6 起こしても起きない
翌朝、リリーナは六時に目を覚ました。
授業の始まりは八時。アレスの部屋を訪ねるなら、遅くとも七時には行った方がいい。昨日の様子を見るかぎり、声をかけてすぐ動けるとは思えない。
テシアはまだ眠っていた。リリーナは音を立てないよう支度をして、寮の廊下に出た。
朝の空気は冷たかった。石造りの廊下に自分の足音だけが響く。三階の奥まった部屋の前に立って、ノックを三回。
返事はなかった。
(分かっていたけど)
今日は最初から鍵がかかっていた。
リリーナはドアを見た。それからドアノブを見た。それから、廊下の天井を見た。
(……)
気持ちを切り替えて、管理人室へ向かった。朝早い時間にも関わらず、事情を話すと合鍵を貸してくれた。おそらく、これまでも何人かが同じことをしたのだろう――管理人の顔が「またか」という表情をしていた。
部屋に入ると、カーテンは昨日と同じく閉め切られていた。毛布の山も昨日と同じ場所にある。リリーナはカーテンを開けて、昨日よりすこし多く光を入れた。
「アレスさん、おはようございます。七時です」
返事はない。
「授業まで一時間あります。今起きれば朝食も食べられます」
毛布が、かすかに動いた。
「……うるさい」
「おはようございます」
「…………うるさい」
「七時です」
毛布の山が、ぐるりと反対方向を向いた。壁に向かって丸まる形になった。
リリーナは椅子を引いて座った。
昨日読みかけていた哲学書を手に取ると、昨日より三十ページほど進んでいた。夜に読んでいたのだろう。起きているじゃないか、と思ったが、声には出さなかった。
時計の針が、静かに動く。
七時十五分になったとき、もう一度声をかけた。
「アレスさん、そろそろ起きてください」
「……なんで毎日来る」
「担当ですから」
「昨日断った」
「私がお受けしていません」
沈黙。
「…………」
「七時十五分です。朝食は七時半までです」
「いらない」
「朝食は大切です」
「うるさい、帰れ」
「起きてください」
毛布の山がぴくりとした。怒っているのか呆れているのか、判断がつかない動き方だった。
やがて、ゆっくりと毛布がめくれた。
前髪だけが出てきた。前髪の下に、鼻と口だけが見えている。リリーナは目を合わせようとしたが、前髪がそれを許さなかった。
「……服を着る。出ていけ」
「承知しました。廊下で待っています」
リリーナは立ち上がり、部屋を出た。
扉を閉めてから、廊下で一人、小さくガッツポーズをした。
起きた。
それだけで、今日は合格だと思った。
結論から言うと、アレスは授業に来た。
遅刻ではあった。一限目の途中から、扉をゆっくりと開けて入ってきた。前髪は相変わらず顔を覆っていて、制服はかろうじて着ているが、どこかくたびれた着方をしていた。
教師が一瞬だけ驚いた顔をしたが、何も言わなかった。おそらく、何か言って逆効果になった経験があるのだろう。アレスは一番後ろの席に座り――五分もしないうちに、机に突っ伏した。
リリーナは二列隣の席から、そっと様子を見た。
(寝た)
あっという間だった。廊下で三十分待って、朝食も半分しか食べなかったのに、授業が始まったとたんに寝た。
さすがにこれは放っておけなかった。
リリーナは立ち上がって、後ろの席へ向かった。教師が小さく目を丸くしたが、止めなかった。
「アレスさん」
小声で呼んで、肩を軽く叩いた。
反応なし。
もう少し強く叩いた。
「アレスさん、授業中です」
んん、という声がして、わずかに体が動いた。でもまた沈んでいく。
リリーナは眉を寄せた。
(起きない……)
諦めて席に戻ろうとしたとき――教師が小声で言った。
「起こさなくていいですよ。前もそうで、何をしても起きないので」
「何をしても、というのは」
「水をかけたこともありますよ。それでも数秒しか起きませんでした」
「水……」
リリーナは少し考えてから、また後ろの席に戻った。
今度は肩ではなく、机の脚を軽く蹴った。がたん、という振動がアレスに伝わる。
「んっ……」
顔が少し上がった。前髪の向こう、目が開いている――ような気がする。
「授業中です」
「……わかってる」
「起きていてください」
「……わかって、る」
三分後に、また突っ伏した。
同じことが、三回繰り返された。
リリーナが起こすと少し顔を上げる。二〜三分後に沈む。また起こす。また沈む。
教師は最初こそ苦笑いをしていたが、やがて普通に授業を進め始めた。この繰り返しがデフォルトになったような顔だった。
四限目が終わったとき、アレスはまだ机に突っ伏していた。
「アレスさん、昼休みです」
「……」
「食堂に行きますか」
「……帰る」
「寮ですか」
「そう」
立ち上がったアレスは――それまで机に貼りついていたとは思えないくらい、すっと立った。背が高かった。リリーナより頭一つ以上はある。
前髪が揺れて、一瞬だけ顎の輪郭がはっきり見えた。整った顎だと、なんとなく思った。
「午後の授業もあります」
「分かってる」
「来ますか」
「……考える」
それだけ言って、アレスは教室を出ていった。
リリーナはその後ろ姿を見ながら、今日二度目の小さなガッツポーズをした。
午後の授業には、来た。
また遅刻で、また五分で寝た。
リリーナはまた起こしに行った。また起きてまた沈んだ。
「……なんでそんなに熱心なんだ」
三度目に起こしたとき、アレスがぼそりと言った。机に顔を半分埋めたまま、こちらを向いているような、いないような体勢で。
「担当ですから」
「俺が嫌だと言っても?」
「はい」
「……意味が分からない」
「ほっておいてほしいですか」
「そう言ってる」
「できません」
間があった。
「……なんで」
「気になるので」
リリーナは素直に答えた。
アレスが少し動いた。顔を上げようとして――また沈んだ。今度は少し違う沈み方だった。意図して伏せたのではなく、力が抜けていくような、ゆっくりとした動きだった。
(……?)
リリーナは眉を寄せた。
先ほどまでとは何かが違う。肩から力が抜けているだけでなく、呼吸のリズムまで変わった気がした。深くなって、遅くなって――。
「アレスさん」
返事がなかった。
肩を叩いた。動かない。もう少し強く叩いた。それでも動かない。さっきまでは叩けば「んっ」と声が出たのに、今度は何も返ってこない。
「アレスさん」
声を少し上げた。
周囲の生徒が数人、こちらを見た。教師も手を止めた。
アレスの体は完全に脱力して、机に沈んでいる。呼吸はしている――でも、これは眠っているというより、何か別のものに引きずり込まれているような。
(これは……)
リリーナの胸の中で、さっきとは違う感覚が生まれた。
心配、とも違う。もっと輪郭のはっきりした、嫌な感覚。
普通じゃない、という確信だった。




