― いじめは、なぜいけないの? ―
朝だった。
空はうすい青色で、湖は鏡みたいに静かだった。
風が吹くたび、水面に小さな波が広がっていく。
湖にはカモの親子が泳いでいた。
小さな子ガモたちが、列になってお母さんのあとをついていく。
「かわいい……」
女の子は少しだけ笑った。
近くでは白鳥がゆっくり首を曲げて泳いでいる。
空にはハトが飛んでいた。
とても平和だった。
なのに。
「……どうしてなんだろう」
女の子はぽつりと言った。
「こんなに世界はきれいなのに」
「うん」
猫がとなりで座っている。
「人って、どうしていじめるんだろう」
風が少し止まった。
猫はすぐには答えなかった。
「いじめってね」
猫は湖を見つめながら言った。
「とても小さく始まることが多いんだ」
「小さく?」
「からかいとか」
「……」
「仲間外れとか」
「……」
「ちょっとした悪口とか」
女の子はうつむいた。
「でも、それって“ちょっと”じゃないよね」
「そう」
猫は静かにうなずいた。
「やる側にとっては小さくても、受ける側には大きいことがある」
湖の上を子ガモが泳いでいく。
一羽だけ少し遅れていた。
でも親ガモはちゃんと待っていた。
「見て」
猫が言う。
「あの子、少し遅いね」
「うん」
「でも誰も『遅いからだめ』って押しのけない」
「当たり前だよ」
「そう。当たり前なんだ」
猫は女の子を見る。
「弱いところや違いがあることと、傷つけられていいことは全然別なんだよ」
「……うん」
「なのに人間は時々《ときどき》そこを混ぜてしまう」
「混ぜる?」
「違うところを見つけると」
猫は前足で地面に線を引いた。
「そこを理由にして、自分より下に置こうとする人がいる」
「どうして?」
「安心したいから」
「安心?」
「自分に自信がない時、人は誰かを下に置くことで上に立った気になることがある」
女の子は目を丸くした。
「それって……」
「強そうに見えて、実は弱いんだ」
猫はあっさり言った。
「本当に強い人は、自分の価値を誰かを傷つけて確認しない」
白鳥が静かに羽を広げた。
水しぶきが朝日に光る。
「いじめる人って」
女の子は少し迷いながら言った。
「心に問題があるってこと?」
「そういう場合は多いね」
猫は答えた。
「怒りが強かったり」
「……」
「不安が強かったり」
「……」
「家庭や学校で満たされていないこともある」
「じゃあ、かわいそうなの?」
「それとこれとは別」
猫ははっきり言った。
「苦しい事情があることと、人を傷つけていいことは同じじゃない」
女の子は少し安心したように息を吐いた。
「そっか」
「泥棒が『欲しかったから』と言っても、盗んでいい理由にはならないでしょう?」
「うん」
「それと似てる」
猫は言う。
「傷つけたい気持ちが生まれること自体は、人間だからあるかもしれない」
「……」
「でも、その欲求にそのまま従うかどうかは別問題だ」
「心を止めるんだね」
「そう」
猫はにっこりした。
「自分の中の乱暴な部分を育てるんじゃなくて、整える」
「整える」
「それが健全な心づくりだよ」
空をハトが飛んでいく。
自由そうだった。
「でも」
女の子は小さく言った。
「いじめられてる時って、誰にも相談しちゃいけない気がする」
「あるね」
猫はうなずく。
「よく言われるでしょう」
『言いつけるな』
『チクるな』
『裏切り者』
「……うん」
「でもね」
猫は女の子を見上げた。
「それは加害する側にとって都合がいい言葉なんだ」
「都合がいい?」
「だって相談されたら困るから」
「……!」
女の子ははっとした。
「閉じた場所のほうが、暴力は続けやすい」
猫は静かに言う。
「だから被害者を孤立させようとすることがある」
「じゃあ相談するのって」
「悪いことじゃない」
猫はきっぱり言った。
「むしろ自分を守るために必要なことだ」
「親とか先生とか?」
「うん」
「信頼できる大人」
「……」
「必要ならもっと外の助け」
女の子は湖を見つめた。
水面は静かだった。
「我慢するのが強さじゃないんだね」
「そう」
猫はやわらかく笑った。
「助けを求められるのも強さだよ」
子ガモがようやく親の列に追いついた。
なんだか少し安心する。
「いじめって」
女の子がつぶやく。
「相手の尊厳を削ることなんだね」
「うん」
「存在していいって感覚を壊してしまうことがある」
「……」
「だから軽く見ちゃいけない」
風が吹いた。
湖が少しだけきらめく。
「じゃあ、どうしたらいじめはなくなるのかな」
猫は少し考えた。
「すぐには難しい」
「そっか」
「でも、一人ひとりが変われることはある」
「なに?」
「人を見下す心から」
「……」
「尊敬する心へ変えていくこと」
「尊敬?」
「違いを見る時」
猫は言った。
「攻撃する理由にするんじゃなくて、理解する入口にするんだ」
女の子は静かに聞いていた。
「人は、自分と違う誰かから学べる」
「うん」
「本当はそのほうが、ずっと心が豊かになる」
白鳥がまた静かに進んでいく。
堂々《どうどう》として、美しかった。
「ねえ、猫さん」
「なあに?」
「私、もし誰かがいじめられてたら」
「うん」
「前より少し、ちゃんと考えられる気がする」
猫は満足そうに目を細めた。
「それだけでも大きいよ」
「いじめないこと」
「うん」
「見て見ぬふりをしないこと」
「うん」
「助けを求めること」
「それも大事」
女の子は空を見上げた。
ハトが青空へ飛んでいく。
とても自由だった。
「人を傷つけない強さって、あるんだね」
「あるよ」
猫は立ち上がった。
「本当に強い人は、人を踏みつけなくても立てる人だから」
女の子は小さく笑った。
胸の中で、何かが少しだけまっすぐになった気がした。
湖は今日も静かだった。
けれどその静けさの中に、確かな強さがあった。
まるで。
優しさそのものみたいに。




