ー 愛がわからない ー
「私ね」
女の子は、小さな橋の上で立ち止まった。
下には静かな川が流れている。
空を映した水面が、きらきらと揺れていた。
「愛がわからないの」
猫は隣で耳をぴくりと動かした。
「ほう」
「愛されてるって、どういうことかわからない」
女の子は手すりに指を置いたまま、少しだけうつむいた。
「誰かに優しくされても、本当に愛なのかわからない」
「ふむ」
「好きって言われても、信じられない」
風が吹く。
橋の下の水が、さらりと音を立てた。
「どうして信じられないのかな」
猫がたずねる。
女の子は少し考えてから答えた。
「だって、形がないから」
「なるほど」
「見えないし、測れないし、これが愛ですって誰も教えてくれない」
「たしかにね」
猫はあっさりうなずいた。
「愛はかなり説明しづらいものだ」
「でしょ?」
「パンならパンだって見ればわかるけど、愛は見えないからね」
「パンと一緒にしないでよ」
女の子が少しだけ笑った。
猫はしっぽを揺らした。
「でもね。見えないからない、とは限らない」
「……うん」
「風も見えないけど、感じるでしょう?」
女の子は黙った。
「愛も少し似てる」
「感じるもの?」
「そう」
猫は橋の欄干にぴょんと飛び乗った。
「愛にはいろんな形があるんだ」
「いろんな形」
「人間の数だけあると言ってもいい」
「そんなに?」
「だって心の形がみんな違うから」
猫は空を見上げる。
「愛ってね、心の形なんだよ」
「心の形……」
「ある人は、たくさん言葉にするかもしれない」
『好きだよ』
『大丈夫?』
『無理しないでね』
「ある人は、不器用で全然言えないかもしれない」
「そういう人もいるね」
「でも、朝ごはんを用意したり」
「……」
「寒くない?って上着をかけたり」
「……」
「ちゃんと帰れた?って連絡したり」
女の子の表情が少し変わった。
「健康を気づかうこと」
「うん」
「笑顔を見せること」
「うん」
「日々の日常を共有すること」
「……それも愛なの?」
「たぶんね」
猫は言った。
「すごく大きくて劇的なものだけが愛じゃない」
「映画みたいな?」
「そうそう。雨の中で叫んだり、崖で抱きしめたりだけが愛ではない」
「崖って何」
「知らないけど、物語ってすぐ崖に行くから」
女の子はふっと笑った。
「もっと静かなものかもしれないよ」
猫は続けた。
「たとえば」
「うん」
「自分の人生で一番大事な時に、一緒にいてくれた人」
女の子は目を伏せた。
「……」
「自分が一番大変な時に、一緒にいてくれた人」
「……」
「君が一番苦しい時に、そばにいた人」
胸の奥が少しだけ熱くなる。
思い出す顔があった。
特別な言葉なんてなかった。
何かを約束したわけでもない。
でも確かに、一緒にいた人がいた。
「なのに」
女の子はつぶやいた。
「なのに私は、愛を信じられない」
猫はすぐには答えなかった。
しばらく川の音だけが流れる。
「もしかしたら」
猫が静かに言った。
「愛がないんじゃなくて、受け取る心が少し固くなってるのかもしれないね」
「固い?」
「うん」
「どうして?」
「傷ついたから」
女の子は息を止めた。
「期待して傷ついたり」
「……」
「信じて裏切られたり」
「……」
「大切にされたかったのに、そう感じられなかったり」
女の子は黙っていた。
図星だった。
「心ってね、傷つくと固くなるんだ」
「自分を守るため?」
「そう」
猫はやさしくうなずく。
「感じすぎると痛いから」
「……」
「だから愛が来ても、うまく感じられないことがある」
「じゃあ私は、愛されてないわけじゃないの?」
「そうとは限らない」
猫はにっこりした。
「案外、ちゃんと愛されてたかもしれないよ」
「え」
「ただ、自分の心が“受け取れる状態じゃなかった”だけかもしれない」
女の子の目が少し潤んだ。
「そんなことあるかな」
「あるよ」
猫はやわらかく言う。
「愛は与える側だけじゃ完成しない」
「……」
「受け取る側の心も必要なんだ」
「心」
「少し柔らかくなること」
「どうやって?」
猫は笑った。
「当たり前を見つめることかな」
「当たり前?」
「おはようって言われる」
「うん」
「また明日ねって言われる」
「うん」
「ちゃんとご飯食べた?って聞かれる」
「……うん」
「そういう、何でもない日常」
猫は橋から飛び降りた。
「そこに愛があるかもしれないって思えるだけで、世界は少し変わるよ」
女の子は川を見つめた。
きらきら光る水面。
本当に、ずっとここにあったみたいに。
「愛って、すごく特別なものだと思ってた」
「特別でもあるよ」
「でも、もっと普通のものでもあるんだね」
「そう」
猫は歩き出した。
「愛は案外、静かなんだ」
「静か」
「毎日の中に溶け込んでる」
「だから気づきにくいのかな」
「うん。空気みたいにね」
女の子は胸に手を当てた。
少しだけ、あたたかい。
「私も、愛を感じられるかな」
「感じられるよ」
「ほんと?」
「心が少し柔らかくなればね」
猫は振り返る。
「愛を探すより、まず受け取る準備をすること」
「準備?」
「うん。“もしかしたら、もうここにあるかもしれない”って思ってみること」
女の子は小さくうなずいた。
橋を渡る風が、少しやさしく感じた。
「ねえ、猫さん」
「なあに?」
「愛って難しいね」
「かなり難しいね」
「でも少しだけわかった気がする」
「それはよかった」
「愛って、大きな奇跡じゃなくて」
女の子は空を見上げた。
「日常の中にある、小さなぬくもりなんだね」
猫は満足そうに目を細めた。
「そうそう」
そしてふたりはまた歩き出した。
まだ名前のついていない感情を抱えながら。
いつか、自分の心で愛を感じられる日へ向かって。




