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世界に魔法が在る限り  作者: Nary
第一章
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第八話 灰の村の少年Ⅰ(後編)

――聖暦七八八年 白息の月 二十四日


バルドの中で、試すという意識が静かに外れた。


目の前にいるのは、稽古の相手ではない。

測るだけで済ませてよいものでもない。


崩せるのか。崩せぬのか。


それを確かめねばならぬ対象として、

少年の輪郭が、朝の白い冷気の中でわずかに深くなった。


バルドが足を踏みしめる。

霜を含んだ土が、低く軋んだ。


それだけで空気の重さが変わり、

同じ空き地に立っているはずの二人のあいだに、

見えぬ段差のような緊張が生まれた。


「いいか。ここからは止めん。受けきれなければ、そのまま食らえ」


低く抑えられた声であった。

加減を外すという宣言ではない。

これ以上は、お前のために流れを殺さぬ、

という線引きであった。


「わかった」


レインは頷いた。

怯えはない。

強がりもない。

ただ、差し出された条件を、

そのまま受け取っただけの声であった。


バルドが踏み込む。

木刀が上がり、途中で軌道を変え、

見てからでは間に合わぬ位置へ落ちた。

レインは退かない。


半歩だけ、身体の置き場を変えた。

木刀はレインの肩があったはずの線を裂き、

空気だけを打った。


「下がるな」


「下がってない。ここにいる」


その言葉の通り、

距離は離れていなかった。

逃げたのではない。

当たる場所から、ただ外れていた。


バルドは間を置かず、二つ、三つと打ち込む。


速さを変え、重さを変え、

逃げ道を一つずつ潰していく。

レインはすべてを避けなかった。


当たる寸前で木刀の腹を触れさせ、

軌道だけを逸らし、

衝撃を殺しきる前に次の動きへ残した。


「全部外すな。少しくらい受けてみろ」


レインは正面に入った。

だが、止めなかった。

角度をつけ、受けた力を横へ逃がし、

その流れを次の踏み込みへ渡す。


「……いい。だが遅れるな」


「遅れてない」


短い返答と同時に、

少年の木刀が戻りきらぬ位置から再び出た。


バルドはそこで、

背筋の奥に冷たいものを覚えた。


才ではない。

稽古の成果でもない。

この子は、覚えているのではない。

合わせている。


バルドはさらに踏み込みを深くした。

避ける余地は与えない。

逃げ道を潰し、受けるしかない角度へ置いた。

これで崩れねば、偶然ではない。


木刀が落ちる。


レインは正面で受ける。

足は引いていない。軸も逃げていない。

ただ身体がわずかに沈み、

衝撃だけが土へ吸われるように消え、

その直後、力の向きが横へほどけた。


「……止めたな」


「止めてない。残した」


「何をだ?」


「次のために」


その返答と同時に、

レインが踏み込んだ。

速くなったのではない。


無駄が消えた。

その結果として、距離が消えた。


バルドは受けた。

だが、完全ではない。

鋭い軌道が防ぎきれぬ浅さで入り、

木刀を握る手の内へ、

細い楔のような違和感を差し込んだ。


「……ッ」


初めて、バルドの息が乱れた。

レインは止まらない。

勝ったからではない。


止まる理由がまだ来ていないからである。

一つ、二つ。

衝撃が積み重なり、

バルドの足が半歩、土を削った。


「……速いな」


「同じに合わせただけ」


「……何とだ?」


「さっきより、速いほうに」


その意味を、バルドは理解した。

積み上げているのではない。

見たものを、その場で更新している。


バルドは最後に、全身の重さを乗せて打ち込んだ。

木刀同士が正面で噛み合い、鈍い音が空き地へ落ちる。


押したのはバルドである。

だが、崩れたのもバルドだった。


木刀を弾かれたのではない。

握っていたはずの力の通り道だけを、抜かれた。

だから落ちた。


――カラン。


乾いた音が、白い朝の底へ小さく沈んだ。

バルドの両手に、木刀は無かった。


レインは止まった。

それ以上は追わなかった。


勝ちを拾った者の静止ではなく、

続ける理由が消えた者の静止であり、

木刀を下ろしたその姿には、

相手の武器を落としたという認識すら薄かった。


空き地には、まだ音の残骸が沈んでいた。


