第六話 村に落ちた火種(後編)
――聖暦七八一年 霜迎の月 十四日
エドガルが一歩前へ出たことで、
それまで辛うじて均衡を保っていた空気は、目に見えぬ形で確かに傾いた。
まだ誰も結論を口にしていない。
それでも、
この場がすでに“見ている段階”を終え、
“どうするかを決める段階”へ踏み込んでしまったことを、
そこにいる全員が理解していた。
先に口を開いたのは、ドレンであった。
彼は腕を組んだまま一歩踏み出し、
鍛冶で鍛えられた大きな身体で、室内の逃げ道を塞ぐように立った。
「……黙っていないで、なにか言ったらどうだエドガル」
その声音に怒鳴り声の粗さはない。
あるのは、怒りを喉の奥へ押し込めた結果として生じる硬さと、
誰かが曖昧なまま済ませることを許さぬ意志であった。
「あれは分からんで済ませる話じゃない。異常だろう?紋章が無い。それだけで十分だ」
言葉は短い。
だが、短いからこそ冷たく、余分な逃げ場を持たなかった。
「何者かも分からんものを、このまま村へ置くつもりか」
その言葉に、誰かの肩がわずかに落ちた。
反論ではない。
安堵に近い動きであった。
誰かが先に拒絶の形を与えたことで、
彼らはようやく己の恐怖を持てるようになったのである。
「災いかもしれん」
別の男が口を開いた。
「そうでない保証がどこにある?」
続く声も、同じ方角を向いていた。
「昨夜の雷も妙だった。山が鳴るにしても、あそこまで近いのは……」
言葉は途中で切れたが、それで十分だった。
恐怖は、理由が曖昧なほどよく育つ。
「普通じゃない」
誰かが言った。
その一言が、室内をさらに狭くした。
病んだ苗は抜く。
腐った芋は捨てる。
罠にかかった獣が黒い泡を吹いていれば、肉にはせず森へ返す。
この村では、迷いはしばしば冬より早く人を殺した。
ミリアの腕が、さらに強く閉じられる。
それはほとんど無意識の動きであり、
外から向けられる言葉を遮るように、内側の小さな身体を包み込む仕草であった。
彼女は何も言わない。
赤子の頬にかかった布の端を、そっと直しただけである。
その仕草だけが、この場のすべての言葉に対する、彼女の返答であった。
「……見て分からんのか」
ドレンが続けた。
「紋章が無いってのは、“どれでもない”ってことじゃない。“外れている”ってことだ」
その言葉は、単なる説明ではなかった。
意味づけである。
一拍。
火鉢の炭が、赤く小さく沈んだ。
「そんなものを、どう扱えってんだ」
誰も答えなかった。
答えが無いからではない。
答えを口にした時点で、それが決定になるからである。
バルドは火鉢の向こうで動かなかった。
誰の言葉にも頷かず、誰の怯えにも眉を動かさない。
その沈黙があるからこそ、村人たちは叫びきれず、
言葉の刃を途中で鈍らせていた。
「……置いておけるものじゃない」
別の声が重なる。
「冬を越えられるかどうかの話をしてるんだ。余計なものを抱える余裕なんてない」
その言葉は冷酷であった。
だが、間違ってはいなかった。
だからこそ、重い。
この村では、善悪より先に、残れるかどうかがある。
「情で決める話じゃない」
ドレンが言い切った。
「ここで間違えれば、全員が巻き添えになるんだ」
それは、場の誰もが抱えていた不安に輪郭を与える言葉であった。
一人の問題ではない。
村全体の問題である。
その響きが、火鉢のわずかな熱を押し潰すように、
室内の隅々へ沈んでいく。
ミリアの呼吸がわずかに乱れた。
それでも、腕は緩まない。
赤子は眠っている。
何も知らぬまま。
何も持たぬまま。
ただそこに在るだけの存在が、
この場にいる大人たちの判断を揺らしている。
その事実こそが、何よりも異様であった。
やがて、誰かが言った。
「領主へ引き渡すべきだ」
その言葉は、逃げ道であった。
自分たちで決めないという選択。
責任を外へ渡すという方法。
「そうだ……それが一番だ」
賛同が重なる。
「村で抱える話じゃない」
「上に任せればいい」
言葉が少しずつ増えていく。
方向が揃い始める。
だが、それでも完全にはまとまらなかった。
なぜなら、それが最善ではなく、
最も責任を遠くへ置ける選択だと、
誰もが薄々理解していたからである。
だからこそ、強く言い切れない。
だからこそ、押し切ろうとする。
ミリアは何も言わなかった。
ただ、赤子を抱く腕を緩めなかった。
その沈黙が、逆に場を揺らした。
完全には固まりきらない空気。
押し切れない圧。
その中心に、エドガルが立っている。
彼はまだ何も言っていなかった。
ただ、聞いていた。
すべてを受け止めていた。
その沈黙は、先ほどまでのものとは違う。
考えている沈黙ではない。
決めている沈黙であった。
やがて、その沈黙が限界に達した時——
