エピローグ
「……は、…ずは」
誰かが、私の肩に触れて名前を呼んでいる。
遠くから聞こえる声が、少しずつ鮮明になってくる頃、ぼんやりと視界が開けた。
蛍光灯が眩しくて瞼を伏せると、不意に光をさえぎるように現れたのは、見慣れた顔。
「鈴葉」
岩城。
微かに唇は動いたかもしれないけれど、声にならなかった。
すべての感覚を奪われてしまったかのように、意識だけがここにある。
「大丈夫か、鈴葉!」
返事の代わりになったかどうか、瞬きをすると、岩城は安堵の表情を浮かべ、私を抱きしめる。
「良かった……目が覚めて」
徐々に感覚の戻ってきた手を岩城の背中にまわす。
そして、おそらく床に寝そべったままの私は、天井とあたりを見渡した。
現実の、音楽室だ。
首を動かせばすぐ横に、黒猫がすり抜けた小さな扉があったはずの、象牙色のドアがある。
視線と平行して、ケータイや鞄の中身が床に散らばっていた。
「ケータイ鳴らしても出ないし、ここに来てみたら倒れてるし、全然起きねぇし、マジ焦った」
既視感と違和感がない交ぜになったまま、私の体は岩城の手で起こされた。
頭の中で、岩城の言葉を反芻する。
まるで、向こうの世界にいなかったような口ぶりに、痛みの残る頭を持ち上げ岩城の瞳を覗き込む。
まさか、あの岩城さえも、創られたものだったと……?
「岩城……」
問いただそうとして、私は言葉を失う。
……私は、何を、問いただそうとしていた?
どうして、こんなところで、倒れていた?
違う、そんなことじゃなく。
思い出そうとすればするほど、思い浮かべようとしたことが次から次へと消えてしまうような、妙な感覚に私は両手で頭を抱えた。
「頭、打ったのか? 痛い?」
そんなふうに言われたら、そうだった気がする。
顔を上げると、すぐ目の前の岩城と目が合う。
鼻先が触れ合いそうな距離に視線が離せず、呼吸することすら躊躇ってしまいそうで。
「結人……」
初めて、彼のことを、そう呼んだ。
ずっと、そう、呼びたかった。
私、倒れて頭を打ったせいで、どこかおかしくなってしまったんだろうか。
それとも。それとも。
……それとも?
繰り返し思い返そうとするのに、今まで見ていた甘い夢は泡のように消えていく。
目を閉じて記憶を辿ろうとするのに、そんなことよりも。
結人の唇が私の唇に重なり、何度も触れて、もっと私を味わおうとする。
苦しくて唇を離し、深く息をして岩城を見上げた。
「鈴葉、好きだよ。今までも、これからも、ずっと」
優しく微笑んで頬にキスをするから、私は泣きそうになる。
「結人、ごめんね。今まで、本当にごめん……私も、結人のことが、好き」
それなのに、あいまいな距離に甘えて、ずっと岩城の気持ちをわかっていながら、はぐらかしてばかりで。
ひとりはつらいくせに、失うのが怖くて、大切な存在ができることを躊躇っていた。
抱えているコトをさらけ出すのも格好悪い気がして、ずっと言い出せなくて。
わかってくれなくていい。
ただ、私に何があったのか、知っていてくれたら、それだけでいい。
だから、全部、話そう。
大好きな人に、私を知ってもらおう。
どうして急に、こんなふうに思えるようになったのか、自分でも不思議なほど、心が楽になっていた。
「鈴葉」
吐息交じりの岩城の声が、耳元をくすぐる。
首筋に唇が触れて、思わず肩をすくめると、そのまま背後のドアに体を押し付けられ、胸元に岩城の手のひらが触れる。
「結人……ちょ、待って」
やっぱり私、頭をぶったせいで、ぼんやりしていた。
うっかり流されそうになり、岩城の腕を押し返す。
「何?」
「何って……ここじゃ、ダメでしょ」
「じゃあ、どこならいい?」
「どこって……結人って、そんなこと言うヤツだった!?」
目を細めて私を見つめる岩城が妙に艶っぽくて、胸の中がかき乱される。
上手く力の入らない指先が、結人の腕で震えていた。
その指先に、結人の手のひらが重なる。
「だって、今まで見たことないくらい、鈴葉が女の子になってるからさ。いじめてみたくなったんだよ」
瞼にキスをして、岩城はばらばらに散らばった私の荷物を集めてくれる。
なんだか調子が狂ったまま、私もその荷物を適当に鞄につめて、立ち上がった。
「帰ろう」
差し出してくれた手に、私は自分の手を重ねた。
この日の朝、いや、放課後の……そう、音楽室に来るまで、まさか岩城と手を繋いで帰るなんて、思いもしなかった。
突然の告白は、思っていたより衝撃は軽く、そして私もすんなりと自分の気持ちを吐き出せた。