木刀同士がぶつかった鈍い衝撃は、

目に見えぬ波紋のように霜を含んだ土の奥へ染み込み、

しばらくしてから足裏へ微かな震えとして返ってくる。


バルドは己の手を見た。

指は開いている。

そこにあるはずの木刀はなく、

乾いた地面の上で横たわっていた。


弾かれたのではない。

奪われたのでもない。

握っていた力の通り道だけを、抜かれた。


だから落ちた。

その事実が、老いた骨の内側へ冷たく沈んだ。


「……お前、自分で分かっているのか?」


問いは低く置かれた。

責めるためではない。


いま起きたことを、

この少年がどこまで自分のものとして認識しているのか、

それを測るための刃であった。


レインはすぐには答えなかった。


先ほどの動きを内側でなぞり直し、

どこからどこまでが己の意思で、

どこからが流れに従っただけなのかを切り分けるような、短い沈黙があった。


「何が?」


逃げではない。

ただ、指し示されていないものを受け取らないだけの声だった。


バルドは一歩だけ距離を詰めた。

踏み込むほどではない。

だが、遠くもない。


「今の動きだ。同じにした、と言ったな」


レインは頷いた。


「見たから、出来た」


誇りもない。

謙遜もない。


ただ起きたことを、

地面へ小石を置くように差し出しただけの平坦さがあり、

その平坦さこそが、かえって異常の輪郭を際立たせていた。


「どこまで同じにした?」


「速さも、動きも、力の出方も」


「全部か」


「多分全部じゃない。でも……揃えば出来る」


バルドの目が細くなる。

その曖昧さは、理解が足りぬ者の濁りではない。


少年自身が、

自分に出来ることの境界をまだ持っていないがゆえの空白だった。


「……お前は、考えて動いていないな」


レインは否定しなかった。


「動く前に決まってるよ」


「何がだ?」


「次の動きが」


短い言葉だった。

だが、その短さの中に逃げ場はなかった。


バルドは深く、長く息を吐いた。

その呼吸の中で、

目の前のものを剣の技という枠へ収めることを諦めた。


「いいか」


声が沈む。


「お前のそれは、技じゃない」


レインは黙っている。


「癖でもない。鍛えた結果だけでもない」


バルドは木刀を拾い上げ、土を払った。


「……性質だ」


その一言が落ちた瞬間、

白い朝の冷気がわずかに重くなった。


努力でも習熟でもなく、

生まれついた構造として、

その異質さに逃れようのない輪郭が与えられたからである。


「普通の者は、見て、考えて、選んでから動く。

だが、お前は違う。

見た時点で終わっている。あとは通しているだけだ」


「うん」


「だから遅れることがない」


「そうだね」


「だから崩れることもない」


「そうだね」


同じ言葉であった。

だが、先ほどとは言葉に含まれている感情の意味が違っていた。


レインにとって崩れぬことは成果ではなく、

最初からそうあるべき状態でしかないことなのだと、

バルドはようやく理解した。


「その代わり――外れた時、立て直せないぞ」


レインは初めて、わずかに間を置いた。


「外さないよ」


「いつか外れる。必ずだ」


バルドは断じた。

経験として。

現実として。


「その時、お前は止まる。止まれば終わりだ。相手が普通ならな」


レインは黙った。

その沈黙は、不満ではなく、

知らぬ場所に初めて指を置かれた者の沈黙だった。


「今のは普通じゃない相手にも通じた。

だからこそ危うい。

通じたものを、お前は正しいと思い込む」


バルドは木刀を肩へ担いだ。


「明日からは、儂が見る」


レインは頷く。


「分かった」


喜びも怯えもない。

ただ、新しい反復の形を受け取っただけの静けさであった。

バルドはその静けさを見て、胸の奥に沈むものを覚えた。


村で隠し続ければよい。

そう思えた時期は、

もう過ぎたのかもしれない。


だが、外へ出すには早すぎる。

早すぎるのではない。

危うすぎる。


雷候の剣士――ザイレル・アレクサンダー・マクリーン。


その名が、ふとバルドの脳裏を掠めた。


まだ、呼ぶ時ではない。

だがいつか、この少年は、

村の老人が木刀一本で測れる場所を越える。


その確信だけが、

白い朝の冷気よりも深く、

バルドの胸に残った。


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