第46話 【プロローグ】選ばれし者
――その日、淀んだ灰色の雲霧が街を包んでいた。
数十年前――錬金術がまだ「神の学問」と呼ばれ、旧体制の評議会がその不確かな力に盲目的な信仰を寄せていた時代のこと。
オルビス錬金術会の本拠地があったニューカイロスのグラナ・エルム地区には古い塔が建っており、その部屋で幸が薄げな少年、カイザー=エルウッドは指先を震わせながら錬成式の符号を書き連ねていた。
机の向こう。白いシーツに包まれた少女が横になっている。
たった一人の家族、妹、エルシア=エルウッド。呼吸は浅く、唇は青く、胸の上下は微かなものであった。
「兄さん……今日の空、泣いてるみたいだね」
その言葉に、カイエルの手が止まった。インクの点が羊皮紙の上で滲む。
カイエルはそんなエルシアの下に布をかけ直し、微かな微笑みに答えるようにして自分のコートを肩にかけた。
(錬成に成功すれば……ルシアの病は直せる、のに)
背後の扉が軋む音。友人のユクスが現れた。外套を羽織ったその青年は、机の上に積まれた禁書の山に目を留める。
「……まだ、禁じられた術式をいじっているのか」
「……研究さ、あと一歩で完成する」
「カイエル……上層部は無茶を禁じているんだよ? 人の矩を超えるな、と」
「矩を超えずして、何のための錬金術なんだ!?」
カイエルの声は震えていた。
「祈って待って、助かるのか? ユクス、お前も見ただろ。聖堂で祈りを続けた子たちは、結果として誰一人として目を開けなかった!」
「……祈りは、結果を求めるためのものじゃない。人の限界を受け入れるための――」
「錬金術に――限界など無いはずだろうがッ!」
その緊迫した空間に沈黙が落ちた。その沈黙の中で、エルシアだけが微笑みながら語り掛ける。
「二人とも、喧嘩しないで……ね?」
だが、もう止まらなかった。焦燥と恐怖が、彼の理性を焼いていた。神も、祈りも、まじないも、何も救うことはできない。
――ならば。
◇◆◇
数日の後、グラナ・エルムで、旧時代の非科学的な体系が引き起こした大規模な錬金術の暴発事故が発生した。
都市機能は麻痺し、赤い汚泥と石礫がまるで海のように街を染め上げてしまう。
――錬金術釜が震え始めた瞬間、カイエルは成功したと錯覚する。薬品の調合が完成した刹那、刻が止まるような感覚を得たからである。
自身やエルシアの身体を包む光は柔らかく――確かに奇跡の瞬間を目の当たりにしたのだと! そう、感ぜられた。
(やった……ルシア! ほら……!)
やがてその光は、灼熱へと変わってしまい金属が軋んで、石が悲鳴を上げる。
「……あ……」
ぽつり。
その瞬間、爆ぜた轟音とともにカイエルは彼方へと弾き飛ばされる。
(なんで……?!)
――発光の瞬間から幾何の時が経っていたのであろうか、カイエルは瓦礫の隙間から、差し込んでくる光と声に気付いて目を覚ます。ソレは見覚えのある、常日頃彼らが嫌悪していた錬金術師の執行官たちだった。
「生存者2名。子供だ」と極めて冷えた響きを持つ音。
執行官は、僅かに残るエルシアの残滓を一瞥し、次に虚ろな目をしたカイエルを見た。 執行官は、エルシアがいた場所に向かおうとするカイエルを、無慈悲に引き剥がした。
「待って……! ルシアが、僕のせいで……!」
「その子供は助からなかった。それが結果だ」
執行官は、そう言ってカイエルだけを瓦礫から引きずり出した。
「選ばれた者だけが生き残る……お前は選ばれ、あの子は選ばれなかった。それが選別の結果だ」
「選別……?」
「錬金術の発展のために多少の犠牲は必要なのだ」
「……え?」
自らが信じた理想に裏切られたカイエルは、執行官の腕の中で、血の海に沈む小さな妹の最期を、ただ見殺しにすることしかできなかった。とどのつまり彼は妹を見捨てて、自分だけが選ばれた者として生き残ることを、強制されたのである。
(……なんでだ。錬金術は、僕たちを助けてくれないのか……!)
その日を境に、カイエルは全てを逆恨みすることとなる。二度と運命に大切なものを奪われないよう、世界そのものを支配しようとさえした。
たといその後、自分が最も嫌悪し恐怖する対象となった……冷たい大人達の声そのものになってしまうとしても。
――(そうかな……エルウッド……一番、選択ってやつを……恐れているのは――君だろう?)




