11 ある種のプロポーズ(Side_春日部)
最後の通知面談が終わり、扉が静かに閉まるのを見届けた春日部は、ゆっくりと天井を仰いだ。
――ああ、やっと終わった。
最後の一人は、すでに覚悟を決めていたのだろう。泣き出すことも抗議することもなく、制度に関する質問をいくつか重ねた末に淡々と受け入れた。
他の部署ではトラブルが相次いでいると聞く。確かに春日部も心無い言葉を投げかけられもしたが、最後にはみな納得してくれた。大きな問題も無く通知を終えられたのは、幸運だったと言えるだろう。
……いや、違うか。それもこれも長谷川の尽力のおかげだ。自らも切り捨てられる立場でありながら、同じ境遇に置かれた部下たちの話を親身に聞き、粘り強く説得を続けてくれたのだから。
――あの人がいなければどうなっていたことか。
想像するだけで、恐ろしくなる。
通知完了の報告を小野路に送ると、すぐに『本当にお疲れさま』と労いの返信が届く。期日は超過してしまったが、他部署の進捗を考えればまだ良い方なのだろう。
毎日のようにリマインドメールを送ってくれていた馬場も、雇い止めにあったと聞いた。退職の挨拶メールが届いていたが、確認したのは深夜の時間帯だった。
返信をする間もなく、チャットツール上の彼女のステータスはずっと『オフライン』のまま。
四月を迎えると、そのアカウントすらもひっそりと削除されていた。
あんなに世話になったにもかかわらず、きちんと挨拶もできなかったことが、どこか心残りだった。
だが、仕事は容赦なく押し寄せる。
リストラを通知された者たちは、秋までに順次退職していくだろう。そのための手続きや引継ぎ、やるべきことは山積みだった。
「――じゃ、俺もしばらく充電期間とさせてもらうとするよ」
溜まりに溜まった有休をすべて消化し、長谷川も退職した。落ち着いたらフリーランスとして、他の企業と委託契約を結ぶつもりらしい。
「本当に、お世話になりました」
「ああ。……しかし、お前、最後の日にそんな辛気臭い顔をするなよ。もう少しマシな顔できないのか?」
「無理言わないでくださいよ。……長谷川さん、会社立ち上げたりしないんですか?」
「はぁ? そんな面倒なこと、もうやってられっかよ。……まぁ、なんか困ったことがあればいつでも連絡しろよ。役に立つかは分からんが、人生の先輩としてアドバイスくらいはしてやるからよ」
そう言って片手を軽く上げると、長谷川はそのまま歩き去っていく。
その背中を見送るうちに、どうしようもない寂しさと悔しさがこみ上げてきた。
部長に就任した時、「調子に乗った若造が」と陰で囁かれる声を黙らせたのは、長谷川だった。
この会社に入ってからというもの、本当に多くのことを教わった。なのに――。
未練がましい感傷を振り切るように、ただただ仕事にのめり込む。
人員整理に伴う組織改正で第六開発部の人員は増えた。彼らをまとめ上げ、新たなアプリ開発を成功させなければならなかった。
――◇◆◇――
――――――
TO: 春日部 豊
件名: 予算確認 に関するリマインド
春日部さん
お疲れ様です。人事総務部です。
先日ご依頼した『予算確認』の件につきまして、提出期日は明日となります。
提出期日厳守にご協力のほどお願いいたします。
――――――
何通も届く同じようなメールを前にしても、春日部はすぐに忘れてしまう。
長谷川がいた頃は、話のついでに「あれやったのか?」と念を押されることもあった。……馬場であれば、チャットでも軽く催促してくれていたのに。
それに、どこか反抗心めいた気持ちもある。「だから俺に部長は無理だって、最初に言ったじゃないですか」と。
冬になると、社内を揺るがしたリストラの衝撃もすっかり落ち着き、早くも春の人事異動の話題が関心を集めるようになっていた。
早期退職者への退職金上乗せによる特別損失は発生したものの、経常利益は増加した。確かに痛みを伴う施策ではあったが、結果的に必要な判断だったと、社内外から評価されたようだ。
そう、この会社にとっては、必要なことだった。
けれども――もう春日部には関係のない話。
春日部は長封筒を手にし、小野路の元へと向かう。
「小野路さん、お疲れっす」
「うん、お疲れさま。……少し体重戻った?」
「ストレス食いでちょっと太ったくらいですよ。小野路さんは、痩せましたね」
