明日に架ける橋
夏休みになった。最初の二、三日こそ自由を満喫していた雪菜だったが、鉛の蛇が巻きついたかのように体が重くなり、いつしか無気力な日々を送っていた。
部屋をキンキンに冷やし、「体起こしてるのめんどくせっ」とベッドに身を投げ、二クールあるアニメを見通した日もあった。小説を読み始めてわずか十ページで意識が遠のき、本を落としてびっくりする日もあった。
まもなく七月も終わる頃。
橘家の朝食はたいていパン、サラダ、果物、ジャム入りヨーグルトだ。この日は伊澄がフレンチトーストを作ってくれた。母特製のフレンチトーストは雪菜の好物だ。レシピとコツを教えてもらっても母と同じ味は出せない。母にしか作れないものだと思っている。
しなっとしたフランスパンを食べるとバターと卵の香ばしさが口の中に広がり、蜂蜜のまろやかな甘さが追いかけてきた。
二回目のお代わりをねだった。
「そんなに食べて大丈夫? だらだらしてたら夏休みなんてすぐ終わっちゃうんだから」
「大丈夫。私、最終日にバタバタするの好きじゃないし、今日から宿題はじめようと思ってるの」
しかし部屋に戻るやいなや雪菜はベッドに飛び込んだ。枕に顔を埋め、あれこれ余計なことを考えていたが、今日も食っちゃ寝で一日を浪費するのかと思ったら野犬に噛みつかれたような鋭い痛みが走った。社会から取り残される深い孤独。
「このままじゃ私ダメになる!」
雪菜は体操選手のように跳ね起きた。
明日につながる行動をしようと考えたとき、頭に浮かんだのは百人一首だった。
雪菜はこれまで学校指定の本から気になる歌を見つけ、背景や現代語訳をパソコンで調べていた。しかしネット検索が中心になるため気が散りやすく、勉強に戻らなきゃいけないと思いつつもSNSが止められなかったり、ちょっとだけと始めたゲームに夢中になったりで、不本意な時間の溶け方に悩んでいた。核になる本があればこんなことにならないのにと、かねてより思っていたのである。
十分ほど東に進むと「星羽白コミュニティーセンター」に着いた。昔は白い壁だったのだろう。今ではすっかり黄ばんでいてところどころにきつね色の筋がついている。雪菜は自動ドアを越えて中に入った。
受付そばの休憩コーナーでは、ああでもないこうでもないと野球談義しているお年寄りやおそらく夏休みの宿題をしている女の子グループがいた。
コミュニティーセンターを囲むようにマンションが立ち並び、近くにショッピングモールがあるため、ここはいつ来てもにぎやかだ。
雪菜は左に折れて図書室に入った。小説コーナーの書架通路はジグザグに五人ほど入っていた。通り抜けるのは難しそうだ。ところが、隅の詩歌コーナーには人っ子一人いなかった。おかげで冷房を独り占めする心地で見回ることができた。石川啄木、北原白秋、与謝野晶子など聞き覚えのある歌人の名前もあれば、サラリーマン川柳のアンソロジー本もあった。
タイトルに「百人一首」が入った本は十数冊あった。雪菜は真っ先に目についた『百人一首入門』を手に取った。入門と銘打っているわりには使われている語彙が難解で五百ページを超えている。その本を戻し、ローラーをかけるように一冊ずつ確認した。
せっかく平易な言葉で書かれた本を見つけても、歯抜けに解説されていたり、なぜか現代語訳が省かれていたりと勉強しやすそうな本はなかなか見つからない。図書館は学術的な本が多いらしい。
残すところ数冊になり、やっぱり初心者向けの本はないのか、後で本屋に行くしかないかなと思ったら、本棚の陰に隠れるようにして『猿でもわかる百人一首』という本があった。こちらの自尊心を逆なでするタイトルである。基本から学べそうである。雪菜は二重に興味を持ち手を伸ばした。
開いてみると、見開きで一つの和歌が紹介され、右のページには現代語訳と四コマ漫画が、左のページには鑑賞のポイント、詠まれた背景、レトリックの解説が載っている。『押さえておこう!』『ここに注意しよう!』など重要なところは写実的に描かれた猿が解説している。これは分かりやすそうだ。
もう一度表紙を眺めたところ、雪菜の目に入ったのは「王朝文化はこの一冊で十分!」とこれまた好奇心を刺激する文字。この本さえマスターできれば古典が得意になるのは請け合いだし、クラスの皆から尊敬されそうだ。体中の血という血がたぎり、雪菜は風を巻き起こす勢いで受付に向かった。




