第十二話 ざわめく森(前編)
――聖暦七八八年 雪閉の月 三日
朝の冷えは、夜の名残として外に留まるものではない。
眠りのあいだに身体の内側へ静かに入り込み、
目を覚ました時には、すでに骨の奥へ沈みきっている。
雪閉の月の朝は、起きることではなく、
まず温度を取り戻すことから始まる。
囲炉裏の残り火は、灰の下でかすかな赤を保っていた。
消えかけているのではない。
次へ繋ぐため、余分なものを削ぎ落とされた最小限の火であり、
この家がまだ夜を越え続けている証であった。
レインは目を開けた。
視界にあるのは暗闇ではなく、光を失ったあとにも残る家の輪郭である。
壁の位置。
天井の低さ。
囲炉裏の場所。
それらは考えるより先に、ここがどこであるかを身体へ知らせた。
息を一つ吐く。
冷えた空気が肺の奥へ入り、
吐き出す息とのあいだに、わずかな温度差を残す。
外と内が、まだ完全には馴染んでいない。
ミリアはすでに起きていた。
背を向けたまま鍋の準備をしているが、その動きに余計な音はない。
音を抑えているのではない。
必要な動きだけが選ばれているため、
器の触れる音も、水の揺れる音も、
朝の空気を乱さずにそこへ置かれていた。
「……起きたのね」
振り返らずに言う声は低く、
まだ冷えの残る家に合わせて沈められている。
けれど、その奥にある温度は変わらなかった。
「うん」
レインは小さく頷く。
その時、戸口の方で、ごくわずかな軋みがした。
風ではない。
だが、外の空気が動いた時にだけ鳴る種類の音だった。
ミリアの手が、一瞬だけ止まる。
止めたのではない。
次の動作へ移るあいだに、ごく薄い間が挟まっただけである。
レインは戸の方を見る。
閉まっている。
隙間もない。
それでも、外が近い。
距離の話ではなかった。
内と外を分けているはずの境界が、今朝だけ、ほんの少し薄くなっている。
その感覚が、言葉になる前の形で胸の奥へ残った。
やがて足音が近づいてくる。
重い。
だが乱れない。
一歩ごとに地面を踏みしめ、身体の重さを正しく運ぶ者の音であった。
戸が開く前に、それが誰であるかは分かる。
次の瞬間、戸が開いた。
冷えた空気が細く流れ込む。
エドガルである。
彼の視線は、まず囲炉裏へ、次にミリアへ、最後にレインへ移った。
いつも通りか。
その確認だけで、彼の朝は始まる。
「起きたか。行くぞ」
エドガルは短く言い、背負い紐を締め直した。
斧の重さ、罠具の位置、腰に下げた縄の収まり。
それらが身体に馴染んでいるかを、目ではなく動きの中で確かめている。
罠の見回りにレインを連れていくことを決めたのは、
荷を持てるようになったからではない。
山の道を覚え、罠の位置を覚え、
獣が何を避け、何を踏むのかを覚えさせるためだった。
ハルヴェインでは、子どもであることは、
何も知らぬことの免罪にはならない。
ミリアは戸口に立ち、二人の背を見る。
その視線が、ほんのわずかに戸板へ移った。
昨夜、レインが目を向けていた場所と同じだった。
「奥までですよね」
声は穏やかであった。
だが、言葉の置き所を探すような揺れがある。
「ああ、三つ先までだ。奥の罠は見ない」
三つ先。
村外れから数えて三番目の罠場まで、という意味だった。
それより奥は、雪閉の月に入ってから道が細くなり、
獣の気配よりも森の沈黙の方が濃くなる。
「……早めに戻ってくださいね。今日は、少し……」
言いかけて、ミリアは言葉を止めた。
何を言うべきかではなく、何も言わない方がよいと判断した沈黙であった。
「……気をつけて」
短い。
だが、その中には、止めないことと送り出すこと、その両方が含まれていた。
エドガルは頷く。
レインは一拍だけ遅れて、ミリアを見た。
「……ありがとう」
その言葉は正しい場所に落ちた。
ただ、受け取る側の温度に追いつくには少しだけ不器用で、
