プロローグ
世界が、まだ泣いていた頃の話である。
天は鉛のごとき雲に閉ざされ、
陽光は幾年ものあいだ地へ届かなかった。
昼なお薄闇が荒野を這い、夜は底なき奈落のように深く、
星々すら人の世を見捨てたかのように姿を隠していた。
海は黒く濁り、潮は腐臭を孕んで岸を打った。
浜辺には砕けた舟、折れた櫂。
抱き合うように朽ちた親子の骸が積み上がり、
波が寄せてはそれらを洗い、引いてはまた別の亡骸を運んできた。
大地には墓標が林立していた。
されどそれは死者を悼むためのものではない。
埋める者を失った遺体の在り処を示す、ただそれだけの印であった。
土を掘る力もなく、涙を流す気力もない。
人々は倒れた者の傍らへ木片を立て、
次に倒れるのが己でないことだけを祈った。
人は飢えた。
飢えは理性を削り、誇りを喰らい、親子を引き裂いた。
一片の黒パンのために友は友を売り、
半ば腐った根菜のために兄弟は刃を交えた。
昨日まで隣人であった者が、
今日には盗人として吊るされ、明日にはその死体を奪い合う。
人は奪い、裏切り、赦しを乞い、祈りながら死んだ。
明日を語る声は絶え、昨日を偲ぶ歌も失われた。
鐘の音は止み、書物は焚き木となり、
子らの笑い声というものを誰も思い出せぬ時代である。
死者の嘆きは、土へ還らなかった。
空へ昇ることもなく、冥き底へ沈むこともない。
行き場を失ったそれらは、ただ世界の狭間を彷徨った。
見えぬ霧のように。
触れれば凍える風のように。
耳を澄ませば、遠いすすり泣きのように。
それらはやがて、怨嗟となる。
生への執着。
奪われた怒り。
果たされなかった約束。
届かなかった祈り。
愛した者を残して逝かねばならなかった無念。
死してなお滅びぬ想いは濁り、捻じれ、毒となった。
怨嗟は死にゆく命へ縋りつき、温もりある命へ喰らいついた。
病床で息絶えた老人は、次の瞬間、家族の喉笛へ牙を立てた。
戦場で胸を貫かれた兵は、
倒れ伏したままなお這いずり、味方の脚へ噛みついた。
母の腕の中で息を引き取った幼子は、泣きながら母の頬を食い千切った。
憑かれた者たちは喉奥より人ならぬ咆哮を漏らし、
己が肉を裂き、骨を軋ませ、異形へと姿を変えていった。
腕は獣の脚へ。
顎は裂けて牙を生やし、背は歪み、目は濁った炎を宿した。
中には幾つもの死者が一つの肉塊へ縫い合わされたような怪物もあった。
中には羽なきまま空を泳ぎ、影だけで人を絞め殺すものもあった。
人ならざる者。
獣ならざる者。
理の外に生まれ落ちた、災厄の具現。
それらすべての異形――魔物。
魔物は飢えていた。
肉を喰らっても飽きず。
骨を噛み砕いても満たされず。
悲鳴を浴びても止まらない。
夜ごと村々を襲い、家畜を裂き、
井戸へ毒を垂らし、女や子らを攫い、老人を嬲り殺した。
その眼に理性はなく。
その爪に慈悲はなく。
その牙に終わりはなかった。
人類は抗った。
弓を取り、
槍を構え、
剣を抜き、
斧を振るい、
火矢を放ち、
油を撒き、
石垣を積み、
堀を穿ち、
ありとあらゆる知恵と技を尽くして抗戦した。
若き者は兵となった。
老いた者は盾となった。
女たちは包帯を裂き、矢を継ぎ、時に包丁を手に門へ立った。
幼き者ですら石を拾い、壁上から投げた。
されど、その抵抗もまた虚しかった。
一つの城塞が一月持ちこたえる間に、十の村が地図から消えた。
一人の英雄が百の魔物を討つ間に、千の民が喰われた。
勝利は詩に残るほど稀であり、敗北は朝露のようにありふれていた。
王は玉座の上で喰われ、将軍は軍旗ごと引き裂かれ、賢者は塔ごと焼かれた。
都は沈み、街道は絶え、川には血が流れた。
言葉すら、明日まで残る保証のない時代。
人々はついに、ただ一つの願いだけを抱くに至った。
生きたい。
富もいらぬ。
名誉もいらぬ。
王冠も冠位も愛憎も復讐も、すべては後でよかった。
ただ、生きたい。
その願いは弱く、儚く、吹けば散る火の粉にも似ていた。
されど無数にあった。
星より多く。
砂より細かく。
絶望の底でなお消えぬ灯火として、確かに世界へ満ちていた。
そして、その願いを拾い集めた二人がいた。
後に始祖の魔法使いと呼ばれる、名もなき男女である。
その男、瞳は猛禽のごとく鋭く、屍山血河を越えてなお曇らぬ覇気を宿していた。
無数の傷痕を刻んだ顔貌は荒々しく、
頬を走る裂傷は幾度となく死線を潜った証そのものであった。
岩塊めいた体躯はただ立つだけで空気を張り詰めさせ、
その背には幾千の魔物を断った黒鉄の大剣があった。
口数は少なく、敵には苛烈、
されど弱き者へ向ける眼差しには不器用な温情が宿っていた。
その背を見た者は勇気を知り、その剣を見た者は絶望を忘れたという。
その女、月光を人の姿に写したかのような静謐を纏い、
絶望の只中にあってなお微笑みを失わなかった。
長く流れる髪は夜の帳のごとく、
透き通る双眸には幾千幾万の悲劇を映してなお濁らぬ慈愛が湛えられていた。
白く細い指先が触れれば苦痛に喘ぐ者は安らぎ、