「痩せたのは食べれば済むけどさ、失ったものはどうにもならないんだよねぇ……」
そう嘆く小野路は、少し生え際が薄くなってしまったことを気にしているようだ。加齢もあるだろうが、やはりストレスが大きかったのかもしれない。「はぁ~」と重たい溜息を吐く背中には、哀愁すら漂っていた。
「……で、どうしたの?」
「あ、これを受け取っていただきたくて」
そう言って用意していた封筒を差し出すと、小野路はあからさまに嫌そうな顔をした。
デスクの上に置かれた鉛筆立てから、黄色いパステルカラーの可愛らしい鋏を取り出し、慣れた手つきで封筒の端をちょきちょきと切り取っていく。
「……これ、馬場さんの忘れ物なんだよね。送ろうか? って聞いたんだけど、『申し訳なさすぎるので使ってください……!』だってさ」
「……馬場さんの」
もう、随分と懐かしい名前のようにも思えた。
馬場が担当していたリマインド業務は、業務効率化の一環としてシステムの自動通知に切り替えられた。
だが、小野路は「提出物の進捗が悪くなった」と嘆いていた。機械的な通知に切り替わると、社員たちの意識は薄れてしまうものらしい。当然、春日部もその一人だったわけだが――。
「元気、してるんですかね」
「さぁ、どうだろうね。進藤さんはたまにメールのやり取りしてるみたいだけど、彼女も育児で忙しいからねぇ。まぁ真面目で頑張り屋さんだったし、どこでもうまくやってるんじゃないかな。……もう少し早いか遅ければ、正社員に引き上げてたんだけどなぁ」
こればっかりはタイミングだから仕方ないね、と小野路は鋏を置き、中身を確認すると、やっぱりねぇと肩をすくめた。
「なに、嫌になったの?」
「けじめですよ、けじめ。長谷川さんは俺が泥をかぶる必要はないって言ってくれましたけど、やっぱり俺がのうのうと上に立ち続けるのもおかしいでしょう。ま、どうせ次年度には部長降ろされると思いますけど?」
「マネジメントの適性が無いっていう判断だからね。いや、マネジメントというよりは、提出物の悪さかな? 別にそれも成績出してればそこまで問題にならなかったけど、どうせまた組織を一新したくなったんじゃない? ……現場に戻れるのに、嬉しくないの?」
嬉しいか嬉しくないかで言えば、そりゃ嬉しいに決まっている。ずっと開発の仕事がしたかったのだから。
だが、ここ数年は会社に振り回されすぎた。つまり、疲れてしまったのだ。いくら飄々と装ったところで、春日部だって人間なのだから――限界はある。
「自由にやりたくなりました。正直、俺も早期退職制度でおさらばしたかったですよ。……退職金、上乗せされてたんですから」
「それ、冗談でも表で言わないほうがいいよ。だからKYって言われるんだよ」
「最近は言われないですよ。言ってたのだって、小野路さんくらいじゃないですか」
「皆が思ってたことを代弁してあげてたの。でもね……うん、いいんじゃない? きっとここじゃ君が本当にやりたいことはいつまで経っても出来ないから。だったら、会社でもなんでも立ち上げたほうがいいよ」
――起業。それはずっと頭の片隅にあった。
ただ、部長すら満足に務められなかった自分に果たしてできるのか。そんな葛藤はある。だが、一度きりの人生だ。一段落ついた今こそ、挑戦すべきときだろう。
それに、部長として各企業とやり取りしてきたおかげで、顔は広くなっている。もしも当時の経験がなければ、こんなことを考えることすらなかったはずだ。
――そう、部長としての経験は決して無駄ではなかった。
ただこれ以上、自分を騙しながらやりたくもないことを続けるのは、もう御免だった。
「俺、社長やれますかね?」
「無理でしょ。案件すっぽかしまくったらすぐに信用なんて落ちるんだから。補佐が必要だよ。秘書とも言えるかな。……そうだね、馬場さんみたいな?」
「馬場さん、ですか。……でも俺、連絡先知らないですよ」
「僕は知ってるけどね。ほいほい個人情報を渡すわけにはいかないな。……でも、残ってるんじゃないかな、弊社の主力アプリ内にユーザー情報が。強制的に登録はさせてたからさ。アンストしてないなら、ユーザー検索くらいはできるんじゃない?」
確かに、馬場はインストールしていたと言っていた。それなら検索すれば見つかるかもしれない。あとはDMを送って、気づいてもらえさえすれば――。
