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世界に魔法が在る限り  作者: Nary
第一章
3/7

第二話 灰の村に雷は落ちる(中編)

――聖暦七八一年 霜迎の月 十三日


空は、落ちる直前まで何も告げなかった。


雲は厚く重なり、光を遮っていたが、嵐の兆しはどこにもなかった。

風もまだ村を叩かず、

鳥の声さえ普段と変わらぬ高さで続いていたため、

その静けさが破られる瞬間だけが、不自然なほど鮮明に切り取られた。


瞬間、閃光が走った。


――轟音。


音は、遅れなかった。


遅れるはずの距離を無視するように、

光と同時に叩きつけられた衝撃が、

大地ではなく空そのものを割ったかのように響き渡った。


家々の壁を震わせ、

戸を軋ませ、

村の中心を貫く細い道にまでその余韻を沈み込ませた。


「まあ……近いこと」


ミリアは胸元へ手を当て、小さく息を呑んだ。


「森へ落ちたか」


エドガルはそう言ったが、

その声音には、山鳴りと切り捨てるには重すぎる警戒が混じっていた。


長く山に生きた者には分かる。

今の雷は、ただ遠くで鳴ったものではない。


近い。あまりにも近い。


「誰か外にいたら、大変です」


問いかけではなく、確認でもなく、

ただ、そうであってほしくないという気配を含んだ言葉だった。


「こんな夜に外へ出る馬鹿はおらん」


言いながらも、エドガルは既に立ち上がっていた。

年老いてなお、村外れに住む者には癖がある。

異変があれば、自ら確かめねば眠れぬのだ。


壁際に立てかけてあった槍を手に取り、戸口へ向かう。


その槍は若き日に獣を仕留め、飢えを追い払い、

幾冬もの暮らしを支えた古道具であり、

穂先は鈍り、柄には無数の傷があったが、

なお彼の手には己の骨の一部のように馴染んでいた。


「待ってくださいな」


ミリアが外套を差し出した。


「風が出ています。肩を冷やしますよ」


「肩より先に腹が冷えている」


「減らず口を叩けるなら、まだ大丈夫ですね」


そう言って彼女は、自らエドガルの肩へ外套を掛けた。


その手つきは、妻というより、

幾度も熱に浮かされた者の額を拭ってきた母のそれに近かった。


エドガルは不満げに鼻を鳴らし、戸を開いた。


村のあちこちで戸が開き、

近隣の者たちが同じように外へ出てきているのが見えた。

誰もが同じ方向を見ていた。

言葉は少ない。だが、関心事は共有されている。


「何だ、今の音は」

「山崩れか?」

「いや、光ったぞ」

「見えなんだ。嘘を言うな」


不安は人を外へ出す。

だが安心が得られぬと知れば、すぐ家へ戻りたくもなる。

誰もが戸口と道との間で迷っていた。


鍛冶屋のドレンもまた、自宅の前で腕を組んでいた。

長年の鍛冶で煤けた前掛けをつけたまま外へ出ている。


エドガルが顔を覗かせたことに気付くと、

丸太のように太い腕を揺らしながら、こちらへ歩みを進めた。


「エドガル! 聞いたか、今の!」


「聞こえたから出てきた」


「山が裂けたみてえな音だったぞ」


「お前の耳は昔から大袈裟だ」


「耳じゃねえ、勘だ」


「その勘で去年、空樽を熊だと思って逃げただろうが」


ドレンは顔をしかめた。


「あれは暗かった」


「昼だった」


「……曇っていた」


ミリアがくすりと笑い、張り詰めた空気が、

ほんの少しだけ緩んだ。

しかし、その緩みを凍らせるように、夜気が牙を剥いた。


風は鋭く、雨は横殴りに吹きつけ、闇は濃く、

遠くの森影すら見えず、ただ稲妻の閃きだけが一瞬ごとに世界の輪郭を暴き出した。


「儂は行くぞ」


誰に向けた言葉でもない。

エドガルがぬかるんだ地面へ一歩踏み出した、その時だった。


……聞こえた。

微かな、あまりにも微かな音。

風の唸りに紛れ、雨粒の連なりに掻き消されそうな、か細い声。


エドガルの眉が動く。


「ミリア」


「ええ……私にも」


「ドレン」


「……何か、いやがるな」


三人は言葉を失ったまま耳を澄ませた。


か細く、喉の奥で裂けるような声が、

もう一度だけ闇の底から浮かび上がった。


獣ではない。鳥でもない。

幼き命が、喉の奥からようやく絞り出した泣き声であった。


「赤子……?」


ミリアの声が掠れる。


「馬鹿な」


エドガルは吐き捨てるように言った。

だが、この嵐の夜に理など通じぬことを、人生は何度も彼へ教えてきた。


「待ってなさい。私も行きます」


「お前は中にいろ」


「あなた一人で転んだら、運ぶ方が大変です」


「この歳で儂を担げるか」


「気合で何とかします」


「無茶を言うな」


「赤子を見捨てる方が、無茶です」


