第35話 山椒魚
――独房である。
俺のあまりにも目立ち過ぎたパフォーマンスによって、叙勲授与式は当然中断された。束の間の栄光からほどなくして、俺は両腕を後ろで縛られてこの場所まで連れ込まれた。二人の兵に挟まれるように、ひたすらと踏み固められた土の回廊を歩かされている。
足元の水溜りを踏むたび、不快な粘つきが指の隙間から染み込む感覚。閉塞した空気は鉄の匂いを帯びていた……俺にはお似合いの匂いなんだろうが、な。
「あんたも馬鹿なもんだ。白銀どころか金徽章だって、それを望む人間が大多数だってのに」
「自らの力に思い上がった結果だな、ずいぶんと羽目を外したもんだぜ」
看守の一人が吐き捨てるように笑う。
「そうだな。上層部の連中が白銀だなんて言うから、狼狽して魔が差しちまったのさ。生憎、無学浅識なもんで金級までしか価値を知らなかったもんでな」
俺は回りくどく嫌味に返してやる。
「……? 同情はしないぞ。成り上がりの物語はここで終焉だ」
そんな俺の軽口に、兵士は微妙な反応をする。自身にほんの少し体温の上昇を感じた。
「終わり……」
俺は失笑しながらもいやに頭が冷えている、この状況でまだ頭の中のそろばんを弾く。
それなりに歩かされたが、せいぜいアルカディアの外れといったところだろう。囚人の姿が一人も見えないことから小規模な施設のひと区画と仮定。
仮に施設全体で五、六人だとすると……? それならば武器がなかったところで問題ない、無力化して簡単に逃げられる。だが鉄格子の中に入ってしまっては、さらに脱出の難易度は上がってしまう。リスク計算は常に正確でなければならない。
回廊の突き当たり、重い鉄扉が開かれる。鼻をつく腐臭と、冷たい流水の音が暗黒の底から響き上がった。
「せいぜい藻掻けよアルデリオ。お前の英雄譚は、ここで水に流される」
「……?」
――この違和感、さっきの感覚とは逆、だな。
「ユクス評議員や聖女サマがどうなっているか、知ってるか?」
俺は違和感の正体を探るように尋ねる。
「知らんな。我々は雲上人と直接的なつながりなど、ない」
兵が鎖を外す。
俺は暗がりの奥へ一歩踏み出した。鉄格子のなか、独房の敷石に滴る水音が、不気味な心臓の鼓動のように響く。
ふとあたりを見回すと俺は、天井に開口部があるのを発見する。
――風を抜くための戸口か? 点検用の通気孔か? とするともともとここは牢屋じゃないな、何か別の……。
いずれにしてもあの高さまで登り、あの格子を破壊できれば……活路は、ある。
◇◆◇
独房の空気は辛気臭い匂いがした。湿った赤く汚い鉄、人間が腐らせた、だらしなくも諦められている匂いだ。遠くで時計の秒針が審判めいたリズムを刻んでおり、ここではどんな小さな動きもその拍子に呑み込まれていく。俺はその刻みに合わせて呼吸し、時間を数えることで暇をつぶしていた。
俺は壁際に小さな丸い格子が埋め込まれているのを見つけていた。金属の格子はわずかにすり減り、近くに手を当てると微かな振動が指先に伝わる。
(脱出手段に直接は関係ないものだろう)
その日、ほどなくして、食事口が静かに開き、手に皺のある年配の看守がトレイを差し入れた。カタカタと音を鳴らし、動きにはぎこちなさがある。
「……素晴らしい演説でした」
「ユクス様は、最後まであなたのことを信じておられた」
看守は声を潜めて言った。俺はそれだけでユクスとつながりがある看守だと理解した。
「……その結果がこれだ。外の動きがどうなってるか伝えられる、か?」
「いえ長話は、できません。ただひとつ……仲間は動いています」
看守はそれだけ言うと静かに立ち去る。
俺は「信じる、だと?」とだけ音を吐き、その言葉の空しさに自嘲するしかなかった。
◇◆◇
次の日も食事口が静かに開き、彼は目を合わせず、そっとパンの下に何かを滑らせると振り返りも、喋ることもことなくそそくさと去っていった。
紙片を摘みあげると、そこにはこの独房の底に位置するらしい古びた水門の図と、走り書きで「緊急時、優先度低」とある。
「……ホント、信じてみるもんだ……確かに捨てたもんじゃないらしいな」
いまいち要領を得ない走り書きに、俺は精一杯皮肉交じりで独り言ちた。
だがまあ、つまりここは水門とつながってる独房だと分かった。ユクスが天井の開口部を知らないわけがないだろう。それを知った上で、この水門のルートを「優先度低」の次善策として伝えてきた。ならば、優先度の高い第一の脱出経路は、あの天井ということになる。だが、なぜそれをわざわざ……?
いずれにしてももう少し俺の置かれている情報を整理する材料が欲しいもんだが。
……だが俺はその日を境に、二度とユクス派? の年寄りの看守の姿を見ることはなかった。
三日目、看守や兵士同士が扉越しの会話。
「じいさん、どっかに連れてかれたらしいぜ。」
四日目、食事口が荒っぽく開き、若い看守が顔を覗かせた。目は冷たく、笑みは刃のように鋭い。
「食事だ。感傷に浸る時間は終わったぞ、元・英雄殿」
「……年寄りの看守はどうした」
「ああ、あの耄碌した男か、職務怠慢だとかなんとか。評議会は馬鹿な駒を許さないからな、今頃は草葉の陰で涼んでいる頃だろう」
兵士は頬の両端に目一杯、薄気味悪い皺を作りながら続けた。
「貴様の仲間、赤毛の何某とか言ったか。今頃は尋問室で面白いほどよく喋っているそうだ。お前たちの希望の在り処を、な」
「……!」
俺は毛ほども反応することなくそいつが嗤う声を聞いていた。一瞬、鼓動が飛び跳ねたのを感じる。この独房に来てから、初めて感じる種類の熱。だが俺はその熱を、思考の力で無理やり冷却できた。
(……待て。こんなものは噓つきの常套手段だ。俺の精神を揺さぶり、孤立させ、判断を誤らせるための計算されたちゃちな嫌がらせ。たとえラッツが捕まった、てのが事実だとしても喋っているという部分は十中八九、嘘だろう)
俺が信じて思考すべきは……この目で見てきた、ラッツという男そのものだ。奴に洞察力などない、あいつが俺について致命的な情報など、ひとつも持ってはいないだろう。
「……それだけか?」
俺のその様子に面白くなさそうな反応をして若き看守は去っていく。俺はトレイには目もくれず、懐の紙片を掌の中でくしゃくしゃにした。俺がぐずぐずとしている間にも差し込んだはずの光は、体制の冷酷さによって容赦なく踏み砕かれくものだと認識できた。
これがオルビス評議会、カイザー=エルウッドという巨人。
希望なんてものは、存在を確認する誰かがいて初めて「希望」として機能する。
人間がいなければ、紙に書かれた線はただの墨のしみでしか、ない。「緊急時、優先度低」その短い文字列は、薄暗い檻の中で揺蕩う火種のように感じられる。
心中の深層に灯る小さな火はようやく大きくなり始めた。
相変わらず、時計の針は冷たく時を刻んでいる。事態はもはや、その単純な律動だけでは説明できないところまで来たのだ。だからこそ、確かめる価値がある。
絶望の訪問はそろそろ、俺の番といったところだろう。今度は針の刻む音がいつもより少し鋭く聞こえた。
深く溜息を吐き、俺は静かに立ち上がった。底に出口は本当にあるのか――確かめるために。