彼女のような存在がいてくれたら。そう思うことは何度もあった。自動通知のリマインドメールが届くたびに、どこか物足りなさを感じ、不満に思うことすらあった。
だが、彼女が退職してから随分と時間が経ってしまった。今さら連絡を取ったところで、果たして応じてもらえるだろうか――。
「……いや、馬場さんにお願いするかは分からないですけど。……あざす」
「はいはい。えーと、退職日は三月末ね。有休取るでしょ? 社長直々の引き留め面談、どうする?」
「拒否っておいてください」
「だよねぇ。ま、有休期間中は起業準備だね。色々決まったら連絡してよ。何かと便宜は図れると思うからさ」
春日部から受け取った封筒をクリアファイルに入れた小野路は、通りかかった給与担当に「はい、これ処理進めておいて」と手渡した。もっと引き留められるかと思ったのに随分とあっさりしたものだ。あまりに簡単に話が進みすぎて、拍子抜けするほどだった。
だが――小野路も、引き留めても無駄だと分かっているのだろう。お互いに、時間を無駄にするのは好きではなかった。
「君みたいな男にはさ、馬場さんみたいな人が必要だと思うんだよねぇ。ま、頑張ってね。退職に関する手続きはメール送ってもらうから――ちゃんと見てね」
最後に笑顔で釘を刺した小野路は、ノートパソコンを抱えて会議室へ向かっていった。
――さて、やることは山積みだ。
後任への引継ぎと、提携会社へのあいさつ回り。それに、長谷川にも連絡する必要がある。今はフリーランスで働いているはずだ。彼には、ぜひとも自分の会社に入社してもらわねばなるまい。
馬場には、起業してから声をかけてみるつもりだった。まだ何も準備ができていない状態でスカウトされても迷惑なだけだろう。
何と声をかけようか。とっくに正社員として他社で働いていたらどうしようか。
重荷を捨て去った今、新しいことに目を向ける時間が楽しくて仕方がなかった。
――◇◆◇――
小さなオフィスの一角には、購入したばかりの中古パソコンがまだ箱詰めされたまま積まれている。社員たちはそれらの設置作業に追われ、オフィスは自然と活気づいていた。
少しずつではあるが会社としての形が整ってきた今、ようやく馬場に声をかける準備も整ったと言えるだろう。
アプリを立ち上げ、お気に入りに保存していた彼女のユーザーIDにDMを送る。気付いてもらえるだろうか――。もはや祈るような気分だ。一週間待っても返事がなければ、小野路に頼み込んで連絡先を伝えてもらうしかない。
「なんだ、お前、随分とそわそわしてるじゃないか」
ただモニタを見ていただけなのに、新会社の役員として迎え入れた長谷川には何もかもお見通しのようだ。「アポ取ってるんですよ」と軽くはぐらかすと、「ああ」と納得したように頷かれた。
「例のリマインド馬場さんね。事務専任の人間は早いとこ確保したほうがいいとは言ったが、そんなにその馬場さんが良かったんだな」
「……どうなんですかね? 俺にもよくわかんないんですよ。ただ、俺の生態を知ってる人のほうが間違いないってだけで」
「はっ。気づいてないのか? 完全にプロポーズ控えた男みたいになってんぞ。……ちゃんと断られたときのことも考えておけよ」
――プロポーズだって? …… まぁ確かに、この会社とともに未来を築いてくれないかと声をかけるんだから、ものは言いようだ。
だが、長谷川の含み笑いには別の意味があるような気がしてならない。……そんな目で彼女を見たことはない。ただ、ちょっと、気になる存在だっただけだ。
久しく感じていなかったこの胸のざわめきも、青臭いことばかり考えてしまうのも、きっと心に余裕ができたからだろう。
肝心の返信はその日のうちに届いた。たったそれだけで、心が躍る。さらに、会う日の約束まで取り付けることができた。
「雇用契約書、忘れずに持っていけよ。婚約指輪みたいなもんだからな」
「その例え、もうやめてください。……もし彼女が入社しても絶対に本人には言わないでくださいよ。セクハラですから」
「入社してもらえたら、な」
軽口を叩き合いながらも、互いの作業の手は止まらない。だが――ふと、カレンダーに目を向けるたび、胸の奥がざわつくのを抑えられなかった。
こちらで完結となります。
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