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世界に魔法が在る限り  作者: Nary
第一章
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第一話 灰の村に雷は落ちる(前編)

――聖暦七八一年 霜迎の月 十三日


雪は、まだ降っていなかった。


されど霜迎の月も半ばを過ぎ、

季節は既に冬の門前へ膝を進めている。


北方の峰々より吹き下ろす風は、

目に見えぬ刃のごとく山間を走り、

痩せた木々の枝を軋ませ、

村を囲う粗末な木柵を老いた獣の肋骨のように震わせていた。


山間の小村――ハルヴェイン。


王都の学者が広げる精緻な地図においてすら、

そこは線の途切れた先へ申し訳程度に記されるだけの場所である。


街道より外れ、交易路より外れ、

領主の視線よりも外れた果てに、

風雪と沈黙に半ば呑まれながら息をしている寒村であった。


村に至る道は細く、

春には泥に沈み、

夏には草に隠れ、

秋には落石に塞がれ、

霜迎の月を過ぎれば雪が道そのものを喰らうため、

荷馬車が訪れることは稀である。


旅人の影など、

迷った者か、

追われた者か、

あるいは帰る場所を失った者のものに限られていた。


耕せる土地は少なく、

山肌を削って無理やり均した畑には、石ばかりがよく実っていた。


春に拾い尽くしたはずのそれらは、

翌年になるとまた土の底から顔を出していた。


麦は細く、芋は小さく、豆は病に弱く、

村人たちは土を耕しているのか、

土に己の命を少しずつ削らせているのか、

時折わからなくなるほどであった。


男たちは夜明け前に山へ入り、

罠を見回り、獣の足跡を追い、

鹿一頭が獲れれば村じゅうが安堵した。


兎一羽でも鍋の匂いは少しだけ明るくなったが、

何も得られぬ日には、誰も責めず、誰も慰めず、

ただ斧だけを担いだ背中が夕暮れの道を戻ってきた。


女たちは畑を守り、

痩せた土を鍬で返し、虫を潰し、

冷えた手で苗を支えていた。


洗濯桶の水に指先の傷を開かせながら、

それでも僅かな収穫を何度にも分け、

冬という名の長い飢えへ繋いだ。


子らは薪を拾った。

山裾を歩き、折れ枝を集め、

落葉の下に埋もれた小枝を掘り起こした。

背丈ほどもある束を縄で括って村へ運ぶその姿は、

幼さより先に重みを覚えさせられた者たちの、小さな沈黙であった。


豊かさとは無縁だった。

されど、そこには人が人として暮らすだけの温もりが残っていた。


祭りの日には薄い葡萄酒が回り、

秋の終わりには掠れた歌が囲炉裏の煙に混じり、

老人は昔語りをし、女たちは笑い、子らは泥にまみれて駆けた。


豪奢なものなど何一つない。

それでもハルヴェインには、まだ、

明日を諦めきれぬ者たちの生活があった。

村外れに、

他の家々よりさらに古びた一軒の小屋がある。


壁の土はところどころ剥がれ、

梁は煤で黒ずみ、

戸板には幾度となく打ち直された釘の跡が残っていた。


窓に張られた油紙は白く曇って、

風が吹くたびに細い呻きのような音を漏らした。


だが、荒れた家ではなかった。


掃き清められた土間、

丁寧に束ねられた薪、

磨かれた鍋、

擦り切れながらも繕われた布、

そうしたものの一つ一つに、

貧しさへ膝を折らぬ者だけが持つ静かな抵抗が宿っていた。


囲炉裏の火は頼りなく揺れ、

その上に吊られた鍋の中では、

粥とも呼べぬほど薄い湯が小さく泡を立てている。


麦粒は少なく、

水面に浮かぶ野草の切れ端だけが、

どうにか食事という形を保たせていた。


「……もう少し、麦を足しましょうか」


そう言ったのは、老女ミリアである。


背は小さく丸まり、長年の労働に晒された手は細く節くれ立っている。

指先には水仕事で開いた裂け傷が幾筋も走っていたが、

鍋をかき混ぜる所作だけは不思議なほど丁寧で、

まるで貧しさそのものに礼を失うまいとしているかのようであった。


囲炉裏の向こうでは、老爺エドガルが薪を割っていた。


白髪混じりの短い髪、深く刻まれた皺、

無精髭の混じる顎、

若き日に逞しかったであろう肩は今や痩せてしまっている。


片脚には古傷のためか僅かな引きずりがあったが、

斧を振るう腕筋には、

使い尽くされてなお残った鉄のような力が沈んでいた。


「足せば、明日の分が減る」


ぶっきらぼうにそう答え、割った薪を積み上げる。


「明日のことばかり考えて、今日倒れたら元も子もないでしょう」


「今日食って、明日倒れるのも同じだ」


「あなたは昔から、口だけはよく働きますねぇ」


ミリアはくすりと笑った。

その笑い声は小さかったが、

冷えた家の空気をわずかに緩めるには、それで十分であった。

エドガルは鼻を鳴らし、無言で椀を差し出す。


「ほら。そうやって黙る時は、言い返せない時です」


「……腹が減っているだけだ」


「ええ、そういうことにしておきましょう」


二人の間に流れるものは、若者の恋のような熱ではない。


長き歳月の底で、怒りも諦めも涙も分け合い、

言葉にせずとも互いの傷の位置を知っている者だけが持つ、

静かで逃げ場のない温度であった。


梁の低い壁には、今も二本の古い傷が残っている。


春が来るたび、エドガルが小刀で刻んだ子らの背丈の印であり、

片方は急に伸び、片方はいつも少し遅れ、

そのたびに狭い家の中には泣き笑いの声が満ちていた。


だが流行り病が村を襲った年、二つの傷はそこで止まった。


熱に浮かされた小さな手はやがて力を失い、

薬師も祈祷師も山道の雪に阻まれ、

親の願いだけが、冷えた寝床の傍らに取り残された。


それから長いあいだ、この家から笑い声は消えた。


ミリアは泣き、エドガルは黙り、

季節だけが、何も知らぬ顔で何度も巡った。

土を耕し、種を撒き、収穫し、冬を越える。

ただそれだけを、祈るでもなく繰り返して生きてきた。


悲しみが消えることはなかった。

ただ、土に混ざって沈むのと同じように、

日々の底へ少しずつ埋もれていった。


その夜、埋もれたはずのものを掘り返すように、雷がまた遠くで鳴った。


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