― なんで急に泣きたくなるの? ―
夕暮れの花畑だった。
一面に広がる花たちが、オレンジ色の光を浴びてやさしく揺れている。
遠くには小さな丘。
空はピンクと金色が混ざっていて、まるで絵本みたいだった。
女の子と猫は、花のあいだをゆっくり歩いていた。
「きれいだね」
女の子はそう言ったけれど、声は少しだけ弱かった。
猫はちらりと女の子を見る。
「今日は少し疲れてるね」
「わかる?」
「かなり」
「猫ってすごい」
「顔に“ちょっと限界です”って書いてあるからね」
「そんなに?」
女の子は少し笑った。
でも、その笑顔はすぐに消えた。
「ねえ、猫さん」
「なあに?」
「なんで急に泣きたくなるんだろう」
猫は足を止めた。
「急に?」
「うん」
女の子は花を見つめる。
「別に今すぐ何かあったわけじゃないのに」
「うん」
「なんか急に涙が出そうになるの」
「なるほど」
猫は近くのベンチみたいな切り株に飛び乗った。
「じゃあ今日はコップの話をしようか」
「コップ?」
「うん」
猫は前足で空中に丸を描いた。
すると透明なコップがふわりと現れた。
「わあ」
「これは心のコップ」
「便利だね」
「かなりね」
コップの中には、少しだけ水が入っていた。
「この水が感情」
「感情?」
「悲しい」
ぽたり。
水が少し増える。
「不安」
ぽたり。
「寂しい」
ぽたり。
「疲れた」
ぽたり。
「我慢した」
ぽたり。ぽたり。
少しずつ水が増えていく。
「こうやってね」
猫は言う。
「人間は毎日少しずつ感情をためてる」
「少しずつ」
「学校で嫌なことがあったり」
「うん」
「家で気を使ったり」
「うん」
「ひとりで我慢したり」
「……うん」
女の子は少しうつむいた。
「でも一つ一つは小さいから」
「うん」
「自分でも気づきにくい」
コップの水はどんどん増えていく。
あと少しでいっぱいだ。
「そしてある日」
猫は小さな花びらを一枚落とした。
ぴと。
その瞬間。
水があふれた。
「あ」
女の子が目を丸くする。
「花びら一枚なのに」
「そう」
猫はうなずいた。
「最後のきっかけは、案外すごく小さい」
「……」
「好きなアイスが売り切れてたとか」
「それで泣いたら自分でもびっくりする」
「人類あるあるだね」
女の子は少し笑った。
「つまり」
猫は続ける。
「急に泣きたくなるんじゃなくて」
「うん」
「ずっと少しずつたまってたんだよ」
女の子は黙った。
「そっか」
「だから泣くこと自体は、そんなに悪いことじゃない」
「悪くないの?」
「うん」
「心の排水みたいなものだから」
「排水」
「涙で少し外に出すんだ」
女の子は夕日を見る。
空がゆっくり赤くなっていく。
「泣くと少し楽になることある」
「あるよね」
「泣ける映画見て泣いたり」
「うん」
「音楽で泣いたり」
「うん」
「そういうのも感情の整理なんだ」
「泣き活ってやつ?」
「最近の人類、名前つけるのうまいね」
女の子は少し笑った。
花畑に風が吹く。
花がゆらゆら揺れる。
「でも」
猫の声が少しだけ真面目になった。
「気をつけたほうがいい涙もある」
「え?」
「自分でも止められないくらい涙が出る」
「……」
「理由がよくわからないのにずっと苦しい」
「……」
「眠れない」
「……」
「食べられない」
「……」
「毎日がかなりしんどい」
女の子は静かに聞いていた。
「そういう時はね」
「うん」
「心のコップどころか、水槽ごとあふれてるかもしれない」
「それは大変だ」
「かなりね」
「そういう時は?」
「一人で抱え込まないこと」
猫はやさしく言った。
「信頼できる大人に話す」
「うん」
「相談する」
「うん」
「必要なら病院に行く」
「病院って、大げさじゃない?」
「いいや」
猫は首を振った。
「心も体の一部だからね」
「……そっか」
「足を骨折したら病院行くでしょう?」
「うん」
「心がかなり疲れてる時も同じだよ」
女の子は少し安心したように息をついた。
「じゃあ」
「うん?」
「泣くって、壊れてるわけじゃないんだね」
「もちろん」
猫は笑った。
「むしろ、“ちょっと休ませて”っていう心からのお知らせかもしれない」
女の子は胸に手を当てる。
少しだけあたたかかった。
「私、最近ちょっとためすぎてたかも」
「コップ、わりと満タンだったね」
「危なかった」
「あと三滴くらいだった」
「細かいなあ」
ふたりは笑った。
夕日が花畑を赤く染める。
「ねえ、猫さん」
「なあに?」
「泣いてもいいんだね」
「うん」
「ちゃんと泣けるって、感じられてるってことだから」
女の子は空を見上げた。
少しだけ涙がにじんだ。
でも今日は、前みたいに怖くなかった。
「じゃあ今日は少しだけ泣こうかな」
「いいね」
「花畑で泣くの、ちょっと映えるし」
「そういう問題?」
女の子は笑いながら涙をぬぐった。
花たちは何も言わず、ただ風に揺れていた。
泣くことは、弱さじゃない。
あふれた心が、自分を守ろうとしているだけかもしれない。
そう思うと、涙は少しだけやさしく思えた。