ミリアが返した微笑みに、レインは視線を逸らすことでしか応じられなかった。
戸の向こうに、まだ森は見えない。
それでもレインには、そこがすでに、家のすぐそばまで来ているように思えた。
二人は山へ入った。
足元の土は固く締まり、
踏み込むたびに乾いた音を返したが、
その音は妙に軽く、耳へ届いた直後に形を失い、
本来あるべき余韻だけが削ぎ落とされているようだった。
鳥の声はない。
枝の擦れる音も少ない。
それなのに、森は静かではなかった。
音ではない何かが、木々の間に薄く満ち、
触れようとすれば消え、
離れれば背にまとわりつくように残っている。
エドガルは足を止めなかった。
山に慣れた者は、異変の前で無闇に立ち止まらない。
止まれば、その場の空気へ身体が馴染む。
馴染めば、変化を変化として拾えなくなる。
最初の罠が見えてきた。
若木の根元に据えられた輪は、縄の撚りも結びも崩れていなかった。
それどころか、
風に晒されれば必ず生じる繊維の毛羽立ちも、
湿気を吸えばわずかに生まれる歪みもなく、
まるで昨日仕掛けたばかりの形を、そのまま守り続けている。
いや、違う。
昨日仕掛けたばかりなら、
そこには人の手が離れた後のわずかな乱れが残る。
あまりにも綺麗すぎた。
時間が触れた痕跡だけを、
誰かが丁寧に削り取ったようであった。
エドガルは罠の手前で足を止め、屈んだ。
土へ指を触れる。
冷たい。
乾いている。
そこまでは、
雪閉の月の山として何もおかしくない。
だが、その冷たさには重みがなかった。
土に触れているはずなのに、
土の奥へ指を置いた感触が返ってこない。
表面だけが、土の形をしている。
「……どうだ」
エドガルの声は低かった。
恐れているのではない。
声を高くすれば、
この場にある薄いものを破ってしまうと知っている者の声であった。
レインは罠から視線を外さず、短く答えた。
「……軽い気がする」
その一語で足りた。
踏んでも残らず、触れても返らず、
そこにあるのに、あるべき重さがない。
エドガルは否定しなかった。
もう一度、土を指で押す。
固い。
なのに、空いている。
「……やはり軽いな」
レインは同じ場所を見つめたまま、わずかに息を整える。
「……抜けてると思う」
その言葉で、違和は輪郭を得た。
土が崩れているのではない。
失われているのでもない。
ただ、土であるために必要な何かだけが、
表面の下から抜き取られている。
エドガルは周囲へ視線を流した。
獣が逃げた森なら、跡が残る。
争った森なら、匂いが残る。
雪や雨が消したなら、消した跡が残る。
だが、ここには何もない。
何もないことだけが、残っていた。
レインが地面へ視線を落とす。
小さな獣の足跡があった。
指先ほどの浅い跡が、罠へ向かって続いている。
そこまでは普通だった。
だが、その列は途中で終わっていた。
薄くなって消えたのではない。
踏み荒らされたのでもない。
続きだけが、最初から存在しなかった。
「……ここまでで止まってる」
レインは小さく指で示す。
エドガルはその終端を見た。
逃げたのなら、逃げた跡がある。
捕らえられたのなら、暴れた跡がある。
鳥に攫われたのなら、羽音の乱れが枝に残る。
だが、何もない。
「……逃げてないな」
「……先が続いてない」
短い会話だった。
それで十分だった。
終わっているのではない。
繋がっていない。
二人はその違いを、同時に受け取っていた。
エドガルはゆっくりと立ち上がった。
急がない。
急げば、見落とす。
だが、留まりすぎれば、
この場の異常を日常として受け入れてしまう。
「……次だ」
その言葉は判断というより、
この場所に残る理由が消えたことをそのまま動きへ変えたものだった。
二人は罠から離れる。
一歩、二歩。
距離は開いているはずなのに、
背後の罠が遠ざかった感覚は薄い。
レインは振り返らなかった。
振り返れば、
