第36話 均衡の墓場(前)
静寂は食事後ほどなくして、壁に埋め込まれた金属管の奥から響く、長く低い唸りによって破られた。
最初はただの金属のうなりにしか聞こえなかったが次の瞬間、それは形を持った音へと変化する。管の中から、背筋を伸ばす響きが、まるで世界そのものを震わせるように独房を支配した。
「聞こえるか、アルデリオ=シグマ。私の最高傑作、均衡の墓場へようこそ。君のためにすでに人は排除している、生存確率ゼロの独房だよ!」
ぞくりと背中を冷たい指でなぞられたような感覚。壁の金属管を通してではなく、思考の内側に直接届くような錯覚――すら、覚える。この独房空間は音の響きの感じまで調節してやがるのか……最高傑作、だと?
「さあアルデリオ! 自らの行いの正しさを悲願として! ここで孤独に溺れながら、成就するが良い。秩序を望まぬ君には、きっと気に入ってもらえると思うよ!」
俺は金属、もとい伝声管に向かって叫び返した。
「随分と見込まれたもんだ、痛み入るぜ! カイエル! 俺が秩序を選ばなかった、というのならば、なんで自由すら奪われてるんだ?! さっき人払いをしたって?! まさか御大自ら一騎打ちというわけじゃねえんだろ?」
「ははっ! それも良い趣向だがね、もう間もなくだよ! 私が雇った死神の到着は!」
「死神……?」
俺はカイエルの言葉を反芻したが、その真意を理解はしていなかった。
「ほんの一寸だよ、首を長くする必要すらない!」
「アルデリオ――さようなら」
(――?)
「おい! 今……何て言った!」
俺の中で微かな何かが、靄がかかったように引っかかった。だが聞き返すも返答はない、俺がその違和感の正体を探っている間すでに、カイエルは離れたようだった。
俺は諦めずに耳を澄ます。するとまだ向こうで会話は続いていた。
「と……告が……いの……赤髪の――銀級の傭兵……嗅ぎ――てい……です」
伝声管の奥で声が裂け、端々がうまく聞き取れない。短い沈黙のあと、断片の音が返ってくる。
何か喋っているが、カイエルの声じゃないな。
「ふん……ラッ……だ――か」
キィン――ガリッ。こっちはカイエルの声だ、ラッツの名前を口走ったな。
「詮……小物……話……だ――私の計……に――影響は……い」
欠片だけ引きちぎられる言葉たち。だが、その切れ端が、なんらかの意図を示唆していることは間違いがなかった。
「誘……救出…………応を――観測……」
小さな笑い声が、かすれるのが聞こえる。部下らしい存在の返答がわずかに震え、言い淀む。伝声管の中で、小さな慌て声が割れたように聞こえる。
――キン――!
「始末……す――が……いさ」
俺はゆっくりと壁から身を離す。表情には出さず、思考の歯車を高速で回転させた。今のは、若い兵士が語った「ラッツが喋っている」という話に関連した話だろう。「小物」とはっきりと聞き取れた。
……カイエルはラッツを脅威とすら認識していない雰囲気を感じた、と、するならば。
――ゴゴゴゴゴゴゴオオ!
地響きと共に、独房の床下から濁流が噴き上がる。排水格子の隙間から泥と油を含んだ水が勢いよく吹き出し、たちまち足首を、腰を、胸元を飲み込んでいく。
水の流れが早い! 奴の言う死神とはこれのことか……!
壁が軋み、糞尿を含んだ下水の臭いが肺を突き刺した。ここまでの流れで、俺はもう悟っていた。これは自然の氾濫なんかじゃない。
――(せいぜい藻掻けよアルデリオ。お前の英雄譚は、ここで水に流される)
「最初から奴らの描いた絵図だったワケかよ!」
俺は独りでに叫んだ――その時。
独房の外に位置する天井の向こうから、鉄のこすれる甲高い音が響き、暗闇の中に声が割り込んだ。




