第十三話 ざわめく森(中編)
――聖暦七八八年 雪閉の月 三日
そして――それの視線が、完全にこちらへ向いた。
見えたのではない。
見てしまったのだという感覚が、
先に胸の内側へ落ちた。
木々のあいだにあった影が、遅れて輪郭を帯びる。
三メートルを優に超える巨躯が、
森の空間そのものを押し広げるように立っていた。
体表は毛とも皮膚ともつかぬ粗い質感を持ち、
光を受けても重さを返さず、
実体として定まりきることを拒むように、
わずかに揺らいでいる。
丸太を束ねたような腕が垂れ、
頭部からは太く短い角が無造作に突き出ていた。
その奥にある目は、光ってはいない。
だが、こちらを捉えている。
視線というより、圧そのものが空間を満たしていた。
レインの喉がひきつる。
――魔物。
声にしようとした瞬間、
それが危険であるという理解が先に割り込み、
発声も呼吸も途中で断ち切られた。
魔物が、口を開いた。
緩慢ではない。
止められぬことが決まっているものだけが持つ、
確定の遅さであった。
次の瞬間、空気が内側から引き裂かれる。
「ガァァァアアアアアアッッ!!!」
それは獣の喉から放たれた音ではなかった。
裂けた空間が吐き出した圧が、
耳を通って初めて音として認識されたものに近かった。
鼓膜より先に頭蓋の内側が揺さぶられ、
視界の奥行きが潰れ、
立っている場所の確かさが一瞬で消える。
レインは反射的に足を出しかけた。
だが、走れば終わる。
その確信が思考より早く身体を縛り、
前へ出るはずの重心をその場へ押し留めた。
エドガルの指が、わずかに下を向く。
走るな。
音を立てるな。
その二つだけが、言葉を介さずレインへ届いた。
エドガルは踵をわずかに引き、
足を踏み下ろすのではなく、
地面へ置くようにして重さを散らした。
枝を避け、石を避け、
音の生まれぬ経路だけを選び取る。
退くというより、
そこにいた位置を薄くずらしていく動きだった。
レインも同じように動いた。
模倣ではない。
同じ結論に至った結果として、
二人の存在は一本の細い線のように、森の中を滑っていく。
魔物は動いていない。
だが距離だけが近づいたように感じる。
足音も風切り音もない。ただ、圧の層が一枚増える。
それでも二人は速めない。
速さではなく、
認識から外れることだけが、
この場を抜けるための道だった。
咆哮の余韻が空気に残る中、
魔物の視線がわずかに揺れた。
追おうとしている。
だが音も大きな動きもないため、
こちらの位置を掴みきれない。
魔物が低く鳴る。
地面を震わせるような振動に、周囲の木々が細く応じた。
二人はなおも静かに退く。
一歩、また一歩。
やがて頬に触れる風が、途切れず流れ始めた。
枝葉の擦れる音がひとつの流れとなり、森の音として戻ってくる。
レインは浅く息を吸った。
土の匂いがした。
湿り気を含んだ匂いと、枯れ葉の匂いが分かれ、
空気の中身が戻っていることを知らせていた。
それでも振り返らない。
背後の圧は弱まっただけで、消えたわけではない。
エドガルは速度を上げず、
森の外縁へ向けてわずかに進路を変えた。
急げば音が出る。
音が出れば追われる。
追われれば、逃げ切れる保証はない。
木立が薄くなり、視界が開ける。
だがエドガルはそこで止まらず、
開けた場所へ身を晒さぬよう、
森の影に沿って斜めへ抜けた。
十分な距離を取ったところで、ようやく歩みが緩む。
それでもすぐには振り返らない。
森の音が途切れず、
風が流れたままであることを、
数呼吸分だけ確かめてから、エドガルは足を止めた。
「……村へ戻るぞ」
低い声だった。
そこには、逃げ延びた安堵ではなく、
見たものを持ち帰らねばならない者の重さがあった。
レインは頷き、同じ速度で歩き出す。
今度は逃れるためではない。
伝えるために進むのだ。
二人が背に負っているのは、獲物でも薪でもなかった。
森の奥に、魔物がいるという事実であった。




