― 自分の好きなことがわからない ―
深い森だった。
見上げても空が見えないくらい、 大きな木々《きぎ》が空を覆っている。
「わあ……」
女の子は立ち止まった。
木の幹はとても太い。
何百年もここにいるみたいだった。
「今日は森なんだね」
「巨木の森です」
猫が胸を張る。
「ネーミングそのままだね」
「わかりやすさ重視です」
森の中にはやわらかな光が差し込んでいた。
風が吹くたび、 葉っぱがさわさわ揺れる。
しばらく歩いてから、 女の子がぽつりと言った。
「私ね」
「うん」
「自分の好きなことがわからない」
猫は耳をぴくりと動かした。
「ほう」
「みんな、好きなものがあるみたいなの」
「うん」
「絵が好きとか」
「スポーツが好きとか」
「音楽が好きとか」
「あるね」
「でも私はよくわからない」
女の子は少しうつむく。
「周りに合わせてるうちに」
「自分が空っぽみたいに感じる」
森が少し静かになった気がした。
猫は少し考えてから言った。
「空っぽって、そんなに悪いことかな?」
「え?」
「だって」
猫は近くにあった古い木のうろを指した。
幹の真ん中にぽっかり穴が空いている。
「見て」
「穴だ」
「この木、中が空いてるね」
「うん」
「じゃあ、この木はダメな木かな?」
女の子は首をかしげる。
「別にそうは思わない」
「どうして?」
「だって、ちゃんと立ってるし」
「そう」
猫はにっこりした。
「空洞があるからこそ、鳥や小動物の家になることもある」
女の子は穴をのぞきこんだ。
中に小さな鳥の巣があった。
「ほんとだ」
「壺もそうだよ」
「壺?」
「中が空っぽだから使える」
「あ」
「コップも」
「家も」
「引き出しも」
女の子は少し笑った。
「たしかに」
「空っぽって、可能性でもあるんだ」
森をまた歩き出す。
「でも」 女の子は言う。
「好きなものがないのって、なんだか自分がないみたい」
猫は少し振り返った。
「好きってね」
「うん」
「探すものというより」
「うん」
「心が少し動いた瞬間を集めるものなんだよ」
「心が動いた瞬間?」
「そう」
猫は前足で葉っぱをつついた。
「これ、ちょっときれいだな」
「うん」
「この景色好きかも」
「うん」
「この匂い落ち着くな」
「……うん」
「そういう小さな“ちょっといいかも”の積み重ね」
女の子は目を丸くした。
「そんな小さいことでいいの?」
「かなりいい」
猫は断言した。
「好きって、最初から大きな旗みたいに立ってるわけじゃないから」
「なるほど」
森の奥に、 ものすごく大きな木が見えた。
幹は何人で囲んでも足りないくらい太い。
「すごい……」
「この木、何歳だと思う?」
「うーん……百年とか?」
「もっとかもね」
女の子は見上げた。
とても高い。
気が遠くなる。
「こんなに大きくなるまで時間がかかったんだ」
「そう」
猫はうなずく。
「いきなり巨木にはならない」
「そりゃそうだね」
「毎日少しずつ伸びた」
「少しずつ」
「人の心も同じだよ」
風が吹く。
葉っぱがきらきら光った。
「百歳のおじいさんでも」
猫が言う。
「まだ心は成長してたりする」
「百歳でも?」
「うん」
「人生かけて少しずつ育つんだ」
女の子は静かに聞いていた。
「じゃあ私」
「うん」
「まだ途中なんだ」
「かなり途中」
猫は笑う。
「僕らはまだまだ成長途中だよ」
「なんか安心する」
「でしょう?」
女の子は木の幹にそっと触れた。
ざらざらして、あたたかい。
「人に合わせられるのも才能なんだよ」
猫が言った。
「え?」
「相手を感じ取れるってことだから」
「そうなの?」
「うん」
「ただ、合わせすぎて自分が見えなくなると疲れるだけ」
「なるほど」
「だから少しずつ」
猫は空を見上げる。
「自分の小さな“好き”を拾っていけばいい」
「小さな好き」
「好きな色」
「好きな匂い」
「好きな時間」
「好きな景色」
女の子は少し考えた。
「私」
「うん?」
「森、好きかも」
猫は満足そうに目を細めた。
「いい一個目だね」
女の子は笑った。
「ほんとに小さい」
「最初はそんなもの」
森の出口が少し見えてくる。
光が差していた。
「覚えておいて」
猫が言う。
「空っぽに見えても、何もないわけじゃない」
「うん」
「中ではちゃんと育ってることもある」
女の子は胸に手を当てた。
まだはっきりしない。
でも、少しだけあたたかい。
「ゆっくりでいいんだね」
「かなりゆっくりでいい」
猫は笑った。
「巨木だって急いでないから」
ふたりはまた歩き出した。
まだ知らない、 自分の小さな“好き”を集めるために。




