8 連れ帰れるつもりなら
学園長室に呼ばれたのは、翌朝のことだった。
ラーシュ学園長は、丸眼鏡の奥の目をいつもより少し細めて、机の向こうに座っていた。その向かいの椅子には、見知らぬ男が一人。いかにも官僚然とした身なりをしている。グランシア王家の紋章をあしらった胸章が、陽の光に鈍く光っていた。
「エルフォード嬢、こちらはグランシア王国よりお越しのダン・フォルベス殿。あなたに用があるとのことで、私から取り次ぎをさせていただきました」
学園長の声音は、いつもと変わらず穏やかだった。ただ、目がどこか申し訳なさそうだった。望んでこの場を設けたわけではない、と言いたいらしい。
「リリーナ・エルフォード嬢」
フォルベスと名乗った男が立ち上がり、一礼した。形式的な礼だった。
「王太子エルハルト殿下の名代として参りました。このたびの一件について、殿下より直接のお言葉をお預かりしております」
リリーナは椅子に座り、背筋を伸ばした。
「承ります」
「殿下は、先般の婚約解消については、軽率な判断であったとのご認識でいらっしゃいます。混乱した状況下での決断であり、あなたへの不当な扱いについては深く反省されておられる」
男の声は滑らかだった。何度も練習したのだろうと、なんとなく思った。
「つきましては――あなたに改めて、グランシアへお戻りいただき、婚約の再締結をご検討いただけないかとの、殿下からの打診でございます」
学園長室に、しばらく沈黙が落ちた。
リリーナはフォルベスを見た。フォルベスはリリーナを見た。学園長は窓の外を見た。
「少々うかがっても構いませんか」
「はい、なんでしょう」
「再締結を、というお話ですが――エルハルト殿下のご判断ですか。それとも、どなたかのご意見を受けてのことでしょうか」
フォルベスが一瞬、目を泳がせた。
「殿下のご意志です」
「そうですか」
リリーナは小さくうなずいた。
父の手紙の内容を思い出した。マリカが退学になった。王太子との関係が急速に冷え込んでいる。周囲が「軽率だった」と言い始めている――。
軽率だった、という言葉を、殿下ご自身もお使いになったのか。
自覚があるのなら、なお悪い、とリリーナは思った。
「フォルベス殿」
「はい」
「殿下が軽率だったとおっしゃるのは、私への扱いについて、ということでよろしいでしょうか」
「その通りです」
「では、マリカ・ヴァントワーズという方については、今はどのようなご関係に」
また、わずかな間があった。
「……それは、別の話でございます」
「そうですか」
リリーナは膝の上で手を組んだ。
「お気持ちはありがたいのですが」
声は穏やかに、はっきりと出た。
「お断りします」
フォルベスが眉を動かした。
「エルフォード嬢、殿下のお申し出ですよ。もう少しお考えいただいても――」
「考えました」
リリーナは微笑んだ。愛想のある笑顔ではなかった。ただ、穏やかな笑みだった。
「殿下が軽率だったかどうかは、私には分かりません。ただ、私にとってはあの夜会がすべてです。あの場での言葉を、今さら『軽率だった』と言われても、どう受け取ればいいか」
「殿下は本当に――」
「フォルベス殿」
リリーナは続けた。
「私は今、この学園で請け負っている課題があります。担当している生徒がいて、それはまだ途中です。途中で投げ出すことは、私の性分に合いません」
「学園のことであれば、改めて手続きを――」
「必要ありません」
今度は、別の声だった。
学園長室の扉が、音もなく開いていた。
リリーナは振り向いた。
アレスが立っていた。
いつもの崩れた制服姿で、前髪が顔を覆っている。ただ、立ち方だけが――いつもと少し違った。廊下に寄りかかるような、力の抜けた姿勢ではなく、きちんと立っている。
「この人は俺の教育係だ」
声は低く、静かだった。感情が乗っているのかいないのかよく分からない声音で、しかし言葉だけははっきりしていた。
「連れ帰れるつもりなら、俺を通せ」
フォルベスが、目を丸くした。
「あ、あなたは――」
「関係者だ」
アレスはそれだけ言って、フォルベスをまっすぐ――前髪越しに――見た。
どこを見ているのか定かではないが、圧はあった。
問題児のくせに、妙に圧があった。
フォルベスが学園長を見た。学園長は眼鏡を直しながら、「ケセルト王国の学園の生徒ですので、私の管轄でして」とだけ言った。
しばらくの沈黙があった。
「……殿下にはご回答をお伝えします」
フォルベスは結局そう言って、深々と一礼した。その礼が、さっきの形式的なものよりずいぶん丁寧になっていたのは、アレスのせいだろうか。
男が退出すると、学園長室に三人が残された。
学園長がわざとらしく咳払いをした。
「私は少し外しましょうか」
そう言って出ていってしまった。気を遣ってくれているのか、単に面倒になったのかは分からないが。
(二人きりになってしまった……)
リリーナはアレスを見た。アレスは扉の方向を見ていた――たぶん。
「なぜ来たんですか」
「通りかかった」
「学園長室の前を?」
「……廊下は通っていい」
リリーナは少し考えた。学園長室は校舎の端の端にある。普通に移動していて「通りかかる」場所ではない。
でもそれを指摘しても、アレスはきっと「たまたまだ」と言うだろう。
「ありがとうございます」
「別に」
「助かりました」
「俺は関係者だと言っただけだ」
「それが助かりました」
アレスが黙った。
リリーナはもう一度、アレスを見た。前髪の向こうで、目がどこを向いているのか相変わらず分からない。ただ、耳が――わずかに、赤いような気がした。
「なぜ、助けたんですか」
素直に聞くと、アレスはしばらく何も言わなかった。
それから、ふいと顔を背けた。
「……うるさかったから」
「うるさかった?」
「話し声が聞こえた。うるさかった」
リリーナは少し首を傾けた。
「廊下まで聞こえるような声は出していませんでしたが」
「……うるさかった」
同じ言葉を繰り返した。もう理由を説明する気はないらしい。
(まあ、いいか)
リリーナは小さく息を吐いた。理由を深く掘り下げるより、今は素直にありがたいと思っていた。
「今日の午後の授業、来られますか」
「……考える」
「来てください」
「考えると言っている」
いつものやり取りが戻ってきた。リリーナは少しだけ笑って、鞄を持ち直した。
◇ ◇ ◇
フォルベスがグランシアへ戻ったのは、その日の夕刻のことだった。
テシアから又聞きで聞いた話によると、正門を出る馬車の御者が、ひどく困り果てた顔をしていたらしい。想定した結果と違う報告を持ち帰らなければならない人間の顔、とテシアは言った。
「なんか、あっちの王太子ってひどい人なの?」
テシアが遠慮なく聞いてきた。
「ひどい、というより……見通しが甘かったのだと思います」
リリーナは正直に答えた。
「自分が選んだ方が上手くいかなかったから、やっぱり前の方がよかった、ということかしら」
「最悪じゃん」
「まあ」
リリーナは窓の外を見た。夕暮れの空が、橙と紫が混ざった色をしている。
(これで終わり、かしら)
そう思った。フォルベスが報告を持ち帰れば、エルハルトにも状況は伝わる。「断られた」という事実が伝わることで、あちらの面目もある程度は傷つく。マリカとの関係がすでに冷え込んでいるなら、ここへ来て取り戻す目算も外れた――それが積み重なれば、あの夜会での振る舞いの「軽率さ」は、本人が思う以上に広まっていくだろう。
悔しがりたいとは思わなかった。
ただ、ようやく本当に――終わった、という感じがした。




