― 消えたい日はどうすればいいの? ―
目を開けると。
そこは夜の海だった。
「わあ……」
女の子は思わず立ち止まった。
真っ暗な空。
黒い海。
ごうごうと強い風が吹いている。
遠くで波が岩にぶつかり、白く砕けていた。
海のそばには、古い灯台がひとつ立っている。
白い塔は、夜の中でぼんやり浮かんで見えた。
「今日はちょっと寒そうだね」
猫は平然と言った。
「ちょっとどころじゃないよ」
女の子は肩をすくめる。
「風すごいし」
「人生の重いテーマには風がつきものです」
「そういうルールあるの?」
猫は答えず、灯台のほうへ歩き出した。
ぎい、と古い扉を開ける。
中には細いらせん階段が続いていた。
「登るの?」
「うん」
「高そう……」
「今日は上から見る日だからね」
ふたりはゆっくり階段を登っていく。
こつ、こつ、と足音が響く。
かなり上まで登ったころ。
女の子がぽつりと言った。
「ねえ、猫さん」
「なあに?」
少しだけ沈んだ声だった。
「もう全部終わりにしたい人って」
「うん」
「こういう気持ちなのかな」
猫はすぐには答えなかった。
ただ、ゆっくり歩き続ける。
外では風の音。
遠くで波の音。
「全部、嫌になっちゃう時ってあるよね」
女の子は小さく言う。
「うん」
「疲れたり」
「うん」
「苦しかったり」
「うん」
「もう何も考えたくないって思ったり」
「あるね」
猫は静かにうなずいた。
「消えたいって思う人って」
女の子は続ける。
「死にたいっていうより」
「うん」
「今の苦しさから消えたいのかなって」
猫は少しだけ目を細めた。
「かなり近いと思う」
やっと灯台の上についた。
外へ出ると、そこには広い海が見えた。
真っ暗だった。
空と海の境界すら曖昧だった。
「何も見えないね」
「うん」
猫は手すりの上に座る。
「夜の海って、世界の終わりみたいに見えることがある」
「たしかに」
女の子は海を見つめた。
「なんか、このままずっと暗いままな気がする」
「そう見えるね」
風が吹く。
髪が揺れる。
しばらく黙っていたあと、猫が言った。
「でもね」
「うん?」
「夜の三時に見える世界と、朝の六時に見える世界は、わりと別物なんだよ」
女の子は猫を見る。
「別物?」
「うん」
「夜中って」
猫は空を見上げた。
「人間の心がかなり弱りやすい時間なんだ」
「そうなの?」
「疲れてるし」
「眠いし」
「考えが暗くなりやすい」
「なるほど」
「だから、その時間に出した結論は」
猫は少しだけ真面目に言った。
「わりと信用しすぎないほうがいい」
「え」
「世界の見え方自体が変わってることがあるから」
女の子は少し黙った。
「じゃあ」
「うん?」
「消えたいって思う時は?」
猫はやさしく答える。
「とりあえず朝まで待つ」
「シンプルだなあ」
「かなり大事だよ」
猫はうなずく。
「温かいものを飲む」
「うん」
「少し横になる」
「うん」
「信頼できる人に連絡する」
「うん」
「危ないものから離れる」
「うん」
「とにかく、その時間をやり過ごす」
女の子は静かに聞いていた。
「人生の本当に苦しい時間って」
猫は続ける。
「永遠みたいに感じるけど」
「うん」
「実際には、波みたいなことも多い」
「波」
「強くなる」
「少し弱まる」
「また来る」
「……」
「だから、ピークの時に全部決めないこと」
女の子は海を見る。
荒い波が何度も岸にぶつかっていた。
でも同じ波はひとつもない。
そのとき。
「あ」
女の子が声を上げた。
空の端が、ほんの少しだけ青くなっていた。
「明るくなってる」
「うん」
猫は笑った。
「ちゃんと朝は来る」
少しずつ。
本当に少しずつ。
黒かった海に色が戻っていく。
水平線が見えてきた。
「すごい……」
女の子は目を丸くした。
「さっきと全然違う」
「でしょう?」
猫はしっぽを揺らした。
「同じ世界なのにね」
「ほんとだ」
「今は何も見えなくても」
猫は海を見ながら言う。
「時間が経つと、景色が変わることがある」
「……うん」
「だから」
猫はやさしく続けた。
「今、生きる意味が見つからなくてもいい」
「え?」
「なくてもいい」
女の子は少し驚いた。
「そうなの?」
「うん」
「生きる意味って」
猫は笑う。
「あとから見つかることも多いから」
「あとから」
「今日死ななかったから見られた朝とか」
「……うん」
「出会えた人とか」
「うん」
「読めた本とか」
「うん」
「食べられたおいしいものとか」
「最後だけ急に現実的だね」
「たこ焼きはかなり重要」
女の子は少し笑った。
朝日が昇る。
海に金色の光が伸びていく。
「きれい」
女の子は小さくつぶやいた。
「うん」
「なんか」
胸に手を当てる。
「まだ全部は解決してないけど」
「うん」
「少しだけ、生きてもいいかもって思った」
猫は満足そうに目を細めた。
「それで十分」
海の向こうから、朝日がゆっくり昇っていく。
新しい光が、世界を少しずつ照らしていた。
おしまい




