第26話 価値のない賭け
俺はラッツの目に、絶望と紙一重の覚悟を見た。
あの馬鹿みたいに直情的な男の魂が、一瞬だけ剥き出しになったのを、確かに見た気がした。
「おい、ラッツ!」
俺の制止を振り切り、ラッツは雨上がりの敷石を駆ける。奴の目に映るのは、燃え盛る運河か、悲鳴をあげて混乱する人々か。あるいは、記憶の中の華やかな祭りが、目の前の光景と重なってしまったのかも知れない。
その直後、謎の声が飛ぶ。峠道脇の森から複数の人影が躍り出た。ラッツの突出に気づき、隠れるのをやめた、敵だと思って構わないだろう。
「あの馬車だ! あそこにターゲットがいるぞ!」
「赤毛の奴は何だ? まさか、気づかれたんじゃないか」
「どうでもいい! 殺せ! 狙いはその先だ!」
ラッツが走っていった先でおそらく反オルビス派と接敵する。奴は見つけるとすぐに獣のように咆哮をあげて敵陣に突っ込んだ。
「てめぇらあっ! 金章祭の申し子であるラッツ様の前で!好き勝手は許さねぇからな!」
怒りが彼の剣を加速させている。それは洗練された剣技ではなかったが、夢を汚された者の怒りは、何よりも鋭く敵を切り裂いていった。だが、多勢に無勢。足止めが精々で、それも時間の問題だろう。
「救いようもない馬鹿だな、あいつは。どうせ遅かれ早かれ、戦場で無意味に命を捨てるだけだ」
俺はそうならないために、冷静に計算しながら生きるようになったんだ。あの地獄のような……爆炎の一日から。
「…………俺に気を使うことはない、旦那。任務遂行が俺たちの目的なんだから正しいのは旦那のほうさ」と少し寂しそうなガリウスの声。
「……でも戦力を無駄に分散することはないでしょう? 助けられるなら、助けたほうが良いと思いますが」
「……」
俺は思案する。ミレイナはそう言ったが効率的に考えれば、見捨てるのが最善だろう。セレスティアを守り、総督府へ進む。それが正しい。
俺はセレスティアを背に庇い、戦況を見極める。シドの狙いは、この混乱に乗じてセレスティアを奪うこと。
この接敵すら、陽動の一部に過ぎないのかもしれない。逃げられるときに逃げなくてはせっかく昨日セブンフロアと立てた攪乱作戦そのものが無駄になる。
――ドォン。
遠くで、さらに大きな爆発音が響く。見える距離ではないが、祭りの喧騒は完全に悲鳴へと変わり、オルフェインは巨大な戦場と化そうとしていた。
だが、俺は知っている。
夢を踏みにじられる痛みを。信じたものに裏切られる苦さを。ラッツがいま見せているのは、あの時の俺自身の亡霊だ。
「……助けないの?」
セレスティアの眼光が俺をまっすぐと俺を射抜く。
「……」
俺は奥歯を噛みしめ、仮面の下で息を漏らしながら頬を吊り上げる。
見捨てるのが正解だ。ラッツを助けに行けば生存確率はほんの僅かとしても下がるは下がり、セレスティアの護衛という最大の目的に伴うリスクがある。算盤を弾くまでもない、明白に損だ。
……なのに。なぜ俺は、剣の柄を握りしめている?
足が、前へ出ようとしている。頭の中で組み上げた計算式が、内側から湧き上がる熱でドロドロに溶かされていくが如く。そんな時、グルグルと回転する思考の片隅から、忘れていたあの老人の声が微かに響いた。
――(人を――信じるってのはな……。捨てたもんじゃねえからな)
「ッ……!」
いい加減いつまでも、ずっと引っかかるこの不愉快な感覚、抑えがたい苛立ちに支配されているわけにはいかない。
救いようがない馬鹿なのは、ラッツじゃない……俺の方だ。
「ガリウス、ミレイナ。セレスティアを死ぬ気で守れ、数分間だけお前らを信用する」
「旦那!?」
「俺はちょっと、無駄なチップを払ってくる」
俺は背を翻し、怒号に包まれる街道へと飛び出した。そこには既に、敵を相手に暴れ狂うラッツの姿があった。
敵のほう……シド本人は、いねぇな。だがその配下であることは間違いない。一昨日始末した野盗崩れの生き残りか、あるいは金で雇われた傭兵か。いずれにしても、任務や忠誠といった理性の光はなく、ただ破壊を楽しむ狂気だけが宿っている。
「くそ、追撃か……って!」
「こ……こいつじゃないか!? シド様とお頭たちを撃退した傭兵ってのは!」
敵が俺の存在に気づき、恐怖に顔を歪める。ラッツが、息を切らして俺を見ていた。
「ア……アルマどうして……」
「勘違いすんな。お前が死んだら、荷物運びの手が減って……俺が働かないといけなくなるのが、面倒なだけだ」
「ったく……お前たちは、どうしても味わいたいらしいな。死の感触、絶望って奴を、よ」




