5 問題児のいる学園
ケセルト王国は、思っていたより青い国だった。
港に降り立ったとき、リリーナが最初に感じたのはそれだった。空の青さも海の青さも、故国とさほど変わらないはずなのに、どこか光の質が違う。潮の匂いが少し強くて、風が少し柔らかくて――そういう小さな違いの積み重ねが、「知らない場所に来た」という実感をじわじわと運んでくる。
迎えに来ていた学園の馬車に乗り、一時間ほど揺られると、ナールヴァ学園が見えてきた。
故国の王立学園より古く、石造りの建物が丘の上に連なっている。正門をくぐると中庭があって、遅咲きの花が風に揺れていた。
(……悪くないわ)
リリーナは素直にそう思った。
◇ ◇ ◇
翌日、編入試験が行われた。
筆記が午前、実技が午後。筆記は歴史魔法学・魔法理論・語学・一般教養の四科目。実技は魔力制御の基礎試験だ。
難しくはなかった。難しくはなかったが――リリーナは試験中、妙な感覚を覚えた。
集中できる、という感覚だった。
故国の学園でも勉強は好きだったが、どこかに「婚約者として恥ずかしくない成績を」という緊張感が常にあった。ここにはそれがない。誰もリリーナのことを知らないから、期待もなければ嫉妬もない。ただ問題を解くことだけに、気持ちが向かう。
気づいたら、夢中になっていた。
答案を出したとき、試験官が少し目を丸くした気がしたが、リリーナは気にしなかった。
◇ ◇ ◇
結果が出たのは三日後だった。
呼び出しを受けて学園長室を訪ねると、ラーシュ・ヴォルト学園長――小柄で白髪、丸眼鏡の奥に鋭い目を持つ老人――が書類を一枚、机の上に滑らせてきた。
「編入試験の結果です。今年度の受験者全員の中で、首席でした」
「……そうですか」
「そうですか、と」
学園長は眼鏡の奥で目を細めた。
「驚かないのですか」
「試験の手応えはありましたので」
率直に答えると、学園長はしばらくリリーナを見てから、ふ、と鼻で笑った。感情の読みにくい笑い方だった。
「正直な方ですね」
「曖昧に答えるのが得意ではないのです」
「それは結構」
学園長は立ち上がり、窓の外に目をやった。中庭が見える。
「実は、お話ししたいことがあってお呼びしたのです。試験の結果とは別件で」
リリーナは少し姿勢を正した。
「この学園に、少々困った生徒がいます」
学園長の声は穏やかだったが、どこか慎重な選び方をしていた。
「名前はアレス。二年次在籍ですが……出席日数、試験の受験数、提出課題の数、いずれも基準を大幅に下回っています。このままでは今年度の単位認定が危ういどころか、すでに成績はほぼ壊滅状態です」
「はあ」
「才があることは分かっています。入学時の試験では上位でした。ただ、今はもうまったくやる気がない。授業に来ない、来ても寝ている、起こしても起きない。あらゆる教師が匙を投げました」
リリーナはだんだんと、嫌な予感がしてきた。
「……それを、私に?」
「首席編入者であれば、学習支援の形で単位の一部が認定されます」
学園長はにこりとした。目が笑っていない。
「お願いできますか」
◇ ◇ ◇
アレスとやらに会いに行く前に、リリーナはクラスメイトに少し話を聞いた。
同室になる予定の女子生徒、テシアという快活な少女は、リリーナが隣国の王太子の元婚約者という立場をまだ知らないようで、気安く話しかけてくれた。だが、リリーナはそれがとても有難かった。だから話のついでにアレスのことを聞いてみたのだ。
「アレス? 知ってる知ってる、陰キャの問題児でしょ。前髪が目まで伸びてて、いっつも眠そうで、声かけても基本無視。でも噂では入学試験はめちゃくちゃ優秀だったって」
「普段はどのあたりにいるの?」
「うーん、午前中は大体寮の自室。午後になってもたまに来ない日がある。来た日も授業中ずっと寝てて、先生が起こしに行くとちょっと起きて、また寝る」
