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世界に魔法が在る限り  作者: Nary
第一章
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第三話 灰の村に雷は落ちる(後編)

――聖暦七八一年 霜迎の月 十三日


二人が家へ戻る頃には、赤子はミリアの腕の中で眠っていた。


先ほどまで嵐の底で命を削るように泣いていたとは思えぬほど、

その寝息は静かで、

小さな胸が規則正しく上下するたび、

幾重にも巻かれた布の端がかすかに揺れた。


ドレンの言葉は、雨よりも冷たく二人の背に残っていた。

拾った命は、お前ら二人だけのものでは済まない。

この村には、余った粥など一椀もない。


それでもミリアは、腕の中の重みを手放さなかった。


「起こさぬように、戸を開けてくださいな」


「儂は泥だらけだ。お前が先に入れ」


「ええ、そうしましょう。あなたは昔から、口より足元の方が危なっかしいですから」


ミリアは肩で戸を押し開き、

冷たい夜気を背にして慎重に家へ入った。


囲炉裏の火はまだ消えておらず、

赤く熾る炭が暗い室内をほのかに照らし、

外から連れ込まれた雨の匂いと泥の冷たさを、

わずかな温もりで押し返していた。


エドガルはすぐさま薪をくべた。


乾いた木が小さく爆ぜ、

火は眠りから起こされた獣のように息を吹き返し、

煤けた壁へ橙の光を這わせていく。


「湯を」


「今すぐに」


ミリアは鍋を外し、新たに水を足した。

薄い粥は今夜の食事であったが、彼女は迷わず桶へ移した。


食うはずだったものを惜しまぬということが、

貧しい者にとってどれほど重い決断であるかを、二人は骨の髄まで知っていた。

されど今、この小さな命の頬へ血の色を戻すことの方が、明日の腹よりも重かった。


寝台の上へ古い毛布を重ね、その中央へ赤子を寝かせる。

藁は痩せ、布は擦り切れ、継ぎ当ての跡は幾つもあったが、

それらは丁寧に干され、清潔に保たれていた。

貧しさの中で守られてきた、最後の柔らかさであった。


ミリアは赤子の濡れた布を解いた。


「まあ……冷えきっています」


白い腹。細い腕。薄い貝殻のような爪。

だが傷はなく、痣もなく、飢えに削られた痩せ方もしていない。


この辺境の嵐の夜に置き去りにされるには、

赤子はあまりにも大切に包まれていた。


「妙だな」


エドガルが低く言った。


「この布も、籠も……山村の者が持つ品じゃない」


「ならなおさら、なぜこの子だけが、あそこにいたのでしょう」


答えはなかった。

焼け落ちた荷車、消えた人影、残らぬ足跡、争った痕跡のない泥。


思い返すほどに、あの場所は雷に撃たれたというより、

何かを置くためだけに世界から切り抜かれた傷跡のようであった。

だが今は、詮索より先に命を繋がねばならなかった。


ミリアは温めた布で赤子の身体を拭き、

濡れた髪を乾かし、細い手足をそっと擦った。


その手つきは老いていたが、迷いはなく、

かつて失ったものを二度と冷たい寝床へ渡すまいとする者の、静かな必死さがあった。


「よしよし……もう寒くありませんよ」


その声に応えるように、赤子の指がミリアの袖を掴んだ。

ほんの小さな力である。

振り払おうと思えば、気づかぬほど容易く解ける力である。


だがその指は、二十余年ものあいだ閉ざされていた何かを、音もなく開いてしまった。


「……あなた」


ミリアの声が震えた。


「この子、掴みましたよ」


「見れば分かる」


「私を離したくないのでしょうか」


「袖を握っただけだ」


「ええ。けれど、袖を握れるほどには、生きております」


エドガルは何も返さず、火の番をするふりをして視線を逸らした。


やがて湯が温まる。

木椀へ少しだけ移し、何度も息を吹きかけて冷ましてから、

ミリアは匙の先へ含ませた。


赤子の唇へ触れさせると、小さな口が本能のままそれを求めた。


「飲めているな」


「生きる気がありますねぇ」


「最初からある。無いのは、周りの都合だ」


ミリアは何度か頷きながら、慎重に湯を与えた。

赤子は弱々しくも確かに飲み、

そのたびにこの家の空気は、

雨に濡れた夜から少しずつ切り離されていった。


外では雨が屋根を叩き、風はなおも村の柵を軋ませていたが、

家の中だけは別の時間が流れていた。


エドガルは寝台の傍らへ腰を下ろし、赤子の顔を見つめた。


濡れた睫毛の奥には、夜を映したような深い色の瞳があり、

泣き疲れたはずの赤子にしては不思議なほど騒がしさがなく、

まるでこの貧しい家の火と人の心を、静かに覚えているようであった。


「……変わった子だ」


「賢そうでしょう」


「赤子だぞ」


「あなたよりは、よほど物分かりがよさそうです」


「なら、儂には似まい」


その返しに、ミリアは声を立てて笑った。

どれほど久しぶりの笑い声だったのか、二人とも思い出せなかった。

思い出せないほど遠くへ、かつての日々は沈んでいた。


やがて赤子は再び眠りに落ちた。

その寝顔は穏やかで、嵐の夜に拾われた子とは思えぬほど安らかだった。


囲炉裏の火が揺れる。

名のないものは、村では長く持たない。


獣にも、畑にも、墓にも名があり、

名を与えることは、そこに在ることを認めることだった。


エドガルはしばし黙ってその小さな顔を見つめ、やがて低く言った。


「名は……レイン、としよう」


ミリアはその名を、口の中で大切に転がすように繰り返した。


「レイン……ええ、良い名です」


雨の日に来たからか。

乾ききっていたこの家へ、恵みのように運ばれてきたからか。

あるいは、理由など初めから必要なかったのか。


エドガルは何も語らなかった。

ミリアは赤子の額へ、そっと口づけた。


「おやすみなさい、レイン」


赤子は眠ったまま、小さく息を吐いた。


囲炉裏の火が揺れる。

二十余年ぶりに、その家には子守歌が戻っていた。


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