9 習慣というもの
気づいたら、習慣になっていた。
七時に合鍵で部屋に入る。カーテンを開ける。「おはようございます、七時です」と言う。毛布が動く。「うるさい」と言われる。「七時です」と繰り返す。やがてのそりと起き上がる。
――というのが朝の一連の流れで、最近は合鍵を借りなくてもよくなった。
リリーナが廊下に立ってノックをすると、三回目あたりで鍵が開く音がするようになったのだ。
最初は偶然だと思った。二度目も、まあそういうこともあると思った。三度目になって、リリーナはようやく気づいた。
(起きて、待っている)
鍵を開けるだけの体力は既にある。つまり、起きてはいる。ただ部屋を出る気力がなくて、誰かが来るのを――待っている。
そのことを指摘するのは簡単だったが、リリーナはしなかった。
言ったら、たぶん翌日から鍵を閉めるようになると思ったから。
授業中に寝るのは、変わらなかった。
ただ、起こしに行く回数が一回で済む日が増えてきた。リリーナが肩を叩くと、以前は数秒で沈んでいたのが、少しだけ長く持つようになった。二十分。三十分。それ以上の日もある。
もっとも、それが限界になると例の「引きずり込まれる眠り方」に変わって、何をしても起きなくなる。リリーナはそのラインを見極めて、起こすのをやめるタイミングを覚えた。
教師たちはもう、リリーナがアレスの席に通うことを止めなかった。何人かは、廊下で「頑張ってくれているね」と声をかけてくれた。一人は「私たちがお手上げだったから、本当に助かっています」と言った。
リリーナは「まだ途中ですが」と答えた。
本当に、まだ途中だったから。
放課後の習慣も、気づけばできていた。
アレスが聞けなかった授業の内容を、リリーナが教える。場所は決まっていなかった。最初は図書室だったが、アレスが「人が多い」と言ったので中庭になり、中庭が「風がうるさい」という理由でアレスの部屋になった。
アレスの部屋は、相変わらず物が少なかった。机と椅子が一つずつ、ベッド、窓際の本棚に数冊の本。余計なものが何もない。
リリーナが椅子に座って話すと、アレスはベッドの端に腰かけて聞いた。眠そうな顔をしていたが、時々、的確な質問を挟んできた。
「今のところ、もう一度言って」
「どのあたりですか」
「座標系の変換のところ」
「ああ、ここですね。こういうことです」
ノートに図を描きながら説明すると、アレスは黙って見ていた。「分かった」とも「分からない」とも言わないが、「もういい」と言わない限りは聞いているのだと分かってきた。
ある日、魔法理論の応用問題をリリーナが解いていると、アレスがベッドの端から覗き込んできた。
「それ、解き方が遠回りだ」
「え?」
「こっちの公式を使えば二段階省ける」
指摘された箇所を見ると、確かにそうだった。リリーナは一瞬固まってから、
「……本当ですね」
「なんで知らないんだ」
「授業では習わない解き方です」
「教科書の後ろに載っている」
リリーナは後ろのページを開いた。確かに、補足として小さく載っていた。読み飛ばしていた。
「勉強になりました」
「……別に」
アレスはまた眠そうな顔に戻ったが、その「別に」の言い方が、最初のころと少し違う気がした。突き放している感じではなく、照れ隠しに近い感じ。
気のせいかもしれなかったが。
◇ ◇ ◇
その日の夕方、窓から差し込む光が橙色に変わったころ、リリーナはノートを片づけながら、ふと思った。
「アレスさんって、本当に頭がいいですね」
「……そうでもない」
「そうです。授業に来ていれば、成績はすぐ戻ると思います」
「どうでもいい」
「私はどうでもよくないです」
リリーナが言うと、アレスは黙った。
窓の外で、鳥が鳴いた。ひとしきり鳴いて、飛んでいった。
「……なぜ、お前はそんなに熱心なんだ」
「以前も聞きましたね、その質問」
「また聞いている」
「気になるから、と答えました」
「それだけか」
「性分なのかもしれません。それと……」
リリーナは少し考えた。
「あなたが、もったいないと思っているのかもしれません」
「もったいない」
「こんなに頭がいいのに、毎日寝ているのが。何か理由があるんだろうとは思っていますが――それを聞く権利が私にあるかは、まだ分からないので」
アレスが動かなくなった。
完全な沈黙だった。リリーナはノートを鞄に入れながら、余計なことを言ったかと少し思った。
立ち上がろうとしたとき、アレスがベッドの端でわずかに姿勢を変えた。窓の方を向いていたのが、こちらに向き直るような動きだった。
「……今日の魔法理論の範囲、明日もある」
「ええ、明日は続きを――」
言いかけて、リリーナは止まった。
アレスが、こちらを向いていた。
いつもは前髪がすべてを覆っているのに――今だけ、光の加減か姿勢のせいか、前髪がわずかにずれていた。
隙間から、目が見えた。
色が、金色があった。
夕暮れの橙の光の中でも、はっきりと分かる色だった。暗い部屋の中でさえ自ら発光しているかのような、深く澄んだ黄金色。こんな色の目を、リリーナはこれまで一度も見たことがない。
思わず息が止まる。
リリーナの様子にアレスが気づき――前髪をすぐに手で直した。
一瞬のことだった。
またいつもの、何も見えない状態に戻ってしまった。
「……なんだ」
声は、少し低かった。
「いえ」
リリーナは視線を鞄に落とした。心臓が、少し速くなっていた。
「明日も来ます」
「……好きにしろ」
「おやすみなさい、アレスさん」
「……ああ」
部屋を出て、廊下を歩きながら、リリーナはさっきの色を思い出した。
あの金色。
見たことがない色、というのは正確ではなかった。どこかで――何かで――そういえば、と思った記憶があった。
(あの色は)
思い出せそうで、思い出せなかった。
でも一つだけ、はっきりと思ったことがあった。
(この人は、何かを隠している)
それは最初から薄々感じていたことだった。眠りの異様さ、物の少ない部屋、誰とも関わろうとしない姿勢、偽名のような響きのある名前――。
隠しているものが、あの目と繋がっている気がした。
廊下の窓から、沈んでいく夕日が見えた。空の端が、さっき見た色と同じ金色に燃えていた。




