― さよならってなんで悲しいの? ―
夕方の海だった。
空はオレンジ色に染まり、海の上には金色の道みたいに光が伸びている。
女の子と猫は、小さな白い船に乗っていた。
波はやさしく揺れていて、船は静かに進んでいく。
「きれい……」
女の子は海を見つめながらつぶやいた。
けれど、その声は少しだけ元気がなかった。
「今日は浮かない顔だね」
猫がマストの上から言う。
「……うん」
女の子はひざを抱えた。
「友だちが引っ越すんだって」
「なるほど」
「もう会えなくなるかもしれない」
海風が髪を揺らした。
「なんだか、それだけで胸が苦しいの」
猫は少しだけ目を細めた。
「さよならは悲しい?」
「悲しいよ」
「どうして?」
「だって……終わっちゃうから」
猫はしっぽをゆらした。
「本当に終わるのかな?」
「え?」
「引っ越したら、その子は消える?」
「消えないよ」
「思い出もなくなる?」
「なくならない」
「じゃあ、全部終わるわけじゃないね」
女の子は少し考えた。
「でも、今までみたいには会えない」
「そうだね」
猫はうなずいた。
「別れってね」
「うん」
「終わりというより、“関係の形が変わる”ことなんだ」
「形が変わる?」
「今までは毎日会えていたかもしれない」
「うん」
「でもこれからは、たまに連絡を取る関係になるかもしれない」
「たしかに」
「あるいは、何年か後にまた再会するかもしれない」
「映画みたいだね」
「人間は意外と再会イベント好きだからね」
「ゲームみたいに言わないで」
女の子は少し笑った。
船は波を切って進んでいく。
後ろには白い航跡が伸びていた。
「見てごらん」
猫が海を指した。
「船が通ったあと」
女の子は振り返る。
白い波が、ずっと後ろに続いている。
「跡が残ってる」
「そう」
猫は言った。
「船は前に進むと、後ろに跡を残す」
「うん」
「人生も少し似てる」
海風が少し強くなる。
「人と出会うと、心に跡が残るんだ」
「跡」
「楽しかった時間」
「……うん」
「笑ったこと」
「うん」
「一緒に泣いたこと」
「うん」
「全部、心に残る」
女の子は胸に手を当てた。
たしかに、なくなっていない。
友だちとの思い出は、ちゃんとここにある。
「でも」
女の子は少し小さな声で言った。
「もう会えない別れもあるよね」
猫は静かになった。
波の音だけが聞こえる。
「あるね」
「死んじゃったりとか」
「うん」
「そういうのは、本当に取り返しがつかない気がする」
猫はゆっくりうなずいた。
「それはそうだね」
「……」
「人生には、取り返せるものがたくさんある」
「うん」
「見逃したアニメも、たいてい配信がある」
「そこ例えにする?」
「現代社会は便利だからね」
女の子は少し笑った。
「でも」
猫は続ける。
「命に関わることや、本当の別れには、取り返しがつかないものもある」
「うん……」
「だからこそ大事なんだ」
「何が?」
「今、どう関わるか」
女の子は顔を上げた。
「今?」
「伝えたいことは伝える」
「……」
「ありがとうも」
「……うん」
「ごめんねも」
「うん」
「好きだよも」
女の子は少し照れくさそうに笑った。
「後悔しないように?」
「できるだけね」
猫は言った。
「でも、人間はたぶん完璧にはできない」
「また完璧の話?」
「だって人間だもの」
「雑だなあ」
「なので」
猫は続けた。
「後悔が生まれることもある」
女の子は静かに聞いていた。
「もっと優しくできたかもしれない」
「……」
「もっと話せばよかった」
「……」
「ちゃんと伝えればよかった」
胸が少し痛くなる。
「後悔って、悪いものなのかな」
女の子が聞いた。
「悪いだけじゃないよ」
猫はやさしく言った。
「後悔はね」
「うん」
「未来への宿題みたいなものなんだ」
「宿題?」
「次に大切な人と出会ったとき」
「……」
「今度はどうしたいかを教えてくれる」
女の子は目を丸くした。
「じゃあ」
「うん」
「後悔って、未来につながるんだ」
「そう」
猫は笑った。
「ただ自分を責め続けるためにあるんじゃない」
「学ぶため?」
「そう」
「次はもっと大切にしよう」
「次はちゃんと伝えよう」
「次は逃げずに向き合おう」
猫は海を見つめた。
「そうやって未来に渡していくものなんだ」
空は少しずつ紫色になっていく。
最初の星がひとつ光った。
「ねえ、猫さん」
「なあに?」
「別れって悲しいね」
「うん」
「でも、悲しいってことは」
女の子は少し笑った。
「それだけ大事だったってことだよね」
猫は満足そうに目を細めた。
「その通り」
船は静かに進んでいく。
海は広く、どこまでも続いていた。
「さよならって」
女の子はつぶやく。
「終わりじゃなくて」
「うん」
「ありがとうの続きなのかもしれないね」
猫はしっぽをゆらした。
「いい言葉だね」
女の子は空を見上げた。
少しだけ胸があたたかかった。
別れは悲しい。
でも、それは出会わなければ感じなかった痛みだ。
ならきっと、その悲しみの中には、ちゃんと愛がある。
船は夜の海へ進んでいく。
後ろには、白い波の跡を残しながら。




