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世界に魔法が在る限り  作者: Nary
第一章
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第五話 村に落ちた火種(中編)

――聖暦七八一年 霜迎の月 十四日


火鉢の揺らめく灯りが赤子の胸元を照らし、

その未熟な命が確かにそこに在ることだけは、

誰の目にも疑いようがなかった。


白い肌の下で、小さな胸がかすかに上下している。

ただそれだけの動きが、

室内に満ちた大人たちの息を止めていた。


そこに、あるべきものがなかった。


炎でも、

水でも、

風でも、

地でも、

雷でも、

光でも、

闇でもない。


この世界に生まれ落ちた者が、

名を与えられるより先に宿すはずの紋章が、

どこにも刻まれていなかった。


誰かが息を吸った。

だが、吐く音はなかった。


火鉢の炭が小さく崩れ、

その乾いた音だけが、妙に大きく室内へ落ちた。


理解が遅れたのではない。

むしろ、理解そのものを拒むための猶予が、

ほんのわずかに与えられていたに過ぎなかった。


目に映る現実を認めてしまえば、

人が人としてこの世界に属するための前提が、

足元から剥がれ落ちる。

その直感を、誰もが言葉にすることなく共有していた。


沈黙が続いた。

だがそれは空白ではない。


誰もが同じものを見て、

同じ場所で思考を止めているために生まれた、

音のない圧であった。


やがて、その重みに耐えきれなくなった誰かの喉が、かすかに鳴った。


「……無い」


その言葉は疑問ではなく、確認ですらなく、

ただ目に映った事実が音へ変わっただけのものであった。


だが一度発せられた瞬間、

それは個人の錯覚ではなく、

この場全体の現実として固定された。


「紋章が……無い」


続いた声は震えていた。

恐怖そのものではない。

恐怖を、恐怖として認めてしまった者の震えであった。


「……そんなはずがない」


誰かが低く言った。

しかしその言葉は、赤子へ向けられたものではなく、

それを見てしまった自分自身を守るための脆い壁に近かった。


「見間違いだ……そうだろう」


応じる者はいなかった。

誰もが同じものを見ている以上、その問いは問いとして成立しない。


視線は逸らされるどころか、

確かめるように赤子の胸元へ吸い寄せられ、

そこにある“何も無い”という事実だけが、

見れば見るほど揺るがぬものとして意識へ刻み込まれていった。


誰かの踵が、床板を擦った。

一歩、赤子から遠ざかる音だった。

その一歩が、他の者たちの胸中にある逃げ道へ、形を与えかけた。


「……人じゃない」


小さな声だった。

だが、その一言は室内の空気を決定的に変えた。

理由を積み上げた結論ではない。

理由へ至る前に、恐怖が先に選び取った名であった。


「だから、あの場所に……」


誰かが言いかけ、途中で言葉を飲み込んだ。


焼け落ちた荷車。

消えた人影。

雨に洗われても残っていた、あの焦げた臭い。


それらが目の前の欠落と結びついた瞬間、

赤子は拾われた命ではなく、村へ運び込まれた災いとして輪郭を持ちはじめた。


バルドは何も言わなかった。

その沈黙が許可なのか、制止なのか、誰にも分からない。


だからこそ、誰も彼の前へ完全には踏み出せず、

恐怖だけが火鉢の熱よりも濃く室内へ溜まっていった。

ミリアの腕が、わずかに震えた。


それは寒さによるものではない。

だが彼女は赤子を離さず、むしろ胸へ強く抱き寄せ、

外界から遮るように小さな身体を包み込んだ。


「……違います」


かすかな声だった。

それでも、その声は確かに場の空気を揺らした。


「この子は……ただ、生きているだけです」


言葉としては弱い。

説明にも、反論にもなっていない。


だがそれは、この場でただ一つ、

恐怖ではなく命の側から発せられた言葉であった。


「……それで済む話か!」


低く返したのはドレンであった。

その声には怒りより先に、

恐怖を噛み殺した者だけが持つ硬さがあった。


「紋章が無い。それが何を意味するか、本当に分かって言っているのか!」


ミリアは答えなかった。

答えられないのではない。

言葉が届く段階を、この場がすでに過ぎかけていることを、

彼女は理解していた。


沈黙が落ちる。

先ほどまでの沈黙とは違う。

理解のためではなく、選択のための沈黙であった。


受け入れるのか。拒むのか。それとも、見なかったことにするのか。


その均衡の中で、エドガルが一歩前へ出た。


その背は、老いていた。

だが、退いてはいなかった。



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