13 室町幕府の滅亡
しかしこれは形だけの和睦だった。義昭は打倒信長をあきらめてはいない。
織田軍が美濃岐阜城に戻るとすぐまた反旗をひるがえす。
ここで織田に屈しても権力が大幅に削られるだけなのだ。
「信玄公の武勇さえあれば、信長恐るるにたらず。なんとしても東より織田家を攻めるように」
足利義昭は、武田信玄へ手紙で再度の出陣を要請する。しかしひと月前に頼みの信玄は亡くなっていたのだ。武田家が必死に隠しているので義昭はそのことを知らない。
信長はどうだろう?
確証はともかく、うすうす感づくくらいはしていただろう。
(信玄が亡くなったとして‥後を継ぐのは勝頼か? しばらくは家臣をまとめるため甲斐を離れられぬな)
大体信玄が無事であったら、信長の命運などとっくに途切れている。
将軍対策などが予定通りに進んでいることこそ、信玄の死を暗示していた。
信長は義昭の再度の挙兵を聞き、すぐに対抗する。
「大船を作れ」
岐阜から京に向かうには勢田の川を渡る必要があった。信長は自分だったら絶対に川を越えさせないよう封鎖する。だから川を押さえられた時に備えて、琵琶湖を船で渡る方法を考えた。
(岐阜から京に向かうには琵琶湖を船で渡るのが1番早いな)
であれば大きな船を造っておけば、いざと言う時に兵の大量移動が可能になる。
七月五日、大船は完成した。信長はさっそく兵を京に向かわせる。
しかしその前に義昭は軍勢を宇治槙島に移動させていた。勢田の川を封鎖もせずに。
宇治の地は古くは源義経と木曽義仲が戦っている。
京の防衛のもろさが身にしみた義昭は、古戦場として有名な槇島城に移ったようだ。
槇島城を攻撃するには宇治川を越えなければならない。
急流を渡るのは勇敢な武将でも二の足をふむ。
信長は渡河する場所はしっかり選んだ。
「この地はかつて平家物語で義経軍が先陣を切って進んだ場所である! 真っ先に渡り切れば勇名が轟くぞ」
有名な話を出されていきり立たない武将はいない。
自分たちを英雄源義経の軍と重ね合わせた軍勢は、無事に急流を渡り切った。
義昭はそれでも戦う気はマンマンだった。
しかしそれでも兵の数がたりない。圧倒的に。
戦えば勝つのは信長だ。(たりていても信長が勝っただろうし‥)
七月十八日、義昭は降伏する。⒉歳の息子を人質として差し出して。
信長は義昭を畿内から追放した。
殺すことはしない。それでは世論の不評を買ってしまう。
信長の夢見る平和な天下のためには、畿内を穏やかに保つ必要があった。
義昭の命を取れば、無駄に敵を増やすだけなのだ。
義昭も信長の案を飲んだ。
スンナリ京から発ったのは、室町時代に将軍が京都から追放されるのはよくある話だったから。
油断しないで牙を研いでおけば、いつか返り咲くことも可能だと思っていたのだろう。
兄の義輝だって京都に戻れない時期はあったのだ。京都から離れることは足利幕府の存在証明にとって大きな問題にならない。
それに義昭としては幼い息子を信長が将軍に擁立するかもしれない期待もあったはずだ。
足利義昭はその後、三好氏や毛利氏を頼る。
彼らには信長に対抗しようとする意志があったから。
「有力大名を味方につけ、信長さえ倒せれば、余はまた京に君臨できる。今だけの辛抱じゃ」
しかし義昭の期待はことごとく裏切られた。
信長は新たな足利将軍を立てるのではなく、自分自身を天下人として世に知らしめる道を選ぶ。
頼りにした毛利もあてにならなかった。毛利元就の遺言で「我、天下を競望せず」と言ったとか言わなかったとか。
中国地方の覇権にはやっきになった毛利も、無理して天下を獲る気はなかったのだろう。
それでも足利義昭は反信長の立場を取りつづけ、本能寺の変後も生き延びた。しかしそれでも勢力を盛り返すことはできない。
秀吉が、信長の路線を完全に受け継いだからだ。
戦国時代は凡才をすぐ排除する時代であったが、義昭の悲劇は凡才であっても淘汰されないほどの家柄だったことかもしれない。
現在の歴史は、室町時代の始まりを足利尊氏が建武式目を制定し征夷大将軍に任じられた辺りとしている。
そして第15代将軍足利義昭が信長によって追放された、元亀四年(天正元年)を室町幕府の滅亡としているのだ。
これにて室町時代は終わり、時代は織豊期に移って行く。
織豊期は漢字の読み書きが小中学生にとっては難しいので、安土桃山時代の表記のままでもいいと思います。
鞆幕府は興味がないので書きません。