エドガルが口を開いた。
声を張るでもなく、誰かを制するでもない。
ひどく低い声であったにもかかわらず、
それは先ほどまで重なり合っていた村人たちの言葉をすべて押し止めるに足る重さを持っていた。
「……順を決めるか」
短い一言だった。
だが、その言葉が意味するものを理解するには、それで足りた。
誰もすぐには応じず、
続きを聞くより先に、
嫌な予感だけが室内の湿った空気を這った。
「置いておけぬ者から外へ出すというなら、この子より先に儂だ」
その場にいた誰もが、
即座には反論できなかった。
それは情に訴える言葉ではなく、
事実として成立していたからである。
老いた身体、衰えた力、
若い頃のようには入れぬ山、
昔ほど深くは耕せぬ畑。
その現実を、この村の誰もが知っていた。
そして、知っていたからこそ、誰も口にはしてこなかった。
「儂はもう、満足に役には立たん。薪を割るにも時間がかかる。
山へ入っても獲物は逃がす。畑を耕しても、若い衆ほどの働きにはならん」
誰も否定しなかった。
できなかった。
あまりにも正確だった。
「そういう順で切るなら、話は簡単だ」
一拍。
「先に外へ出すのは、儂だ」
ドレンが歯を食いしばった。
それは反論ではない。
言葉が見つからないことへの苛立ちであった。
誰もが知っていた。
吹雪の晩に道を塞いだ倒木を、最後まで退かそうとしたのはエドガルだった。
飢饉の年、己の干し肉を半分に裂いて隣家の戸口へ置いていったのも、エドガルだった。
だから、その老爺が己を先に切れと言った時、誰も軽く笑えなかった。
エドガルは視線を逸らさない。
誰か一人ではなく、この場全体を受け止めるように、
深く皺の刻まれた顔を上げていた。
「この子が何者かは知らん。災いかもしれん。
そうでないかもしれん。そんなもの、儂には分からん」
沈黙が落ちる。
だが、それは押し潰される沈黙ではなく、受け止めるための沈黙であった。
「だがな」
エドガルは、わずかに息を吐いた。
「腹を空かせていたことは分かる」
「寒さに震えていたことも分かる」
「泣いていたことも分かる」
ミリアの腕の中で、赤子がかすかに息をした。
その小さな音が、やけに大きく聞こえた。
「分からんものを恐れるのは勝手だ。
だが、分かるものまで捨てる理由にはならん」
その言葉は強くはない。
だが、逃げ場がなかった。
理屈としては弱い。
されど、生き方としては揺るがなかった。
ドレンが口を開きかける。
しかし、声は出なかった。
何を言っても、それが自分の正しさではなく、
自分の都合になることを、彼自身がどこかで悟ってしまっていた。
「この子はまだ何もしておらん。
何にもなっておらん。ただ、精一杯生きているだけだ」
エドガルはゆっくりと言った。
余計な飾りのない言葉だった。
だからこそ、重かった。
「それを、どうするかだ」
それ以上は言わなかった。
言う必要がなかった。
沈黙が再び室内を満たす。
それは恐怖に押し潰される沈黙ではない。
選ばねばならぬ者たちの沈黙であった。
やがて、村長のバルドがゆっくりと口を開いた。
「……春までだ」
その声は低く、揺るがなかった。
「春まで、その子はエドガルの家で預かっておけ。
それまでに何も起きぬなら、そのまま育てろ」
ドレンが顔を上げたが、言葉は出なかった。
「何か起きた場合は、儂が領主へ使いを出す。
村の判断として、その責は儂が負う」
その一言が、すべてを決定づけた。
責任の所在が定まった瞬間、
責任を背負う覚悟を持たぬ者の反論は、意味を失った。
「食い扶持は各家から少しずつ出せ。
麦一掴みでいい。干し豆三粒でもいい。
出せぬ家は出さずともよい。
だが、出せる家は出せ。文句があるなら、儂の分から削れ」
それで終わりだった。
完全に決まった。
村人たちは、ゆっくりと動き出す。
納得している者はいない。
だが、拒む者もいない。
それが、この村の現実であった。
やがて人が引き、室内には老夫婦と村長だけが残った。
バルドは立ち上がり、ミリアの腕の中を一度だけ見た。
「……名は」
「レイン、と申します」
ミリアが答える。
バルドは小さく頷き、戸へ向かった。
その時、赤子が目を開いた。
夜を映したような瞳が、
泣きもせず、
怯えもせず、
ただ静かにバルドを見ていた。
幼子にあるはずの揺らぎはなく、
何も知らぬはずの存在が、
何かを見極めるような静けさだけがあった。
バルドの手が、わずかに止まる。
ほんの一瞬。
それだけであった。
やがて彼は何も言わず、戸を開けて外へ出た。
冷たい空気が流れ込む。
空はまだ重く、光は差さない。
そしてその日、村に落ちた火種は、消えることなく、
それぞれの胸の内で燻り続けることになった。




