第十一話 少年と夫婦(後編)
――聖暦七八八年 雪閉の月 二日
囲炉裏の縁で、細い薪がわずかに位置を変えたあとも、
家の中の温度はすぐには変わらなかった。
火は変わらず燃え、鍋の中では薄い粥が静かに湯気を上げ、
椀を持つ手にはまだ生きた熱が残っている。
けれど、何も変わらなかったというには、
ミリアの指先が薪を戻す一瞬だけ強くなり、
エドガルの視線が火の奥へ沈んだ時間が、あまりに長かった。
レインはそれを見ていた。
問わない。
問うための言葉がなかったのではない。
ただ、その小さな違いを言葉へ変えれば、
今ここにある温度まで揺らしてしまうような気がした。
ミリアは何事もなかったように椀を取り、レインの前へ粥を少し足した。
「まだまだありますからね」
その声は、いつもと同じだった。
少なくとも、同じであろうとしていた。
レインは椀を受け取る。
指先はもう冷えていない。
先ほどまで遠かった感覚は戻り、
木の椀の丸みも、湯気の温度も、粥の重さも、きちんと手の中に収まっている。
それだけで十分なはずだった。
「……明日、山へ行く」
エドガルが、火を見たまま言った。
ミリアの匙が鍋の中で止まる。
ほんの一瞬である。
すぐにまた動いたが、木の匙が鍋肌を擦る音は、先ほどより少しだけ浅かった。
「罠の見回りですか」
「ああ。三つ先まで見る」
「奥まで行くのですね」
「雪が深くなる前に見ておかんと、後で困る」
それは暮らしの話だった。
獲物がかかっているかどうか。
罠が壊れていないか。
雪で道が塞がる前に確認する必要があるかどうか。
どれも、この村では当たり前のことであり、
エドガルが山へ入る理由としては十分すぎるものだった。
けれど、ミリアはすぐには頷かなかった。
彼女は鍋を見つめたまま、低く言う。
「今日は、山が静かだったのでしょう」
エドガルは答えない。
答えないことで、その言葉を否定しなかった。
囲炉裏の火が小さく鳴る。
今度は薪は動かなかった。
それでもレインの視線は、音のした場所へ自然に落ちた。
「レインも連れていく」
エドガルの言葉に、ミリアが顔を上げた。
驚きは大きくない。
だが、目の奥に沈んでいた不安が、火に照らされてわずかに形を持つ。
「この子を?」
「足は軽い。見る目もある。道を覚えさせておく」
「まだ子どもです」
「だから、儂がいるうちに教える」
その言葉は静かだった。
だが、ミリアはその奥にあるものを聞き取った。
いつまでも自分が前を歩けるわけではない。
いつまでもこの家の戸口で、帰ってくる者を待つだけで済むわけではない。
冬は毎年深くなり、山は毎年遠くなる。
そしてレインは、ただ守られるだけの幼子ではなくなりつつあった。
レインは二人を見た。
山へ行くことに、恐怖はまだなかった。
だが、ミリアの手が止まった理由は分かる。
エドガルの声がいつもより少し低い理由も、分からないまま受け取っていた。
「行く」
短く言う。
ミリアの視線がレインへ移る。
「寒いですよ」
「うん」
「足も痛くなります」
「歩けるよ」
「無理をしたら、帰ってきてから私が怒りますよ」
レインは少しだけ考えた。
「……怒るの?」
「ええ。とても」
ミリアはそう言って、ようやく少しだけ笑った。
エドガルが鼻を鳴らす。
「なら、無理はせんことだ」
「エドガルも?」
レインが問うと、ミリアの目が細くなる。
エドガルは椀を口へ運ぼうとして止まり、低く言った。
「儂は別だ」
「別ではありません」
ミリアの声は穏やかだったが、逃げ道はなかった。
エドガルはしばらく黙り、それから渋々と頷く。
「……無理はせん」
「はい、よろしい」
そのやり取りに、レインの口元がほんのわずかに動いた。
笑ったと言うには小さい。
けれど、囲炉裏の火のそばでだけ許される、音にならない揺らぎだった。
家の中には、まだ温かさがあった。
小さな違いは混じっている。
だが、それを覆い隠すのではなく、
抱えたまま三人を包むだけの温度が、確かにそこに残っていた。
夜の支度は、いつも通りに進んだ。