狂気に囚われた者すら涙して膝を折った。
声音は春雨にも似て柔らかく、
泣き叫ぶ幼子を眠らせ、死を恐れる兵に再び立つ力を与えた。
されどその胸中には、誰よりも苛烈な覚悟が燃えていた。
二人は互いに多くを語らなかった。
男が剣を構えれば、女は何も告げずその背を守った。
女が手を差し伸べれば、男は問うことなくその前に立った。
誓約ではなく戦場によって結ばれた、ただ二人だけの絆である。
世界に見捨てられた時代にあって、ただ二人だけが、人を見捨てなかった。
男は言った。
「願いがある限り、人は終わらない」
女は答えた。
「ならば、その願いに形を与えましょう」
二人は世界の中心、天と地の裂け目――あらゆる怨嗟が吹き上がる深淵へと赴いた。
足下には亡者の呻き。
頭上には滅びの雲。
その狭間に立ち、二人は己が命を灯火として捧げた。
怒りは炎となった。
慈しみは水となった。
自由は風となった。
守護は地となった。
変革は雷となった。
救済は光となった。
秘めた想いは闇となった。
七つの願いは七つの紋章となり、人の胸へ刻まれた。
その瞬間、世界は初めて牙を得た。
炎は魔物を焼き尽くした。
水は傷を癒し、命を繋いだ。
風は矢を千里へ運んだ。
地は都を護る城壁となった。
雷は巨獣の骨を穿った。
光は怨嗟を祓い清めた。
闇は夜に潜む敵を討った。
それが――魔法の始まりであった。
だが、女はなおも世界の先を見ていた。
魔物が滅び、争いが消え、すべての願いが叶ったその時。
願いを源とする力は、役目を終えながらも残り続ける。
残された力は、願いなき空白を埋めるため、やがて欲望へ変わるだろう。
欲望は心を蝕み、人を再び怨嗟へ堕とし、新たな災厄を生むだろう。
救済の力が、次なる破滅になる。
女は静かに目を伏せた。
「ならば、終わらせる者が必要です」
男は頷き、黒鉄の剣へ最後の力を注ぎ込んだ。
二人は、七つの理の外に在る、
誰にも継がれぬ印を生んだ。
炎にも、
水にも、
風にも、
地にも、
雷にも、
光にも、
闇にも属さぬ、
願いの果てにのみ開かれる空白であった。
魔法を否定するためではない。
魔法が果たすべき救済を終えた時、
その力が人の心を蝕む前に、静かに幕を下ろすための鍵であった。
されど鍵は、ただ在るだけでは扉を開かない。
男が剣へ刻んだ血の記憶。
女が涙へ託した祈りの残響。
その二つが遠き時の果てで巡り会い、
互いを選び、互いの孤独を恐れぬものとなった時、
願いより生まれた時代は、ようやく己が終わりを知る。
女は、深淵の底から吹き上がる怨嗟の風に髪を揺らしながら、
まだ見ぬ命へ触れるように手を伸ばした。
「あの子に、心は宿るでしょうか」
それは問いというより、罪を知る者だけが許される祈りであった。
救うために力を生み、終わらせるために命を生む。
その矛盾を、女は誰よりも深く理解していた。
男は黒鉄の剣を地へ突き立て、
裂けた掌から滴る血が刃を伝うのを見つめた。
やがて、荒れ果てた顔に、
戦場では決して見せぬほど微かな笑みが浮かんだ。
「願いから生まれるなら、心なきはずがない」
その言葉を最後の礎として、
二人は己に残されたすべてを世界へ捧げた。
光が裂けた。
夜が昼となり、
昼は白き虚無へ沈み、
時の流れすら深淵の縁で膝を折った。
轟音はなく、
咆哮もなく、
ただ世界そのものが息を呑むような沈黙の中心で、
一人の赤子が産声を上げた。
その小さな胸には、
七つの時代が刻んだいかなる証も浮かんでいなかった。
されど、その泣き声だけは、
獣でも、
災厄でも、
神でもなく、
確かに人のものであった。
女は崩れゆく指先で赤子の頬に触れた。
灰となりつつある肌から零れた涙は、
頬へ落ちる前に光へ変わり、
幼き命の周囲を淡く巡った。
「何度でも生まれなさい。
果たせぬ限り、何度でも」
男は己の半身にも等しい黒鉄の剣を赤子の傍らへ置いた。
幾千の魔物を断ち、
幾万の死を越えてなお折れなかった刃が、
その時だけは墓標のように静かであった。
「次こそ、守れ」
命令ではなかった。
託宣でもなかった。
それは、守れなかったものを数え続けてきた男が、
最後に未来へ差し出した、ただ一つの願いであった。
二人の身体は灰となり、風に散った。
灰は天へ昇らず、地へも落ちず、
しばし赤子の周囲を漂ったのち、
まるで眠る子を覆う薄布のように光へ溶けた。
赤子もまた、泣き声の余韻だけを世界に残し、
輪廻の奥へ還っていく。
こうして世界は魔法を得た。
そして誰にも知られぬまま、
救済の名を与えられた力をいつか葬るための命もまた、生まれた。
その名は、まだ無い。
幾度もの生と死を越え、遠い未来。
雷鳴は天を裂き、灰は風に舞った。
滅びゆく村の森の中、ひとりの子が静かに瞼を開く。
その身に王の証はなく、
その胸に世界が認める紋章もなく、
その瞳に宿る意味を知る者もいない。
願いの終わりに生まれし者。
ただ、終焉のみが、長き眠りの底で、彼の目覚めを待っていた。




