表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
42/42

エピローグ

「……は、…ずは」


 誰かが、私の肩に触れて名前を呼んでいる。

 遠くから聞こえる声が、少しずつ鮮明になってくる頃、ぼんやりと視界が開けた。

 蛍光灯が眩しくて瞼を伏せると、不意に光をさえぎるように現れたのは、見慣れた顔。


「鈴葉」


 岩城。

 微かに唇は動いたかもしれないけれど、声にならなかった。

 すべての感覚を奪われてしまったかのように、意識だけがここにある。


「大丈夫か、鈴葉!」


 返事の代わりになったかどうか、瞬きをすると、岩城は安堵の表情を浮かべ、私を抱きしめる。


「良かった……目が覚めて」


 徐々に感覚の戻ってきた手を岩城の背中にまわす。

 そして、おそらく床に寝そべったままの私は、天井とあたりを見渡した。

 現実の、音楽室だ。

 首を動かせばすぐ横に、黒猫がすり抜けた小さな扉があったはずの、象牙色のドアがある。

 視線と平行して、ケータイや鞄の中身が床に散らばっていた。


「ケータイ鳴らしても出ないし、ここに来てみたら倒れてるし、全然起きねぇし、マジ焦った」


 既視感と違和感がない交ぜになったまま、私の体は岩城の手で起こされた。

 頭の中で、岩城の言葉を反芻する。

 まるで、向こうの世界にいなかったような口ぶりに、痛みの残る頭を持ち上げ岩城の瞳を覗き込む。

 まさか、あの岩城さえも、創られたものだったと……?


「岩城……」


 問いただそうとして、私は言葉を失う。


 ……私は、何を、問いただそうとしていた?

 どうして、こんなところで、倒れていた?

 違う、そんなことじゃなく。

 思い出そうとすればするほど、思い浮かべようとしたことが次から次へと消えてしまうような、妙な感覚に私は両手で頭を抱えた。


「頭、打ったのか? 痛い?」


 そんなふうに言われたら、そうだった気がする。

 顔を上げると、すぐ目の前の岩城と目が合う。

 鼻先が触れ合いそうな距離に視線が離せず、呼吸することすら躊躇ってしまいそうで。


「結人……」


 初めて、彼のことを、そう呼んだ。

 ずっと、そう、呼びたかった。

 私、倒れて頭を打ったせいで、どこかおかしくなってしまったんだろうか。

 それとも。それとも。

 ……それとも?

 繰り返し思い返そうとするのに、今まで見ていた甘い夢は泡のように消えていく。

 目を閉じて記憶を辿ろうとするのに、そんなことよりも。

 結人の唇が私の唇に重なり、何度も触れて、もっと私を味わおうとする。

 苦しくて唇を離し、深く息をして岩城を見上げた。


「鈴葉、好きだよ。今までも、これからも、ずっと」


 優しく微笑んで頬にキスをするから、私は泣きそうになる。


「結人、ごめんね。今まで、本当にごめん……私も、結人のことが、好き」


 それなのに、あいまいな距離に甘えて、ずっと岩城の気持ちをわかっていながら、はぐらかしてばかりで。

 ひとりはつらいくせに、失うのが怖くて、大切な存在ができることを躊躇っていた。

 抱えているコトをさらけ出すのも格好悪い気がして、ずっと言い出せなくて。

 わかってくれなくていい。

 ただ、私に何があったのか、知っていてくれたら、それだけでいい。

 だから、全部、話そう。

 大好きな人に、私を知ってもらおう。

 どうして急に、こんなふうに思えるようになったのか、自分でも不思議なほど、心が楽になっていた。


「鈴葉」


 吐息交じりの岩城の声が、耳元をくすぐる。

 首筋に唇が触れて、思わず肩をすくめると、そのまま背後のドアに体を押し付けられ、胸元に岩城の手のひらが触れる。


「結人……ちょ、待って」


 やっぱり私、頭をぶったせいで、ぼんやりしていた。

 うっかり流されそうになり、岩城の腕を押し返す。


「何?」

「何って……ここじゃ、ダメでしょ」

「じゃあ、どこならいい?」

「どこって……結人って、そんなこと言うヤツだった!?」


 目を細めて私を見つめる岩城が妙に艶っぽくて、胸の中がかき乱される。

 上手く力の入らない指先が、結人の腕で震えていた。

 その指先に、結人の手のひらが重なる。


「だって、今まで見たことないくらい、鈴葉が女の子になってるからさ。いじめてみたくなったんだよ」


 瞼にキスをして、岩城はばらばらに散らばった私の荷物を集めてくれる。

 なんだか調子が狂ったまま、私もその荷物を適当に鞄につめて、立ち上がった。


「帰ろう」


 差し出してくれた手に、私は自分の手を重ねた。

 この日の朝、いや、放課後の……そう、音楽室に来るまで、まさか岩城と手を繋いで帰るなんて、思いもしなかった。

 突然の告白は、思っていたより衝撃は軽く、そして私もすんなりと自分の気持ちを吐き出せた。

 どこかに残る違和感、そして既視感。

 それも翌朝にはどこかに消え去り、いつもの、いや、新しい朝が始まった。


「お母さん」


 朝食の片づけをしている母は、キッチンに向かったまま、振り向かずに返事をする。


「進路、なんだけど。やっぱり私に音大なんか、無理なんだよね。私もお兄ちゃんみたいになれるならって思ってたけど……だけど、お兄ちゃんのあとばかり追いかけるのは、もうやめる。行きたい大学、あるんだ。今日帰ってきてからゆっくり相談しようと思ってるんだけど、いいかな」


