― なんで生きるの? ―
夕焼けの海だった。
空はオレンジ色から紫へゆっくり変わっていき、海の水面にもその色が溶けていた。
波が静かに砂浜を行ったり来たりしている。
カモメが空を横切り、少し遠くでは魚がぴしゃりと水面を跳ねた。
女の子と猫は、並んで砂浜を歩いていた。
足あとが、波打ちぎわに並んでいく。
「ねえ、猫さん」
「なあに?」
女の子は少し黙ってから言った。
「なんで生きるの?」
猫はすぐには答えなかった。
波の音だけが、さらさらと続く。
「大きい質問だね」
「うん」
「たぶん、人類かなり昔から悩んでるやつだ」
「またそれ」
女の子は少し笑った。
でもその笑顔は少しだけ寂しかった。
「時々《ときどき》ね」
「うん」
「なんでこんなに頑張ってるんだろうって思うの」
「うん」
「嫌なこともあるし」
「うん」
「苦しいこともあるし」
「うん」
「だったら、なんで生きるんだろうって」
猫は海を見た。
夕日が水面に長い道を作っている。
「たしかに」
猫は静かに言った。
「生きるって、楽しいことだけじゃないからね」
「うん」
「むしろ大変なことも多い」
「そうだよ」
女の子は少しだけむくれた。
「宿題もあるし」
「急にスケールが縮んだね」
「宿題はかなり大変だよ」
猫はくすっと笑った。
「でもね」
「うん?」
「生きる意味って、最初から配られてる答えじゃないのかもしれない」
「え?」
「たとえば」
猫は砂浜にしゃがみこんだ。
小さな貝がらを拾う。
「これ、何に見える?」
「貝がら」
「そうだね」
「うん」
「でも人によっては、宝物かもしれない」
「宝物?」
「旅の思い出とか」
「たしかに」
「綺麗だと思う人もいるし、ただの石ころみたいに思う人もいる」
猫は貝がらを女の子に渡した。
「意味って、最初から決まってるんじゃなくて」
「うん」
「自分が見つけていくものなのかもしれない」
女の子は手の中の貝がらを見つめた。
「見つける」
「そう」
猫は立ち上がる。
「人生って、ちょっと宝探しに似てる」
「宝探し」
「うん」
「地図がない」
「えっ」
「ゴールも人によって違う」
「不親切すぎない?」
「かなり不親切」
猫は平然と言った。
「でも、そのぶん自由なんだよ」
「自由」
「決まりきった答えがないから」
「うん」
「自分で探せる」
波が足もとまで来て、また引いていった。
「なんで生きるのか」
猫は海を見る。
「この問いに、世界共通の正解はないと思う」
「ないの?」
「たぶんね」
「そっか……」
少し残念そうに女の子は言った。
「でも」
猫はやわらかく続けた。
「だからこそ面白い」
「え?」
「だって、自分で決められるから」
「自分で?」
「うん」
「誰かの答えを借りてもいいし」
「うん」
「自分だけの答えを探してもいい」
「自由だね」
「そう」
女の子は少し考えた。
「でも」
「うん?」
「どうしようもなく苦しい時ってあるよね」
風が少し強く吹いた。
「生きるのがつらい時とか」
「うん」
「全部やめたくなる時とか」
猫は静かにうなずいた。
「あるね」
「そういう時は?」
少しだけ真剣な声だった。
猫は少し考えてから言った。
「そういう時はね」
「うん」
「生きる意味を見つけようとしなくていいと思う」
「え?」
「大きすぎる問いだから」
「……」
「今は、とりあえず今日を越えることだけ考えてもいい」
「今日を越える」
「うん」
「ごはんを食べる」
「うん」
「眠る」
「うん」
「信頼できる人に話す」
「うん」
「病院に行く」
「……うん」
「そういう、小さいこと」
女の子は黙って聞いていた。
「生きる意味って」
猫は空を見上げる。
「元気な時に少しずつ探せばいい」
「少しずつ」
「苦しい時は、まず生き延びることが優先」
女の子の目が少しだけやわらかくなった。
「なんか」
「うん?」
「それなら少し安心する」
「よかった」
波の音。
夕日が少しずつ沈んでいく。
「ねえ、猫さん」
「なあに?」
「よりよく生きるって、なんだろう」
猫は少し笑った。
「難しいね」
「また難しい」
「でもたぶん」
猫は静かに言った。
「自分にできる範囲で、自分をちゃんと扱うことじゃないかな」
「自分をちゃんと扱う」
「うん」
「無理しすぎない」
「うん」
「人をなるべく大切にする」
「うん」
「自分もなるべく大切にする」
「……うん」
「そうやって積み重ねた先に」
猫は海の向こうを見る。
「よりよい死があるのかもしれない」
「よりよい死」
「いい人生だったなって思える終わり方」
女の子は静かに聞いていた。
「死ぬために生きるんじゃなくて」
猫は笑った。
「よく生きた結果として、よく終われたらいいよねって話」
「なるほど」
女の子は空を見上げた。
夕焼けが少しずつ夜になる。
「なんで生きるのか」
女の子は小さくつぶやく。
「まだ答えはわからないや」
「それでいいよ」
猫はやさしく言った。
「え?」
「答えがすぐ出る問いじゃないから」
「そっか」
「たぶんね」
猫はしっぽを揺らした。
「問い続けること自体に意味があるんだと思う」
「問い続ける」
「うん」
「なんで生きるんだろうって考えることは」
猫は女の子を見る。
「よりよく生きようとしてる証拠だから」
女の子は少し驚いて、それから笑った。
「そっか」
「うん」
「じゃあ私は」
女の子は水平線を見る。
まだ見えない向こう側。
「これからゆっくり探してみる」
「それがいい」
波が足もとをさらっていく。
また新しい足あとが残る。
女の子と猫は、夕暮れの海辺をまた歩き出した。
まだ見ぬ答えを探しながら。
おしまい




