― 許すってどういうこと? ―
夜になりかけていた。
空には星が少しずつ増えていく。
女の子と猫は、丸い湖のほとりを歩いていた。
湖はまるで鏡みたいに静かで、空の星をそのまま映していた。
風はやさしく、草がさらさらと鳴っている。
「きれい……」
女の子は湖を見つめながら言った。
けれど、その横顔は少し曇っていた。
「今日は心が少し重そうだね」
猫が聞く。
「……うん」
女の子は小石を拾って湖に投げた。
ぽちゃん。
丸い波紋が広がっていく。
「どうしたの?」
「許せない人がいるの」
猫は耳をぴくりと動かした。
「なるほど」
「ひどいことを言われたの」
「うん」
「今でも思い出すと腹が立つし、悲しくなる」
女の子はぎゅっと手を握った。
「でも」
「うん?」
「みんな“許したほうが楽だよ”って言う」
猫は少し考えた。
「難しい言葉だね」
「許すって何?」
「忘れること?」
「仲直りすること?」
「また仲良くすること?」
女の子は一気に言った。
「そんなのできないよ」
猫は静かにうなずいた。
「できなくてもいいよ」
「え?」
「許すってね」
猫は湖を見つめた。
「忘れることじゃない」
「違うの?」
「うん」
「記憶は残る」
「……うん」
「傷ついた事実も消えない」
女の子は黙った。
「じゃあ許せないままでいいの?」
「そうとも限らない」
猫はしっぽをゆらした。
「許さないっていうのはね」
「うん」
「心の中で、ずっとその人に縄をつないでるみたいなものなんだ」
「縄?」
「そう」
猫は前足で輪っかを作った。
「相手を縛る」
「うん」
「でも同時に、自分もその縄の反対側につながってる」
女の子は少し目を丸くした。
「自分も?」
「そう」
「ずっと怒ってると」
「……うん」
「相手のことを何度も思い出す」
「うん」
「何度も傷つく」
「……」
「つまり、相手は心の中に住み続ける」
「それ嫌だ」
「でしょう?」
女の子は少し顔をしかめた。
「じゃあ許すって」
「縄をほどくことかな」
「ほどく」
「うん」
「あなたがしたことは傷ついた」
「……」
「私は忘れない」
「……うん」
「でも、もうその感情に人生を支配させない」
猫の声は静かだった。
でもまっすぐ胸に届く。
「それが許すってこと?」
「ひとつの形だね」
女の子は湖に映る星を見る。
きらきら揺れている。
「でも」
「うん?」
「許したら、また近づかなきゃいけないの?」
「いや?」
猫は即答した。
「そこは別問題だよ」
「別問題?」
「もちろん」
「距離を取ってもいい」
「……」
「関係を終わらせてもいい」
「……うん」
「自分を守ることは悪じゃない」
女の子は少し安心したようだった。
「じゃあ、許すって優しくすることじゃないんだ」
「必ずしもね」
「むしろ」
猫は笑う。
「前に進むための整理整頓みたいなものかな」
「整理整頓?」
「心のお部屋に、ずっと怒りを置きっぱなしにすると散らかるからね」
「感情の片づけなんだ」
「そうそう」
女の子は少し笑った。
風が湖をなでる。
水面がやさしく揺れた。
「ねえ」
「なあに?」
「世の中には、ずっと許せないものもあるよね」
猫は空を見上げた。
「あるね」
「たとえば?」
「大きな争いとか」
「争い」
「傷つけられた記憶が長く残るとね」
「うん」
「怒りや悲しみが、だんだん恨みに変わることがある」
「恨み……」
「そうすると、“相手を許さない”ことで、お互いをずっと縛り続けることになる」
女の子は少し考えた。
「苦しいね」
「うん」
「だから本当は」
猫は静かに続ける。
「深い恨みを生むようなことは、なるべく起こさないのが大事なんだ」
「最初から?」
「そう」
「命を傷つけること」
「尊厳を踏みにじること」
「取り返しがつかないこと」
「そういうものは、できるだけ作らないほうがいい」
女の子はうなずいた。
「人って、思ってるよりちゃんと傷つくんだね」
「かなり繊細だからね」
「見た目わりと雑なのに」
「そこが人類の不思議」
女の子は少し笑った。
笑い声が湖に溶ける。
「じゃあ」
女の子は胸に手を当てた。
「私はどうしたらいいかな」
猫はやさしく言った。
「無理に急いで許さなくていい」
「うん」
「ただ、自分がその怒りに飲み込まれないようにすること」
「飲み込まれない」
「いつか縄をほどける日が来たら」
「……うん」
「その時に少し手放せばいい」
星が増えていく。
湖は夜空みたいだった。
「許すって」
女の子はつぶやく。
「相手のためだけじゃなくて」
「うん」
「自分の未来のためでもあるんだね」
猫は満足そうに目を細めた。
「そういうこと」
しばらく二人は黙って星を見ていた。
湖面に映る光は揺れている。
完全には同じ形にならない。
でも、それでも綺麗だった。
「ねえ、猫さん」
「なあに?」
「全部は許せなくてもいい?」
「もちろん」
「少しずつでいい?」
「そのほうが人間らしいね」
女の子は小さく笑った。
胸の中の固い結び目が、ほんの少しだけゆるんだ気がした。
「じゃあ今日は」
「うん」
「まだほどけなくても、結び目を見つけられただけで十分かな」
猫はうれしそうにしっぽをゆらした。
「かなり大きな一歩だよ」
夜風が吹く。
星空と湖のあいだで、ふたりは静かに歩き出した。
少しだけ軽くなった心と一緒に。