ミリアは器を洗い、水を替え、鍋を伏せる。
エドガルは戸口の隙間を確かめ、壁際の薪を明日の分と今夜の分へ分け、
斧の柄に割れがないかを指でなぞった。
レインは囲炉裏の前に座ったまま、火が少しずつ低くなる様子を見ていた。
昼の火でも、夕餉の火でもない。
夜を越すために、灰の下へ沈められていく火である。
「明日は、夜明け前に出る」
エドガルが言った。
「白くなる前?」
「空が薄くなる頃だ。完全に明るくなってからでは遅い」
「どうして?」
「山は、人が起きる前から動いている」
レインはその言葉をそのまま受け取った。
山が動く。
木が歩くわけではない。土が流れるわけでもない。
けれど、獣の足、風の向き、霜の固さ、夜に残された痕跡は、朝が進むほどに形を変える。
エドガルが言っているのは、おそらくそういうことだった。
「まずは儂の後ろを歩け。勝手に前へ出るな」
「うん」
「枝を踏むな。踏むなら、折れる前に気づけ」
「分かる?」
「音がする前に、足の裏が教える」
レインは自分の足を見る。
今日、薪を背負って帰った時の土の沈み方を思い出した。
同じ強さで踏んでも、返る感触は少しずつ違う。
その違いを、ただ違いとして置いていた。
明日は、それを使うのだと思った。
ミリアが畳んだ布を持ってきた。
厚手ではないが、首元へ巻けば風を少し防げる古い布である。
「これを持っていきなさい」
レインは受け取る。
「ミリアの?」
「昔のものです。もう私には少し短いけれど、あなたにはちょうどいいでしょう」
布は柔らかかった。
何度も洗われ、端が擦れ、しかし丁寧に繕われている。
レインが黙って触れていると、ミリアは穏やかに言った。
「山で寒くなったら、我慢せずに巻くのですよ」
「我慢したら?」
「帰ってきてから、私が怒ります」
また同じ言葉だった。
だが今度は、レインも少しだけ早く頷いた。
「分かった」
エドガルが低く笑った。
「怒られんためにも、ちゃんと巻け」
「エドガルも巻く?」
「儂は平気だ」
「平気ではありません」
ミリアが即座に言う。
エドガルは咳払いをし、壁際から自分の古い襟巻きを取った。
その動きが少しだけ不承不承だったので、レインはまた口元をわずかに動かした。
やがて灯りが落とされる。
完全な闇ではない。
囲炉裏の残り火が、灰の下でかすかに赤く息をしている。
ミリアの寝息は浅く整い、エドガルの呼吸はゆっくりと重なった。
家の中は静かだった。
けれど、その静けさの底には、先ほどの薪が動いた小さな違いと、
明日の山へ向かうという決まりだけが、まだ消えずに沈んでいた。
レインは横になったまま、しばらく目を閉じなかった。
手の中には、ミリアから渡された布がある。
冷えた時に巻くもの。
帰ってくるために持つもの。
そう思うと、布はただの防寒具ではなく、
家の温度を少しだけ外へ持ち出すためのもののように感じられた。
外で、小さな音がした。
風ではない。
獣とも違う。
枝が触れたような、ごく短い音。
レインは戸の方を見る。
暗闇の中で、戸板は動かない。
けれど、外が少しだけ近い。
昨夜までなら気にしなかったかもしれない。
今は、それが耳の奥に残った。
「……なにかいる?」
小さく、声が落ちた。
誰にも届かないほどの声だった。
自分でも、その言葉が何を指しているのか分からない。
明日の山か。
外の音か。
それとも、まだ形を持っていない何かか。
レインは布を握る。
強くではない。
潰さない程度に。
「……大丈夫」
今度は、確かめるように言った。
何が大丈夫なのかは分からない。
ただ、家の中にはまだ火があり、
ミリアとエドガルの呼吸があり、
明日になれば三人のうち二人が山へ行き、帰ってくるはずだった。
やがて、レインは目を閉じた。
囲炉裏の火は灰の下で静かに残っている。
その温もりは小さく、弱く、それでも朝へ繋がっていた。
何も起きない夜だった。
何も起きなかったという事実が、そのまま次の朝へ渡されていく。
だがその静けさの底で、
まだ誰にも触れられない小さな違いだけが、消えずに息をしていた。




