ていた。
部屋に戻ると、一階からバタン、バタンと扉を閉める音が聞こえてきた。所在なさげにベッドに腰かけていると、母のあの目が強く思い起こされた。雪菜は深く頭を抱えた。なぜあんな言い方をしてしまったのだろう。
母は仕事のストレスから音楽を聞きながら寝入った時期があったらしい。耳が悪くなったのは母一人の責任ではないと雪菜は考えている。父の見当違いのせいで、本来なら二人で守る家を母はずっと一人で守ってきたのだ。イヤフォン難聴を知らなかったのは不運だった。治療しても治らないかもしれない。自分だけは母の味方でいようと決めていたはずだ。
母はこの数年で一番の剣幕で威嚇し、怒鳴った。曲がったことが嫌いだから我慢できなかったのだろう。それでも急に黙ったのはあの心ない言葉のせいに違いない。母は歯を食いしばって耐えるしかなかった。
今ごろ悲しみに打ちひしがれていないだろうか。障碍を恥じて自分を責めていないだろうか。
この日、雪菜は自己嫌悪のまま過ごした。母への「ごめんなさい」はいつから禁忌の言葉になってしまったのだろう。子どもの頃は素直に言えたはずなのに。
体の傷は時間が経てばきれいになる。ところが、言葉の傷は時間を経ても癒えない。自分はそれがわかる人間だと思っていた。しかしこの世にたった一人しかいない家族の、一番触れてほしくないところを攻撃できる人間だったなんて……。あの一言が悔やまれてならなかった。




