― 怒るのって悪いこと? ―
空が、ごろごろ鳴っていた。
山の上の小さな小屋。
窓の外では激しい雨が降っている。
「すごい雨……」
女の子は窓に近づいた。
空を切り裂くように、ぴかっと雷が光る。
「ひゃっ」
「びっくりした?」
猫は暖炉の前で丸くなっていた。
「するよ!」
女の子は少し肩をすくめる。
「なんか、怒ってるみたい」
「誰が?」
「空」
猫はくすっと笑った。
「たしかに」
また雷が鳴る。
どーん、とお腹に響く音。
「ねえ、猫さん」
「なあに?」
「怒るのって、悪いことかな」
猫は目を細めた。
「どうしてそう思ったの?」
「だって最近」
女の子は椅子に座った。
「怒らないことが大事ってよく聞くから」
「なるほど」
「アンガーマネジメントとか」
「人間は横文字にすると少しかっこよくなるね」
「そこじゃない」
女の子は少し笑った。
「怒ると負け、みたいな空気あるじゃない?」
「あるね」
「だから怒る自分がダメなのかなって思う」
猫は少し考えた。
「じゃあ質問」
「うん」
「怒る時って、どんな時?」
女の子は考える。
「嫌なこと言われた時とか」
「うん」
「バカにされた時とか」
「うん」
「悲しい時とか」
「おや」
猫は少し笑った。
「そこ大事」
「え?」
「怒りってね」
猫はしっぽをゆらす。
「実は二次感情なんだ」
「二次感情?」
「表面に出やすい感情ってこと」
「じゃあ一次は?」
「その下にある本音」
雷がまた光った。
「たとえば」
猫は前足でテーブルをとんとんした。
「本当は悲しかった」
「うん」
「怖かった」
「うん」
「寂しかった」
「……」
「傷ついた」
女の子は少し黙った。
「でも、そのまま出すのって難しいことがある」
「難しい?」
「人間は“悲しい”より“怒ってる”ほうが強く見えるからね」
「ああ……」
女の子は少し納得した顔になる。
「だから怒りって」
猫は静かに言う。
「心の防具みたいなところがある」
「防具」
「自分を守るために着る鎧」
「じゃあ怒りって、防衛なんだ」
「そういうことが多い」
雨音が少し弱くなった。
「たとえば」
猫は続ける。
「自分の尊厳が傷つけられた時」
「尊厳」
「大切に扱われなかった時」
「うん」
「理不尽に否定された時」
「うん」
「人は怒る」
女の子は小さくうなずいた。
「怒るって」
女の子はつぶやく。
「ここを傷つけないでってことなのかな」
「かなり近いね」
猫は満足そうだった。
「怒りには境界線を守る役割もある」
「境界線?」
「ここから先は嫌だよ、って線」
「……なるほど」
女の子は膝を抱える。
「でも、怒りすぎる人もいるよね」
「いるね」
「なんで?」
猫は窓の外を見た。
「怒りは強いエネルギーだから」
「エネルギー」
「正しく使うと、世界を変えることもある」
「世界?」
「歴史の中には」
猫は静かに言う。
「理不尽への怒りが社会を変えたこともある」
「そうなんだ」
「命がけで怒る人もいる」
「命がけ」
「生きるために怒ることもあるからね」
女の子は真剣な顔になる。
「じゃあ怒りって大事なんだ」
「うん。でも」
猫は少しだけ声を低くした。
「扱いを間違えると危ない」
「危ない?」
「雷みたいなものだから」
窓の外で、また遠くに光る。
「制御できないと、自分も周りも傷つける」
「たしかに……」
「だから」
猫はにっこり笑った。
「怒らないことが正解じゃない」
「え?」
「怒りに飲まれないことが大事」
女の子は目を丸くした。
「違うの?」
「全然違うよ」
「どう違うの?」
「怒りを感じる」
「うん」
「一回止まる」
「うん」
「この怒りの下に何があるんだろうって見る」
「悲しいとか?」
「怖いとか」
「傷ついたとか」
「そう」
猫はやさしく言った。
「怒りだけ投げると、相手には爆発しか届かない」
「爆発」
「でも本音を伝えると、会話になることがある」
「本音」
「私は悲しかった」
「うん」
「そう言われると違うね」
「でしょ?」
女の子は少し笑った。
外を見ると、雨がやんでいた。
雲の切れ間から星が見える。
「わあ……」
「雷もずっとは続かない」
猫が言う。
「怒りも同じ」
「ずっとじゃない」
「うん」
「大事なのは、通り過ぎたあと」
「あと?」
「その怒りから何を学ぶか」
女の子は静かに聞く。
「自分は何を大切にしたかったのか」
「……」
「何が傷ついたのか」
「……」
「どう伝えればよかったのか」
女の子は胸に手を当てた。
「怒っちゃダメなんじゃなくて」
「うん」
「怒り方を学ぶんだね」
「そういうこと」
猫は満足そうに目を細める。
「怒りは悪者じゃない」
「うん」
「ただ、ハンドルを渡しちゃいけない」
「ハンドル?」
「怒りに運転させるなってこと」
「なるほど」
女の子は少し笑った。
「猫さんって時々《ときどき》すごくいいこと言うね」
「時々?」
「基本かわいい担当だから」
「それ前も聞いた」
ふたりは並んで星空を見上げた。
空はもう静かだった。
「ねえ、猫さん」
「なあに?」
「私、怒ってもいいかな」
「もちろん」
「でも、ちゃんと扱えるようになりたい」
猫はうなずく。
「それが一番強い怒り方だね」
女の子は少しだけ胸を張った。
怒りはなくならない。
でも、少しだけ仲良くなれる気がした。