 声が震えた。

 自分の実力じゃ、運よく音大なんかに入学できたところで、そこから先はまったく見えない。

 ピアニストを目指してるわけでも、音楽教師を望むわけでもないし、何より落ちることをわかっていながら、それを人のせいにして受験するなんて。

 もうこれ以上、自分に嘘を突き通すことは、無理なんだ。

 彼との決別を母に宣言するのは、彼女を傷つけてしまいそうで、ひどく怖かった。


「そうね」


 返事はその一言で。

 思いがけない肯定に、私は一瞬唖然とする。


「鈴葉、そろそろ髪も伸ばしたら? あなたは、長いほうが似合うわよ」


 そう言って振り返った母は、まだ弱々しいものの、久しぶりの笑顔を見せてくれた。

 すぐには変わらないけれど、少しずつ、変わっていけばいい。

 いつまでも、誰かのせいにして、しがみついていないで、前に、進まなきゃ。

 大切なことを、大切なひとを失ってしまってからじゃ、何もかも遅すぎる。

 私の変化は、母の笑顔を取り戻させ、そして教室でも今までになかった交友関係を生んだ。

 相変わらず女子からの告白はあるし、岩城との関係をホモ扱いされる毎日は、悲しいかな変わらないのだけど、ずっと誰も座ることのなかった、斜め前の謎の空席に、転校生がやってきたのはいつだったか。

 名前は林田玲果。どこぞの令嬢とかいう彼女は、誰もが距離を起きたいと思わせるような高飛車ぶりで、クラスメイトの大半とはつかず離れずの距離を保ちつつも、どういうわけだか私とクラスでも目立たない存在の春日さんには、馴れ馴れしいほどで。

 いつしか結人を含めた4人で過ごすことが増えていた。


「みなさん、知ってますか?」


 昼休み、今は使われていない教室で、お弁当を食べていると、同級生なのに敬語で話す春日さんがおもむろに口を開いた。


「なによ?」

「校内に現れる、黒猫の噂」

「クロネコ?」

「それも、ただの猫じゃないんです。その黒猫についていくと、異次元に連れ去られちゃうっていう……」

「ナニよ、それ。アンタ、また妙なアニメの観すぎじゃないの?」

「違いますよ! 隣のクラスの坂本さんも見たとかって」


 林田さんと春日さんのやり取りに耳を傾けながら、私は最近また母が作ってくれるようになったお弁当のハンバーグをつまむ。


「異次元って、昔の時代に行っちゃうとか?」

「岩城さん、それはタイムスリップです」

「じゃあ、何なのよ? パラレルワールド?」

「いいえ。あ、でもパラレルワールドに近いのかもしれませんが……何でも、自分の望みどおりの世界を作れるらしいのです」


 どこかで聞いたことがあるような気がして、でも、そんなことなんてあるはずもないし、私は口の中のハンバーグを味わった。


「もし、本当に望みが叶うとしたら、林田さんはどんな世界を作りますか?」

「そうねぇ。私が女王陛下になってアンタたちは、みーんな奴隷よ、ど・れ・い!」

「ハマリすぎですね……じゃあ、岩城さんは?」

「俺? 俺は……鈴葉とふたりきりの世界かな」


 思わず噴出しそうになって、私はあわててペットボトルのお茶を口に流し込む。


「あはは。私たち、いつもお邪魔しちゃってごめんなさい」

「そういうアンタはどうなのよ?」

「私は、メイドになりたいです!」

「メイドー? もう流行んないでしょ? さっきから黙ってる有川さんは、どうなのよ?」


 お茶と一緒にハンバーグを飲み込んで、何度か咽てから、私は首を振った。


「私はそういうの、いい、いらない。今のままで十分」


 つまんないとか、ずるいとか、そんな言葉を浴びながらも、私は笑ってもうひとつのハンバーグを口に運んだ。

 窓の外は、まだ梅雨空が続いていて、白く靄のかかったような町が広がっているけれど、私の心の中は、どこか晴れ晴れとしていた。

 ふと、その窓ガラスに、黒い影が横切って、私は後ろのドアを振り返る。

 わずかに開いたドアの隙間、そこを何かが通り過ぎたような……。


 にゃあ。


 どこかで、猫の鳴き声が聞こえた。

 そんな、気がした。





Fin.




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