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婚約破棄された世話焼き令嬢は、隣国で問題児に捕まりました  作者: ミナト


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9/23

9 習慣というもの

 気づいたら、習慣になっていた。

 七時に合鍵で部屋に入る。カーテンを開ける。「おはようございます、七時です」と言う。毛布が動く。「うるさい」と言われる。「七時です」と繰り返す。やがてのそりと起き上がる。

 ――というのが朝の一連の流れで、最近は合鍵を借りなくてもよくなった。

 リリーナが廊下に立ってノックをすると、三回目あたりで鍵が開く音がするようになったのだ。

 最初は偶然だと思った。二度目も、まあそういうこともあると思った。三度目になって、リリーナはようやく気づいた。


(起きて、待っている)


 鍵を開けるだけの体力は既にある。つまり、起きてはいる。ただ部屋を出る気力がなくて、誰かが来るのを――待っている。

 そのことを指摘するのは簡単だったが、リリーナはしなかった。

 言ったら、たぶん翌日から鍵を閉めるようになると思ったから。


 授業中に寝るのは、変わらなかった。

 ただ、起こしに行く回数が一回で済む日が増えてきた。リリーナが肩を叩くと、以前は数秒で沈んでいたのが、少しだけ長く持つようになった。二十分。三十分。それ以上の日もある。

 もっとも、それが限界になると例の「引きずり込まれる眠り方」に変わって、何をしても起きなくなる。リリーナはそのラインを見極めて、起こすのをやめるタイミングを覚えた。

 教師たちはもう、リリーナがアレスの席に通うことを止めなかった。何人かは、廊下で「頑張ってくれているね」と声をかけてくれた。一人は「私たちがお手上げだったから、本当に助かっています」と言った。

 リリーナは「まだ途中ですが」と答えた。

 本当に、まだ途中だったから。


 放課後の習慣も、気づけばできていた。

 アレスが聞けなかった授業の内容を、リリーナが教える。場所は決まっていなかった。最初は図書室だったが、アレスが「人が多い」と言ったので中庭になり、中庭が「風がうるさい」という理由でアレスの部屋になった。

 アレスの部屋は、相変わらず物が少なかった。机と椅子が一つずつ、ベッド、窓際の本棚に数冊の本。余計なものが何もない。

 リリーナが椅子に座って話すと、アレスはベッドの端に腰かけて聞いた。眠そうな顔をしていたが、時々、的確な質問を挟んできた。


「今のところ、もう一度言って」

「どのあたりですか」

「座標系の変換のところ」

「ああ、ここですね。こういうことです」


 ノートに図を描きながら説明すると、アレスは黙って見ていた。「分かった」とも「分からない」とも言わないが、「もういい」と言わない限りは聞いているのだと分かってきた。

 ある日、魔法理論の応用問題をリリーナが解いていると、アレスがベッドの端から覗き込んできた。


「それ、解き方が遠回りだ」

「え?」

「こっちの公式を使えば二段階省ける」


 指摘された箇所を見ると、確かにそうだった。リリーナは一瞬固まってから、


「……本当ですね」

「なんで知らないんだ」

「授業では習わない解き方です」

「教科書の後ろに載っている」


 リリーナは後ろのページを開いた。確かに、補足として小さく載っていた。読み飛ばしていた。


「勉強になりました」

「……別に」


 アレスはまた眠そうな顔に戻ったが、その「別に」の言い方が、最初のころと少し違う気がした。突き放している感じではなく、照れ隠しに近い感じ。

 気のせいかもしれなかったが。


 ◇ ◇ ◇


 その日の夕方、窓から差し込む光が橙色に変わったころ、リリーナはノートを片づけながら、ふと思った。


「アレスさんって、本当に頭がいいですね」

「……そうでもない」

「そうです。授業に来ていれば、成績はすぐ戻ると思います」

「どうでもいい」

「私はどうでもよくないです」


 リリーナが言うと、アレスは黙った。

 窓の外で、鳥が鳴いた。ひとしきり鳴いて、飛んでいった。


「……なぜ、お前はそんなに熱心なんだ」

「以前も聞きましたね、その質問」

「また聞いている」

「気になるから、と答えました」

「それだけか」

「性分なのかもしれません。それと……」


 リリーナは少し考えた。


「あなたが、もったいないと思っているのかもしれません」

「もったいない」

「こんなに頭がいいのに、毎日寝ているのが。何か理由があるんだろうとは思っていますが――それを聞く権利が私にあるかは、まだ分からないので」


 アレスが動かなくなった。

 完全な沈黙だった。リリーナはノートを鞄に入れながら、余計なことを言ったかと少し思った。

 立ち上がろうとしたとき、アレスがベッドの端でわずかに姿勢を変えた。窓の方を向いていたのが、こちらに向き直るような動きだった。


「……今日の魔法理論の範囲、明日もある」

「ええ、明日は続きを――」


 言いかけて、リリーナは止まった。

 アレスが、こちらを向いていた。

 いつもは前髪がすべてを覆っているのに――今だけ、光の加減か姿勢のせいか、前髪がわずかにずれていた。

 隙間から、目が見えた。

 色が、金色があった。

 夕暮れの橙の光の中でも、はっきりと分かる色だった。暗い部屋の中でさえ自ら発光しているかのような、深く澄んだ黄金色。こんな色の目を、リリーナはこれまで一度も見たことがない。

 思わず息が止まる。

 リリーナの様子にアレスが気づき――前髪をすぐに手で直した。

 一瞬のことだった。

 またいつもの、何も見えない状態に戻ってしまった。


「……なんだ」


 声は、少し低かった。


「いえ」


 リリーナは視線を鞄に落とした。心臓が、少し速くなっていた。


「明日も来ます」

「……好きにしろ」

「おやすみなさい、アレスさん」

「……ああ」


 部屋を出て、廊下を歩きながら、リリーナはさっきの色を思い出した。

 あの金色。

 見たことがない色、というのは正確ではなかった。どこかで――何かで――そういえば、と思った記憶があった。


(あの色は)


 思い出せそうで、思い出せなかった。

 でも一つだけ、はっきりと思ったことがあった。


(この人は、何かを隠している)


 それは最初から薄々感じていたことだった。眠りの異様さ、物の少ない部屋、誰とも関わろうとしない姿勢、偽名のような響きのある名前――。

 隠しているものが、あの目と繋がっている気がした。

 廊下の窓から、沈んでいく夕日が見えた。空の端が、さっき見た色と同じ金色に燃えていた。


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