第37話 均衡の墓場(後)
「アルデリオの兄貴! 聞こえるか!」
聞き慣れた声だった。ラッツだ。独房の外、鉄格子の向こう側に、張りつくようにして叫んでいるのが見える。
「くそっ、この牢、外から直で助けられない造りだ! 兄貴、出口を探せ! 外に抜けるルートがあるはずだろ! 直通のルートはないんだ! なんとか鉄格子の外に出てくれ!」
俺は安心と同時に、随分と無茶な物言いをするラッツに辟易した。
……そんな簡単に出られるわけないだろ!
どんどんと天井に迫りくる水面が波打ち、油膜が揺らめく中、もうひとつの声が重なる。
「アルデリオ! 天井よ! 上に通風口がない?! そこはこっちの出口と繋がってるはず!」
この声は、ミレイナか!
彼女の手が格子の隙間から差し伸べられる。だが、その指先は水流の反射の中で霞んでいる。独房から出さえすれば、届きそうな距離。
すでに天井に戸口があるのは、俺も知っている。建物の造り的に独房外の天窓に続いているのだろう。確かに一見、ここから外に出てロープか何かで脱出が出来そうだ。
独房に水が溜まれば天井には届く、地に足がついてないから踏ん張りは聞かねえが、何とかこじ開けることは可能だろう。
もしこれが観劇ならば、非常に安易な展開、そこに救いの手があるかのように映っただろうな。しかし、俺の脳裏には、カイエルの計算高さが浮かんでいた。天井に通気口など、そんな手引するものがいれば容易に脱出できそうな作りに、奴が設計しているのか……? 随分と傲慢にこの監獄について講釈をたれて置きながら?
俺は右上を睨みながら、眉間にしわを寄せ唇をかみしめる。ユクスはその仕組みを知っていたからこそ、年配の看守に紙片を託した……!
俺の脳裏に、カイエルの声が蘇る。
――(均衡の墓場。生存確率はゼロ)
それは皮肉でも予言でもなく、あえての挑発によって誘う死神の提示だった。
もし俺が天井を目指せば、奴の描いた筋書き通りになる。
上に逃げようとした瞬間、天井の鉄格子が外れ、濁流の圧で押し潰される。カイエルの設計は、そういう類の「完璧な罠」だ。
――あるいは。
「ラッツ! ミレイナ!」
「聞こえてる! 早くしろ、水が!」
ラッツが叫ぶ。
「天井じゃねえ! 下だ!」
俺も叫び返した。
「はあ!? 何言ってんの! 死ぬわよ!」
「ユクスからの伝言だ! 優先度低だ、下に水門がある! 俺はそこから行く!」
「!?」
「二人とも、そこで待機してろ!」
「奴らは俺が上に逃げると思っている! 天井の戸口はあえての餌だ!」
ラッツは俺に呼応して、雰囲気が変わったように答える。
「……そうか、わかった! いいんだな? 兄貴、信じるぞ!」
水位はもう首元を越えていた。鉄格子の向こうでミレイナが必死に叫んでいるのが見える。だが、その声は濁流の轟きに呑まれ、泡の音にかき消された。
――急げ、飲み込まれるのはもう、すぐだ――!
「……お前の計算が狂う瞬間だ、カイエル」
俺は目一杯、肺に空気を溜める。
(ゴポポポ……)
俺は自らを窒息させようとする、その漆黒の世界へと自らその身を投じた。
水中に沈んだ瞬間、世界が裏返った。
濁流は狂ったように渦を巻き、上下の感覚が一瞬で失われる。耳が水圧に軋み、肺が破裂しそうなほど悲鳴を上げていた。
それでも、俺は漆黒の中で必死に目を開けようとした。あらかじめ調べて置いた床壁の継ぎ目、排水の亀裂から気泡が噴き出している。水流の方向が、わずかに変わっていた。
(……ここだ!)
