7 そうですか
あの日以来、アレスが「引きずり込まれるような眠り方」をする場面に、リリーナは何度か遭遇した。
最初は授業中だけだと思っていたが、寮の廊下で突然壁にもたれて動かなくなったこともあった。昼食の途中で箸を置いたまま顔が落ちていくこともあった。いずれも数十分で自然に目を覚ましたが、その間は何をしても起きなかった。本人に訊いてみたことが一度あるが、「ほっておけ」と言われておわりだった。
気になる。
でも今のところ、それ以上は踏み込めていない。
(いつか話してくれるかしら)
根拠のない期待だとは分かりながら、リリーナはそう思っていた。
◇ ◇ ◇
手紙が届いたのは、隣国に来て三週間が経ったある日の昼下がりのことだった。
差出人は父、アルベルト・エルフォード侯爵。封を開けると、整然とした父の筆跡が並んでいた。
最初の二段落は近況確認だった。侯爵家の屋敷は変わりなく、秋の収穫も例年通りで、母は先月から編み物を始めたらしい。リリーナは口元を緩めた。父の手紙はいつも、こういう些細なことから始まる。
三段落目で、筆跡がわずかに変わった。書くことを選んだ、という意志が滲む書き方に。
――こちらでの出来事について、知らせておいた方がよいと判断した。
マリカ・ヴァントワーズが、学年末の魔法理論試験において不正を行ったことが発覚。カンニング用の魔法道具を持ち込んでいたのを、試験監督に見つかったとのことだ。これにより試験は失格、停学処分を経て学園を退学となった。本人は「誰かに嵌められた」と主張しているが、証拠が明白なため聞き入れられていないという。
リリーナはそこで一度、目を止めた。
それから続きを読んだ。
――また、王太子殿下とヴァントワーズ嬢の関係も、先の件を機に急速に冷え込んでいる模様だ。殿下の周囲では、軽率な判断だったと囁く者も出始めている。お前が心を痛める必要はないが、一応の報告として。
そこで手紙は終わっていた。父らしい締め方だった。「どう思うかはお前が決めろ」と言外に書いてある。
リリーナは便箋を折りたたんで、封筒に戻した。
(そうですか)
自分の中を確かめるように、もう一度思った。
怒りは来なかった。溜飲が下がった、という感覚も、正直なところよく分からなかった。
ただ――どこか遠い国の話を読んだような、静かな感じがあった。あの夜会も、噂も、衆人環視の婚約破棄も、もうずいぶん前のことのように思えた。
「……何を読んでいる」
声がして、リリーナは顔を上げた。
アレスがいた。
中庭のベンチ――リリーナが手紙を読んでいた場所のすぐ隣、別のベンチに、いつの間にか座っていたようだ。前髪は相変わらず顔を覆っていて、制服の上に上着を引っかけた格好。視線がこちらに向いているのか、それとも別の方向を向いているのかも前髪のせいで分からない。
「父からの手紙です」
「ふうん」
興味なさそうな返事だった。
リリーナは封筒を鞄にしまいながら、少し考えた。話す必要もないが、隠す必要もない。
「故国の知り合いが、学園を退学になったそうです」
「……誰だ」
「私を悪役に仕立て上げた人です」
さらっと言ったつもりだったが、アレスが少し動いた気がした。
「不正行為で試験に失格したとのことで。まあ、本人の問題ですから」
「……前の婚約者のことも書いてあったか」
リリーナは少し驚いた。
「話したことがありましたか、殿下の話」
「テシアが喋っていた。事情はだいたい知っている」
テシアか、とリリーナは思った。あの子は悪意があって言いふらすというより、単純に情報の区別がついていないのだろう。
「ええ、少し触れてありました。王太子殿下と、その方との関係が冷え込んでいるとのことで」
「悔しくないのか」
唐突な問いだった。
リリーナはアレスを見た。前髪が邪魔で表情は読めない。ただ声音は――いつもの気だるい塩対応とは少しだけ違う、何かを確かめるような質だった。
「悔しい、というのは、何に対して?」
「利用されたこと。貶められたこと。婚約者まで奪われたこと」
三つを並べられると、なかなかの内容だとリリーナも思った。
「……そうですね」
少し考えてから、正直に答えた。
「終わったときは、痛かったです。悲しかったというより、傷みたいな感覚で。自分のしてきたことが全部、無駄だったみたいで」
「今は」
「今は、」
リリーナは空を見上げた。秋の午後の空は高く、薄い雲が一筋だけ流れていた。
「もう終わったことですから」
嘘ではなかった。本当に、そう感じていた。
「あっちで悔しがっていても、ここでは誰も知らない話ですし。それより今日の午後の授業、アレスさん、ちゃんと来られますか?」
話を変えると、アレスが少しの間黙った。
「……お前は」
何かを言いかけて、やめた。
リリーナはちらりとアレスの方を見た。前髪の向こうで、何かを考えている気配だけがある。
「お前は変わっているな」
結局、そう言った。
「よく言われます」
「貶してない」
「分かっています」
短いやり取りだった。でもアレスが「貶してない」と補足したのは、リリーナには少し意外だった。このひとが、言い方を気にするとは思っていなかった。
沈黙が流れた。悪い沈黙ではなかった。
中庭の木が、風に揺れた。
「……午後の授業は、考える」
「来てください」
「考えると言ってる」
「来てください」
アレスが、また黙った。
やがて、ふいと立ち上がった。寮の方向へ向かって歩き出しながら、
「今日の四限の内容、後で教えろ」
と言った。
来る気がないのか、来る前提で予習を要求しているのか――リリーナには判断がつかなかったが。
(来る気はあるのかもしれない)
そう受け取ることにした。
アレスの後ろ姿が校舎の角に消えてから、リリーナは鞄を抱え直した。
その時、同じ中庭にいたクラスメイトの一人が、慌てた様子で走ってきた。テシアだった。
「リリーナ! ねえ聞いた?」
「何を?」
「さっき学園の正門に、見慣れない馬車が来てたって。紋章がグランシア王家のものだったって話が――」
リリーナの手が、鞄の持ち手をわずかに握り直した。
「――それ、いつの話?」
「今日の昼過ぎ。まだ敷地の外で待ってるらしくて、学園長に面会の申し入れをしてるって噂で」
グランシア王家の紋章。
父の手紙の内容が、もう一度頭の中を通り過ぎた。
(……なるほど)
リリーナは小さく息を吐いた。
悔しくないかと聞かれたばかりだった。「もう終わったことですから」と答えたばかりだった。
どうやら向こうは、終わっていないらしかった。