あの罠がまだそこにあると決まってしまう気がした。
決まってしまえば、もう見なかったことにはできない。
エドガルもまた、何も言わなかった。
ただ、足取りだけが少し重くなる。
森は相変わらず静かであった。
だがその静けさの奥で、何かが音も立てずに、
こちらを見ているような気配だけがあった。
二人は同じ速度で森を進んだ。
だが、歩いているはずの距離が、足裏に残らない。
土は固く、道は続いている。
それなのに、進んでいるという実感だけが、薄く削られていく。
やがて、二つ目の罠が視界に入った。
まだ距離はある。
それでもエドガルは、近づく前から分かっていた。
同じだ、と。
若木の根元に仕掛けた輪は、やはり崩れていない。
縄は張りを保ち、結び目は乱れず、
土の上には捕らえた跡も、暴れた跡も、引きずられた跡もない。
罠は、罠としてそこにあった。
ただ、結果だけがなかった。
「……どうだ」
エドガルの声は低い。
恐怖で抑えた声ではなく、
余計なものをこの場へ加えまいとする声だった。
レインは罠を見たまま、わずかな間を置いた。
足裏に残る軽さ。
目の前の罠の綺麗さ。
森の奥から返ってこない気配。
それらを一つの形へ寄せるようにして、短く言う。
「……すごく薄い」
その言葉は、感想ではなかった。
踏めばある。
見ればある。
けれど、その奥にあるべき密度だけが抜けている。
そういう感覚を、過不足なく置いた一語だった。
エドガルは罠の手前で止まり、周囲を見た。
獣が掛かったなら、輪は締まる。
逃げたなら、土が乱れる。
食われたなら、血か、毛か、骨か、何かが残る。
だが、何もない。
「食ってない」
その一言で、森の空気がさらに重くなった。
捕らえていない。
逃げてもいない。
そして、食われてもいない。
ならば、これは狩りではない。
レインは浅く息を吸った。
冷えた空気が鼻腔へ入る。
けれど、そこにあるはずの土の匂いも、
湿った木の匂いも、獣の残り香も薄かった。
薄い、というより、途中で削られている。
「……匂いがない」
エドガルも鼻で確かめる。
そして、顔をしかめた。
「……削がれているな」
それで十分だった。
この森では、あるべきものが失われている。
失われた跡を残さずに、ただ綺麗に抜かれている。
二人は同時に歩き出した。
合図はない。
だが、ここに留まらないという判断だけが、自然に一致していた。
森の奥へ進むにつれて、風は確かに吹いていた。
枝も揺れ、葉も擦れ、どこかで細い枯れ枝が鳴る。
けれど、それらの音は一つの流れにならない。
ひとつ鳴っては途切れ、また別の場所で鳴っては途切れる。
森が音を立てているのに、森の音にはなっていなかった。
「……音が続かんな」
エドガルが呟く。
「……うん。続いてない」
レインは即座に返した。
その返答によって、異常はさらに深く固定される。
聞こえないのではない。
聞こえている。
だが繋がらない。
その時、空気の質がわずかに変わった。
押されたわけではない。
流れたわけでもない。
ただ、均一であるはずの森の中に、一点だけ偏りが生まれた。
風は通る。
枝は揺れる。
葉は擦れる。
それでもなお、一箇所だけが、それらすべてから外れていた。
レインの視線が止まる。
何かを見つけたからではない。
そこに何かがいるという確信に、視界が遅れて追いついただけであった。
木々の間。
雪の残る地面から、少し浮いたような高さに、黒いものがあった。
獣の形ではない。
人の形でもない。
ただ、そこだけが森の中で、森ではなかった。
「……なにかいる」
小さな声だった。
だが、迷いはない。
エドガルは答えなかった。
否定もしなかった。
その手が、斧の柄へ落ちる。
抜かない。
ただ、いつでも抜ける位置へ指を置いた。
空気が沈む。
音が途切れる。
繋がっていたはずの連続が、そこで断たれる。
そしてその時――
それが、こちらを見た。