その一言に、エドガルは返す言葉を失った。


ミリアはもう、灯りを手にしていた。

油の乏しい小さな手提げ灯。

揺れる火は頼りなかったが、それでも闇に抗うには十分だった。


「おい、行くな! 何があるか分からんぞ!」


ドレンは二人の進路を遮るように立ちふさがった。


「分からんから、見る」


エドガルはそう言い、ドレンの横を通り過ぎた。

ミリアもまた、灯りを胸元に庇いながらそのあとを追った。


雨は容赦なく叩きつけ、足元の泥は靴を奪おうと絡みつく。

老いた身体には過酷な道であったが、泣き声はまだ聞こえていた。


細く、短く、消え入りそうに。


森へ向かう道は細く、

踏み固められているはずなのに、

今は妙に柔らかく感じられた。


土が沈むわけではない。

ただ、踏みしめた感触が返ってこない。

確かに歩いているのに、距離が消化されていないような感覚が残る。


背後で、妻の足音が続く。

エドガルは振り返らなかった。


振り返れば、そこにあるはずの距離が消えている気がして、

確かめること自体を避けたかった。


やがて稲妻が走り、白光が闇を裂いた。

その一瞬だけ、先の景色が浮かび上がる。


砕けた車輪。折れた車軸。黒く焦げた積荷。

焼け落ちた荷車だった。


雷に打たれたのであろう。

木材は炭のように黒く裂け、雨の中でなお白煙を上げている。


「なんてこと……」


ミリアが口元を押さえた。

エドガルは周囲を見回す。


人影はない。馬もいない。

血の跡も、争った痕跡もない。

あるのは、焼けた臭いと、濡れた土の匂い。


そして――泣き声。


荷車の傍らに、一つの籠が置かれていた。

丁寧に編まれた揺り籠であり、上から厚い布が幾重にも巻かれ、

雨が入り込まぬよう固く結ばれている。


「待て」


エドガルが低く言う。


「罠かもしれん」


「赤子の泣き声を使う者がいるなら、なおさら放っておけません」


ミリアは迷わなかった。

泥に膝をつき、布の結び目をほどく。

冷えた指は震えていたが、その手つきだけは優しかった。


布が開く。

中には、赤子がいた。


まだ生まれて間もないほど小さな身体。

白い布に包まれ、頬は寒さで赤く染まり、必死に手を握っている。

泣き疲れたのか、声はもう弱い。


「まあ……なんて、小さい子……」


ミリアはそっと抱き上げる。


驚くほど軽かった。

薪束よりも、鍋よりも、何よりも軽い。

それなのに、その存在は胸を打つほど重かった。


すると赤子は、ぴたりと泣き止んだ。


濡れた睫毛の奥から、夜の底を思わせる瞳がミリアを見つめる。

泣いていたはずの子とは思えぬほど、静かな眼差しだった。


「寒かったでしょう……怖かったでしょう……」


ミリアは赤子を胸へ抱き寄せ、何度も背を撫でた。


「もう大丈夫。もう大丈夫ですよ」


その声音は、二十余年前に失われたはずのものだった。

エドガルはしばし黙って見つめていた。やがて深く息を吐く。


「……家へ連れて帰るぞ」


「ええ」


「食い扶持が一つ増える」


「鍋の水を増やせば済みます」


「冬は長いぞ」


「なら、長く生きる理由が増えました」


エドガルは顔を背けた。

雨に濡れたのか、それとも別の理由か。

その横顔は、灯りの揺れの中でよく見えなかった。


雷鳴が再び空を裂く。


エドガルは肩の外套を脱ぎ、

赤子ごとミリアを包み込むように掛けた。


「急ぐぞ」


「ええ」


闇の中、小さな灯りが揺れていた。


それは辺境の寒村に灯る、あまりにも頼りない火である。

だがその夜、一つの命を救うには十分な明かりであった。


「おい、二人とも! 無事だったか!」


家の前でドレンが待っていた。


「ああ」


エドガルは低い声で答える。

二人の姿を見つけて安堵した様子のドレンだったが、

視線がミリアの腕の中へ移ると、その目は驚愕で見開かれた。


「……おい。まさか、そいつは」


「赤子だ」


エドガルは再び低く答えた。


ドレンは疑惑と混乱を隠そうともせず、濡れた前掛けの端を握り締めた。


「まさか、育てるって言うんじゃねえだろうな?」


「無論だ」


「村の状況は知ってんだろ」


「知っている。明日、村長のところへ連れて行く」


「好きにしろ。だが明日、必ず話せ。

拾った命は、お前ら二人だけのもんじゃ済まねえ。

この村には、余った粥なんざ一椀もねえんだ」


そう言うと、ドレンは踵を返し、雨の中を自宅へ戻っていった。


その背は冷たく見えたが、濡れた夜道に残された足跡だけは、

しばらく消えずにそこへあった。


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