指先が扉の隙間に入る、完全には閉じていない。俺は爪を押し込み、痛みを無視して金属をこじ開ける。
爪をはがしながらさらに開けた隙間に、腕を押し込もうとすると皮膚が裂け、血が水に混ざる。だが、わずかにできた隙間から流れ込む泡に縋り付くしかない。
肺が限界を迎える刹那、俺は腕をその隙間に突き込み、全身をねじ込むようにして身を乗り出した。
狭い通路、皮膚が削れ、意識が遠のく。真っ暗闇の黒い水中、光のようなものが、見えた気がした。
暗闇の向こうで、ラッツとミレイナの声が響く。
彼らの声を頼りに、俺は藻掻き泳いだ。俺はようやく水面に顔を出し、咳き込みながら大きく息を吸い込んだ。
――俺が出口から這い出ると、ラッツとミレイナが駆け寄る。
「……どうやら……助かった、が、俺の言ったことは正解だったようだな」
俺は場を一瞥して、一切を理解した。
「……ああ、兄貴がいった通り、こいつがロープに縋り付いてきやがった」
「――こいつも見抜かれてなきゃ、命からがらを演じるつもりだったんだろうが、な」
その場には、血と泥にまみれた若い兵士が転がっていた。カイエルの策で天井通気口に身を隠し、俺を仕留めようとしていたのだという。
俺が、予想していた通りに……通気口の先で待つ「何か」を想像するだけで、罠は完成する。狭い通路、視界の悪さ、外からは確認できない一点に潜む刺客が、ノコノコと上がってきた者を背後から仕留める。助け舟を出してやって、乗り込んだところを確実に始末する。
合理主義が描く、非人道的な独裁者が好みそうな処理の形だ。だが結果的に策は見抜かれて、逆にラッツ達に待ち受けられて捕縛されている。
ふと目を配ると若い兵士は「なぜ自分が?」と理解できていないようだった。
――そいつは、年配の看守を見下していた、あの――若い看守だった。その姿は「自由より秩序」を体現する駒としてでしか人間を見ないシステムの末路を体現しているようにも思える。
「あのまま助けていたらと思うと……ごめんなさい、考え足らずで――」
ミレイナは殊勝な態度をとっている。
「……」
「いや、切羽詰まった状況では安易になるのも仕方がない。それより……すでにボコボコじゃねえか」
そう言って倒れる若い兵士に蹴りを入れようとするラッツを制する。
「当たり前だぜ兄貴! まさか俺たちの行動まで逆手に取られていたとはな!」
「ゴホッ、な……ぜ……カイエル様の計画は、完璧なはず」
「完璧なものなんてねえよ、計算は些細なもので崩れるものだ。その変数を、カイエルは計算に入れられなかった。それだけのことだ」
俺はその震える物体に視線を下し、仲間たちに告げた。
「……そいつは逃がしてやれ。自分で考えることをしない。俺たちが手を下す価値もない存在だ、そいつは」
「うぅ……」
若い兵士が泥の中に、逃げ込むように去っていくと、不意に音が途切れた。
「く」
軍靴の底は擦り切れ、服は裂けているが、足は確かに地を捉えていた。
血と強い匂いを放つ泥が混ざって飛び散る。呼吸を整えながら、俺は一歩を踏み出す。
「兄貴、腕の骨、これ」
「……折れてはいない、多分な」
笑うつもりだったが、喉の奥で空気が詰まって、かすれた音しか出なかった。ミレイナがどこからか取り出した濡れた布で、俺の頬を拭おうとする。泥かもう見分けもつかない黒い汚れが布に移った。
「大丈夫だ」
言いながら、足の感覚もほとんどない。
「こんな状態でも、兄貴にはかなわないんだろうな」
「……笑わせるな――それは、剣があれば、の話だ」
軽口を叩きながら、乾いた笑いがこみ上げた。それはただ、何というか……形而上学的な、どうしようもない実感のようなものだった。
俺はゆっくりと、出口に向かって歩き出した。足元から、ずるりと泥が音を立てて剥がれる。背後でラッツとミレイナが小さく息を呑む音が聞こえたが、振り返らなかった。
灯りのない地下道の壁に手をつくと、ざらざらとした無数の感触が指先に伝わる。その中にひとつ、線引きされた感触に引っかかる。
――何よりも、自由こそ尊し。
それを書き記した人間が、この壁を掴んで絶望していったのかと思うと、俺には無念と絶望の証のように感じられた。
ついその崩されたハンドオブオーダーの上に、俺は自分の手を重ねる。
ひとつだけ、深く息を吸った。少し、肺が痛む。泥に塗れた顔で、俺は目尻に皺を寄せた。
「いい加減、これで……完全に敵対関係になったってワケだ」
濁った水が微かに波打つ。歪んだその影の中に、敗者の姿をした男の決意だけが、静かに確立していた。