どこかに残る違和感、そして既視感。
それも翌朝にはどこかに消え去り、いつもの、いや、新しい朝が始まった。
「お母さん」
朝食の片づけをしている母は、キッチンに向かったまま、振り向かずに返事をする。
「進路、なんだけど。やっぱり私に音大なんか、無理なんだよね。私もお兄ちゃんみたいになれるならって思ってたけど……だけど、お兄ちゃんのあとばかり追いかけるのは、もうやめる。行きたい大学、あるんだ。今日帰ってきてからゆっくり相談しようと思ってるんだけど、いいかな」
声が震えた。
自分の実力じゃ、運よく音大なんかに入学できたところで、そこから先はまったく見えない。
ピアニストを目指してるわけでも、音楽教師を望むわけでもないし、何より落ちることをわかっていながら、それを人のせいにして受験するなんて。
もうこれ以上、自分に嘘を突き通すことは、無理なんだ。
彼との決別を母に宣言するのは、彼女を傷つけてしまいそうで、ひどく怖かった。
「そうね」
返事はその一言で。
思いがけない肯定に、私は一瞬唖然とする。
「鈴葉、そろそろ髪も伸ばしたら? あなたは、長いほうが似合うわよ」
そう言って振り返った母は、まだ弱々しいものの、久しぶりの笑顔を見せてくれた。
すぐには変わらないけれど、少しずつ、変わっていけばいい。
いつまでも、誰かのせいにして、しがみついていないで、前に、進まなきゃ。
大切なことを、大切なひとを失ってしまってからじゃ、何もかも遅すぎる。
私の変化は、母の笑顔を取り戻させ、そして教室でも今までになかった交友関係を生んだ。
相変わらず女子からの告白はあるし、岩城との関係をホモ扱いされる毎日は、悲しいかな変わらないのだけど、ずっと誰も座ることのなかった、斜め前の謎の空席に、転校生がやってきたのはいつだったか。
名前は林田玲果。どこぞの令嬢とかいう彼女は、誰もが距離を起きたいと思わせるような高飛車ぶりで、クラスメイトの大半とはつかず離れずの距離を保ちつつも、どういうわけだか私とクラスでも目立たない存在の春日さんには、馴れ馴れしいほどで。
いつしか結人を含めた4人で過ごすことが増えていた。
「みなさん、知ってますか?」
昼休み、今は使われていない教室で、お弁当を食べていると、同級生なのに敬語で話す春日さんがおもむろに口を開いた。
「なによ?」
「校内に現れる、黒猫の噂」
「クロネコ?」
「それも、ただの猫じゃないんです。その黒猫についていくと、異次元に連れ去られちゃうっていう……」
「ナニよ、それ。アンタ、また妙なアニメの観すぎじゃないの?」
「違いますよ! 隣のクラスの坂本さんも見たとかって」
林田さんと春日さんのやり取りに耳を傾けながら、私は最近また母が作ってくれるようになったお弁当のハンバーグをつまむ。
「異次元って、昔の時代に行っちゃうとか?」
「岩城さん、それはタイムスリップです」
「じゃあ、何なのよ? パラレルワールド?」
「いいえ。あ、でもパラレルワールドに近いのかもしれませんが……何でも、自分の望みどおりの世界を作れるらしいのです」
どこかで聞いたことがあるような気がして、でも、そんなことなんてあるはずもないし、私は口の中のハンバーグを味わった。
「もし、本当に望みが叶うとしたら、林田さんはどんな世界を作りますか?」
「そうねぇ。私が女王陛下になってアンタたちは、みーんな奴隷よ、ど・れ・い!」
「ハマリすぎですね……じゃあ、岩城さんは?」
「俺? 俺は……鈴葉とふたりきりの世界かな」
思わず噴出しそうになって、私はあわててペットボトルのお茶を口に流し込む。
「あはは。私たち、いつもお邪魔しちゃってごめんなさい」
「そういうアンタはどうなのよ?」
「私は、メイドになりたいです!」
「メイドー? もう流行んないでしょ? さっきから黙ってる有川さんは、どうなのよ?」
お茶と一緒にハンバーグを飲み込んで、何度か咽てから、私は首を振った。
「私はそういうの、いい、いらない。今のままで十分」
つまんないとか、ずるいとか、そんな言葉を浴びながらも、私は笑ってもうひとつのハンバーグを口に運んだ。
窓の外は、まだ梅雨空が続いていて、白く靄のかかったような町が広がっているけれど、私の心の中は、どこか晴れ晴れとしていた。
ふと、その窓ガラスに、黒い影が横切って、私は後ろのドアを振り返る。
わずかに開いたドアの隙間、そこを何かが通り過ぎたような……。
にゃあ。
どこかで、猫の鳴き声が聞こえた。
そんな、気がした。
Fin.