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婚約破棄された世話焼き令嬢は、隣国で問題児に捕まりました  作者: ミナト


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4 旅立ちの朝

 醜聞というものは、火の粉に似ている。

 小さな火種が一つあれば、それだけで十分だ。あとは風が運んでくれる。誰が意図しなくても、誰が止めようとしなくても、気づいたときには広がりすぎて手のつけようがなくなっている。


 婚約破棄から三日で、リリーナの名前は学園中に知れ渡った。

 廊下を歩けば声が止む。食堂に入れば座る場所がなくなる。授業中に当てられると、答えた後でひそひそとした声が聞こえる。

 正確には、リリーナへの直接的な悪意というより――誰も近づきたくない、という空気だった。婚約破棄された令嬢に親切にして、自分まで王太子の不興を買いたくないという、打算と臆病が混じった距離の取り方。

 それが人間というものだと、リリーナには分かっていた。

 恨む気にはなれなかった。ただ、疲れた。


 ◇ ◇ ◇


 父が来たのは、婚約破棄から五日後のことだった。

 侯爵家の馬車が学園の正門に横づけされ、リリーナが応接室へ通されると――アルベルト・エルフォード侯爵は、椅子から立ち上がって娘の顔をまじまじと見た。


「……顔色が悪い」

「そうですか」

「そうですか、じゃない」


 父はため息をついた。五十を過ぎてなお背筋の伸びた、白髪交じりの人だった。厳しい顔立ちだが、娘に向ける目だけはいつも少し違う。


「話は聞いた。夜会での一件も」

「ご心配をおかけして申し訳ありません」

「謝るな」


 父の声が、少し低くなった。


「お前は何も悪いことをしていない。マリカという娘への教え方が不躾だったというなら、それは確かにそうかもしれんが――そもそも困っている者を放っておけないのは、お前の性分だ。それを咎めるのは、私にはできん」

「……お父様」

「それより」


 父は椅子を引いて、向かいの席に座るよう促した。リリーナが腰を下ろすと、テーブルの上に一枚の書状が置かれた。


「読んでみなさい」


 リリーナは書状を手に取った。

 ケセルト王国。隣国の名前が、冒頭にある。発信元は――ケセルト王立ナールヴァ学園。


「留学……?」

「先方とは旧知の仲でな。こちらの事情を伝えたところ、編入を受け入れてくれると返事が来た」


 父は静かに言った。


「このまま国内にいても、噂が消えるには時間がかかる。お前が何を言っても、一度ついた評判はそう簡単には覆らない。しかし隣国であれば、お前のことを何も知らない人間ばかりだ」


 リリーナはもう一度書状を見た。ケセルト王国。海を越えた隣国で、言語はこちらとほぼ同じだが、文化も気候も異なると聞く。


「嫌なら断っても構わない」


 父が言った。


「だが――私はお前に、新しい場所で自由に呼吸してほしいと思っている」


 その一言が、静かに胸に落ちた。

 自由に、呼吸する。

 今の自分がどれだけ息を詰めていたか、それを言われて初めて気がついた。


「……行きます」


 リリーナは書状をテーブルに置いた。


「行って、みます」


 父は何も言わなかった。ただ、小さくうなずいた。その目が、心なしか赤くなっているように見えたが――リリーナも何も言わなかった。


 ◇ ◇ ◇


 出発は、それから十日後の朝だった。

 学園に残る荷物を整理し、寮の部屋を片づけた。エマが最後まで手伝ってくれた。国境を越えるためエマはここまでで、隣国では別の侍女があてがわれる手はずになっていた。


「リリーナ様」


 馬車に乗り込む前、エマが声を出した。目が赤い。十日間、荷造りをしながら何度泣いていたか分からない侍女だった。


「元気で」

「ええ」

「どうかご無事で」

「ええ」

「向こうで困ったことがあれば、必ずお父様に――」

「エマ」


 リリーナは振り向いて、エマの手を両手で包んだ。


「ありがとう。本当に、ありがとう」


 エマが声を詰まらせた。リリーナは少しだけ笑って、手を離した。

 馬車のステップに足をかけて――ふと、振り返った。

 学園の尖塔が、朝の光の中に白く輝いている。あの窓の向こうに図書室があって、あの回廊の角を曲がれば教室に続く廊下があった。一年間通い続けた場所が、今は遠い絵のように見える。


(さようなら、とは言わないでおこう)


 理由は自分でもよく分からなかった。ただ、そう思った。


 馬車に乗り込むと、扉が閉まった。車輪がゆっくりと動き始める。

 リリーナは窓から外を見た。エマが手を振っている。門の脇で父が立っていた。いつもと同じ、背筋の伸びた姿勢で――ただ、片手を小さく上げていた。

 リリーナも、窓越しに手を上げた。

 やがて学園の正門が見えなくなった。道は港へと続いていく。海を越えれば、ケセルト王国。ナールヴァ学園。何も知らない、誰も知らない場所。

 馬車が揺れるたびに、少しずつ景色が変わっていく。

 リリーナは膝の上で手を組んで、流れていく窓の外を眺めた。不安が全くないと言えば嘘になる。でも――それよりも少しだけ大きな何かが、胸の奥にあった。


(新しい場所か)


 自由に呼吸する、と父は言った。

 それがどんな感覚なのか、今の自分にはまだよく分からない。でもきっと、向こうへ行けば分かるのだと思った。

 馬車は軽快に、港への道を走っていく。

 空は晴れていた。


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