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世界に魔法が在る限り  作者: Nary
第一章
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第四話 村に落ちた火種(前編)

――聖暦七八一年 霜迎の月 十四日


夜半の嵐は過ぎ去っていたが、

それは村に静けさを取り戻したという意味ではなかった。


むしろ暴威が去ったあとに残されたのは、

音の欠け落ちた不自然な沈黙であり、

何かが終わったのではなく、何かだけが取り残されているという感覚が、

湿った空気の底へ重く沈み込んでいた。


空は低く垂れこめ、

山々の上に広がる雲は陽光を押し留めたまま動こうとせず、

朝であるはずの景色は泥水を薄く塗られたように濁り、

村の色彩そのものが鈍く削ぎ落とされて見えた。


雨を吸い込んだ地面は深く沈み、

踏み出すたびに泥が靴底へ絡みつき、

歩くというただそれだけの行為にさえ、

見えぬ手で引き止められるような抵抗があった。


村は壊れていない。


折れた枝も、

倒れた桶も、

外れた縄も、

拾えば戻り、

結べば使え、

起こせば済むものばかりであった。


だが、それらに手をつける者は一人としていなかった。


薪を割る斧は振り下ろされぬまま止まり、

井戸の縄は半ばまで引かれたところで揺れ、

女たちの囁きは喉の奥で湿った息に変わり、

村人たちは戸口や窓の影へ身を寄せながら、同じ方向を見ていた。


村道を進む、二つの影。

先を歩くのはエドガルである。


古びた杖を地へ突き、

ぬかるみの深さを確かめるように足を運ぶその姿は老いを隠さなかったが、

長く土と向き合ってきた者だけが持つ確かさがあり、

曲がった背もまた衰えではなく、

積み重ねた年月がそのまま形を取ったもののようであった。


その後ろを歩くミリアは外套を深く閉じ、

その内へ小さな存在を抱き込んでいる。


腕は固く、胸元を守るように閉じられており、

それは寒さを防ぐ仕草であると同時に、

何かを奪わせまいとする意思の表れでもあった。


外套の内側で、布がわずかに動く。

赤子である。

昨夜、嵐の中で拾われた子。


それ以上のことを、誰も知らない。

誰も、最初の言葉を持たなかった。

理解できぬものを前にした時、人はまず距離を取り、

その距離を正当化するために、曖昧な視線だけを互いへ投げる。


「……あれか」


誰かが呟いた。


確認であった。

だがそれは、現実を受け入れるための言葉ではなく、

見ているものをそうだと認めることへの、わずかな抵抗であった。


「本当に連れてきたのか」


別の声が続く。

否定でも肯定でもなく、

ただ現実の輪郭を指でなぞるだけの言葉であり、

それ以上は誰も続けられなかった。


受け入れるのか。

拒むのか。

それとも見なかったことにするのか。


そのいずれもが、この村にとって軽い選択ではなかった。


エドガルとミリアは歩みを止めず、村の中央へと至った。

そこにあるのは村長の家であり、他の家より梁が一本多く、

壁の隙間がわずかに少ないだけの造りであったが、

この村においては、それだけで意味を持つ。


ここですべてが決まるからだ。

分けるものが、守るものが、そして切り捨てるものが。


すでに人は集まっていた。

戸前に立つ者、

壁に寄る者、

腕を組む者、

口を閉ざす者。


そのどれもが同じものを見ていながら、

同じ言葉を持たず、その揃わなさこそが、この場の不安定さを物語っていた。


歓迎の気配はない。

だが、露骨な拒絶もまたない。


それは優しさが残っているからだけではなく、

どちらを選んでも自分たちの冬が軽くならないことを、

誰もが知っていたからである。


エドガルは戸前で足を止め、

ミリアも一歩遅れて止まった。


一瞬、空気が張り詰める。


やがて、内側から音がした。

戸板が軋み、ゆっくりと開く。


現れたのは、村長バルドであった。


村の中央に据えられた古木のような男だった。

幾度となく雷に打たれ、風に軋み、

それでもなお根を地に深く沈め続けたものだけが持つ揺るぎなさを、

その背に纏っている。


誰もが無意識にその影の輪郭を避けるのは、

畏れというより、

そこに踏み込めば自らの軽さが露わになることを本能的に理解しているからに他ならない。


立ち姿に余計な力はない。

だがそれは緩みではなく、雪を載せた枝が折れる直前のように、

あらゆる重みを受け止めたまま、まだ折れずにいる沈黙であった。

動かないことがすでに圧であり、脅威であり、そして秩序そのものだった。


その視線は、まずミリアの腕の中へ落ちた。


次にミリアの顔へ。

最後にエドガルへ。

その順序が、この場における問題の中心を示していた。


しばしの沈黙ののち、短く言葉が落ちる。


「……入れ」


それは許可であると同時に、境界でもあった。

ここを越えれば、もう引き返せない。


二人は中へ入る。

続いて村人たちも流れ込む。

戸が閉じられ、外の気配が断たれた瞬間、

室内に満ちていた人の気配は逃げ場を失い、濃度を増して重く沈んだ。


中央には火鉢がある。

炭は赤く熾っているが、その熱は頼りなく、

ただそこに火があるという事実を示すだけのものに過ぎなかった。


ミリアの腕の中で、赤子は眠っている。

小さな胸が上下し、その命が確かにそこにあることだけは明らかであった。


だが問題は、その命があることではない。

その命が、何であるかだった。


バルドがゆっくりと腰を下ろす。

その動作だけで場の中心が定まり、

誰が決めるのか、誰が責を負うのか、そのすべてがそこへ収束した。


しばしの沈黙ののち、低い声が落ちる。


「……見せろ」


短い。だが、拒む余地はない。


ミリアの指先がわずかに震える。

それでも彼女は外套へ手をかけ、ゆっくりと開いた。


人は生まれながらにして、胸に己が属性の証を宿す。


炎であれ、

水であれ、

風であれ、

地であれ、

雷であれ、

光であれ、

闇であれ、


それは名よりも先に与えられる、

この世界に属するための印であった。


火鉢の灯りが、赤子の胸元へ差し込む。

白い肌。

その下で動く、かすかな命の証。

――そして。


そこにあるべきものが、存在しなかった。


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