「先生が諦めたのね」
「みんな諦めたよ」
テシアは同情とも呆れともつかない顔で言った。
「リリーナ、あの子の担当になったの? 編入早々大変だと思うけど……まあ、頑張って?」
最後の「頑張って」に、微妙な気遣いが滲んでいた。
◇ ◇ ◇
アレスの部屋は、寮の三階の奥まった場所にあった。
リリーナはドアの前に立って、一度だけ深呼吸をした。
困っている人を放っておけない、というのは生まれつきの性分だと父に言われた。それがこれまでどれほど余計なお世話になってきたかも、一応、薄々は分かっている。
でも。
(やるからには、ちゃんとやらないとね)
ノックをした。三回。
返事はなかった。
もう三回。
やはりない。
「アレスさん、ナールヴァ学園の者です。学園長の依頼で参りました」
しんとしている。
リリーナはドアノブを試した。鍵はかかっていなかった。
(失礼します)
心の中で断ってから、扉を開けた。
カーテンの閉め切られた薄暗い部屋に、ベッドがある。そこに――人が、いた。
毛布を頭まで被って、完全に埋まっている。
盛大なため息をつきたいのを堪えて、リリーナは部屋に足を踏み入れた。カーテンを一枚だけ開ける。昼の光が差し込んで、部屋の輪郭が浮かび上がった。机の上には開きっぱなしの本が一冊。あとは驚くほど何もない、物の少ない部屋だった。
ベッドに近づいて、肩のあたりを軽く揺すった。
「アレスさん。起きてください、今日は午後から授業があります」
毛布がわずかに動いた。
「……うるさい」
低い声だった。眠たそうな、しかし不機嫌が滲んだ声。
「うるさくて申し訳ありませんが、起きていただかないと困ります」
「誰だ」
「本日からあなたの学習支援を担当することになりました、リリーナと申します」
少しの沈黙があった。
毛布が、ゆっくりとめくれた。
前髪が見えた。ただ、前髪だけが。顔の上半分が、伸びきった黒髪で覆われている。その下に、目があるはずなのだが――まったく見えない。
ぼさぼさの頭がリリーナの方を向いた。
「……いらない」
「は?」
「支援とやら、いらない。帰ってくれ」
それだけ言って、毛布が戻ってきた。
今度こそため息をついてから、リリーナは椅子を引いてベッドの横に座った。
「帰りません」
「……」
「授業が始まる時間になったら一緒に行きます。それまでここで待っています」
毛布の中から、何とも言えない沈黙が返ってきた。
リリーナはテーブルの上の本を手に取った。栞が挟まったままになっている。哲学書だった。かなり難解な内容だったが、それよりも――思いのほかページが進んでいることの方が気になった。
(ちゃんと読んでいるのね)
声をかけずに、リリーナはページをめくった。
窓の外で、鳥が一声鳴いた。
毛布の中は、静かなままだった。
◇ ◇ ◇
結局、アレスはその日の授業には来なかった。
時間になっても毛布から出てこなかったので、リリーナは諦めて部屋を出た。諦めた、といっても――明日また来ようと思っていた。
(手ごわいわ)
廊下を歩きながら、リリーナは素直にそう思った。
これまで世話を焼いてきた相手は、何だかんだで反応があった。迷惑がったり、素直でなかったり、最終的には悪用したりしたが――それでも「何かを返してきた」。
アレスは違う。
本当に、何もなかった。毛布の中から「いらない」と言っただけで、あとはまるで存在を消すように黙った。拒絶というより――最初から、誰かに関わる気がない、という感じだった。
(なぜ、そこまで)
何かあるのかもしれない。あるいは、本当に単なる無気力なのかもしれない。
どちらにせよ。
(明日も行こう)
リリーナはそう決めた。諦めるには、まだ早い。
夕暮れの廊下に、自分の足音だけが響いた。




