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婚約破棄された世話焼き令嬢は、隣国で問題児に捕まりました  作者: ミナト


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6/14

6 起こしても起きない

 翌朝、リリーナは六時に目を覚ました。

 授業の始まりは八時。アレスの部屋を訪ねるなら、遅くとも七時には行った方がいい。昨日の様子を見るかぎり、声をかけてすぐ動けるとは思えない。

 テシアはまだ眠っていた。リリーナは音を立てないよう支度をして、寮の廊下に出た。

 朝の空気は冷たかった。石造りの廊下に自分の足音だけが響く。三階の奥まった部屋の前に立って、ノックを三回。

 返事はなかった。


(分かっていたけど)


 今日は最初から鍵がかかっていた。

 リリーナはドアを見た。それからドアノブを見た。それから、廊下の天井を見た。


(……)


 気持ちを切り替えて、管理人室へ向かった。朝早い時間にも関わらず、事情を話すと合鍵を貸してくれた。おそらく、これまでも何人かが同じことをしたのだろう――管理人の顔が「またか」という表情をしていた。

 部屋に入ると、カーテンは昨日と同じく閉め切られていた。毛布の山も昨日と同じ場所にある。リリーナはカーテンを開けて、昨日よりすこし多く光を入れた。


「アレスさん、おはようございます。七時です」


 返事はない。


「授業まで一時間あります。今起きれば朝食も食べられます」


 毛布が、かすかに動いた。


「……うるさい」

「おはようございます」

「…………うるさい」

「七時です」


 毛布の山が、ぐるりと反対方向を向いた。壁に向かって丸まる形になった。

 リリーナは椅子を引いて座った。

 昨日読みかけていた哲学書を手に取ると、昨日より三十ページほど進んでいた。夜に読んでいたのだろう。起きているじゃないか、と思ったが、声には出さなかった。

 時計の針が、静かに動く。

 七時十五分になったとき、もう一度声をかけた。


「アレスさん、そろそろ起きてください」

「……なんで毎日来る」

「担当ですから」

「昨日断った」

「私がお受けしていません」


 沈黙。


「…………」

「七時十五分です。朝食は七時半までです」

「いらない」

「朝食は大切です」

「うるさい、帰れ」

「起きてください」


 毛布の山がぴくりとした。怒っているのか呆れているのか、判断がつかない動き方だった。

 やがて、ゆっくりと毛布がめくれた。

 前髪だけが出てきた。前髪の下に、鼻と口だけが見えている。リリーナは目を合わせようとしたが、前髪がそれを許さなかった。


「……服を着る。出ていけ」

「承知しました。廊下で待っています」


 リリーナは立ち上がり、部屋を出た。

 扉を閉めてから、廊下で一人、小さくガッツポーズをした。


 起きた。

 それだけで、今日は合格だと思った。


 結論から言うと、アレスは授業に来た。

 遅刻ではあった。一限目の途中から、扉をゆっくりと開けて入ってきた。前髪は相変わらず顔を覆っていて、制服はかろうじて着ているが、どこかくたびれた着方をしていた。

 教師が一瞬だけ驚いた顔をしたが、何も言わなかった。おそらく、何か言って逆効果になった経験があるのだろう。アレスは一番後ろの席に座り――五分もしないうちに、机に突っ伏した。

 リリーナは二列隣の席から、そっと様子を見た。


(寝た)


 あっという間だった。廊下で三十分待って、朝食も半分しか食べなかったのに、授業が始まったとたんに寝た。

 さすがにこれは放っておけなかった。

 リリーナは立ち上がって、後ろの席へ向かった。教師が小さく目を丸くしたが、止めなかった。


「アレスさん」


 小声で呼んで、肩を軽く叩いた。

 反応なし。

 もう少し強く叩いた。


「アレスさん、授業中です」


 んん、という声がして、わずかに体が動いた。でもまた沈んでいく。

 リリーナは眉を寄せた。


(起きない……)


 諦めて席に戻ろうとしたとき――教師が小声で言った。


「起こさなくていいですよ。前もそうで、何をしても起きないので」

「何をしても、というのは」

「水をかけたこともありますよ。それでも数秒しか起きませんでした」

「水……」


 リリーナは少し考えてから、また後ろの席に戻った。

 今度は肩ではなく、机の脚を軽く蹴った。がたん、という振動がアレスに伝わる。


「んっ……」


 顔が少し上がった。前髪の向こう、目が開いている――ような気がする。


「授業中です」

「……わかってる」

「起きていてください」

「……わかって、る」


 三分後に、また突っ伏した。


 同じことが、三回繰り返された。

 リリーナが起こすと少し顔を上げる。二〜三分後に沈む。また起こす。また沈む。

 教師は最初こそ苦笑いをしていたが、やがて普通に授業を進め始めた。この繰り返しがデフォルトになったような顔だった。

 四限目が終わったとき、アレスはまだ机に突っ伏していた。


「アレスさん、昼休みです」

「……」

「食堂に行きますか」

「……帰る」

「寮ですか」

「そう」


 立ち上がったアレスは――それまで机に貼りついていたとは思えないくらい、すっと立った。背が高かった。リリーナより頭一つ以上はある。

 前髪が揺れて、一瞬だけ顎の輪郭がはっきり見えた。整った顎だと、なんとなく思った。


「午後の授業もあります」

「分かってる」

「来ますか」

「……考える」


 それだけ言って、アレスは教室を出ていった。

 リリーナはその後ろ姿を見ながら、今日二度目の小さなガッツポーズをした。


 午後の授業には、来た。

 また遅刻で、また五分で寝た。

 リリーナはまた起こしに行った。また起きてまた沈んだ。


「……なんでそんなに熱心なんだ」


 三度目に起こしたとき、アレスがぼそりと言った。机に顔を半分埋めたまま、こちらを向いているような、いないような体勢で。


「担当ですから」

「俺が嫌だと言っても?」

「はい」

「……意味が分からない」

「ほっておいてほしいですか」

「そう言ってる」

「できません」


 間があった。


「……なんで」

「気になるので」


 リリーナは素直に答えた。

 アレスが少し動いた。顔を上げようとして――また沈んだ。今度は少し違う沈み方だった。意図して伏せたのではなく、力が抜けていくような、ゆっくりとした動きだった。


(……?)


 リリーナは眉を寄せた。

 先ほどまでとは何かが違う。肩から力が抜けているだけでなく、呼吸のリズムまで変わった気がした。深くなって、遅くなって――。


「アレスさん」


 返事がなかった。

 肩を叩いた。動かない。もう少し強く叩いた。それでも動かない。さっきまでは叩けば「んっ」と声が出たのに、今度は何も返ってこない。


「アレスさん」


 声を少し上げた。

 周囲の生徒が数人、こちらを見た。教師も手を止めた。

 アレスの体は完全に脱力して、机に沈んでいる。呼吸はしている――でも、これは眠っているというより、何か別のものに引きずり込まれているような。


(これは……)


 リリーナの胸の中で、さっきとは違う感覚が生まれた。

 心配、とも違う。もっと輪郭のはっきりした、嫌な感覚。

 普通じゃない、という確信だった。


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