ことばの波
次の日。
女の子は学校からの帰り道、公園のベンチに座っていた。
昨日より少しだけ背筋は伸びていたけれど、胸の奥にはまだ重たい石みたいなものが残っていた。
「……はぁ」
「ずいぶん深いため息だにゃ」
聞き覚えのある声。
振り向くと、あの白い猫がベンチの背もたれに器用に乗っていた。
「また来たの!?」
「来たというか、いたというか。猫はだいたい自由だよ」
猫はのんびりあくびをした。
女の子は少し笑ったけれど、すぐに表情を曇らせた。
「どうしたの?」
「……やっぱりね」
女の子は膝を見つめる。
「みんなに悪口を言われてる気がするの」
猫は首をかしげた。
「みんな?」
「うん……みんな」
「みんなって誰と誰と誰?」
「えっ」
女の子は言葉に詰まった。
「えっと……クラスの子とか」
「全員?」
「いや……全員じゃないけど」
「じゃあ、本当にみんな?」
猫はじっと見る。
女の子は黙った。
たしかに。
“みんな”なんて言ったけど、ちゃんと数えたことなんてなかった。
「……違うかも」
「人間は便利だねぇ」
猫は感心したように言う。
「二、三人に嫌なことを言われると、世界全部に嫌われた気分になれるんだから」
「それ全然うれしくない才能だよ……」
「そうかにゃ?」
猫は笑った。
「でも、それだけ君は人の言葉を大事にしてるってことだよ」
女の子は少しだけ目を丸くした。
「そうなの?」
「うん。どうでもいい人の言葉なら、そもそも傷つかない」
猫はしっぽを揺らした。
「じゃあ聞くけど、君は悪口って好き?」
「嫌い」
即答だった。
「なるほど」
猫は満足そうにうなずく。
「じゃあ、意外とみんな味方かもしれないよ」
「え?」
「君が嫌いなものは、案外ほかの人も嫌いだったりする」
猫はベンチから飛び降りた。
「悪口って、聞いてて気持ちいいものじゃないだろ?」
「うん」
「つまり、悪口はそんなに人気商品じゃない」
「人気商品って……」
思わず吹き出してしまう。
「だから、悪口を言う人の声だけが、やけに大きく聞こえるんだ」
猫は空を見上げた。
「静かな人は目立たないからね」
「でも」
女の子は少し不安そうに言った。
「もし本当に悪口を言われてたら?」
「そうだねぇ」
猫は少し考えるふりをした。
「じゃあ、旅に出よう」
「また?」
「本日も無料です」
「そこ重要なの?」
女の子は苦笑しながら目を閉じた。
気づくと、二人は海の上にいた。
「わあ!」
大きな青い海。
一艘の小さな船が波の上を進んでいる。
女の子と猫はその船に乗っていた。
「すごい……」
「人生号へようこそ」
「名前ダサくない?」
「細かいこと気にしない」
船は風を受けて進んでいく。
すると後ろに白い波ができた。
「見て」
猫が後ろを指さす。
「引き波だよ」
船が進むたび、波は大きく広がっていく。
「きれい」
「でも、この波の形を見て『なんだその波、ださい』って言う人がいたらどう?」
「えぇ……変な人」
「だよね」
猫は笑った。
「船は波を作るために進んでるんじゃない」
女の子は、はっとした。
「目的地へ向かうために進んでる」
「そう」
猫はうなずく。
「でも、進めば必ず波はできる」
風が少し強くなる。
船が速くなる。
引き波も大きくなる。
「勢いよく進めば、波も大きくなる」
「……そっか」
「人の評判って、だいたいこの波みたいなものなんだ」
猫は海を見る。
「進めば自然にできるもの」
「求めてできるものじゃない」
女の子は小さくつぶやいた。
「そう」
猫は目を細めた。
「なのに、その波の形ばっかり気にして船を止めたらどうなる?」
女の子は前を見る。
遠くに、水平線が広がっていた。
「……進めない」
「そういうこと」
女の子は船の先頭に立った。
風が気持ちいい。
胸の奥の重たい石が、少しずつ軽くなる。
「悪口って」
女の子が言う。
「悪口を言う人のものさしで生きることになるんだね」
「そう」
「それって……」
女の子は笑った。
「悪口の召使いみたい」
「やっとわかったかにゃ」
猫は満足そうだった。
「悪口は、言う人の都合で作られた張りぼてだよ」
「張りぼて?」
「見た目は大きくても、中身は空っぽ」
猫は前足で空をつつく。
「中身のない言葉で、自分の価値まで決めなくていい」
女の子は胸に手を当てた。
心臓の鼓動が聞こえる。
どくん、どくん、と。
「自分の価値は、自分のもの」
「うん」
「他人の評価ではかるものじゃない」
「うん」
「命そのものが知ってる」
猫の声は静かだった。
でも、まっすぐ胸に届いた。
目を開けると、公園だった。
夕焼けが空を染めている。
女の子は立ち上がった。
昨日より少しだけ、足に力が入る気がした。
「ありがとう」
猫はにゃあと鳴いた。
「覚えておいて」
「なにを?」
猫は歩きながら振り返る。
「君は波じゃない」
「え?」
「船だよ」
そう言って、猫は夕焼けの中へ消えていった。
女の子はしばらくその背中を見送っていた。
胸の中には、静かな確信があった。
波は消える。
けれど。
自分の進む道は、自分で決められる。
女の子は空を見上げ、小さく笑った。
「……よし」
そして、一歩前へ踏み出した。




