3 婚約破棄
王太子エルハルトとの面会は、夜会の席で行うと返信があった。
月に一度、学園の大広間で開かれる「交流夜会」は、貴族子弟同士の社交練習を兼ねた学校行事だ。普段は気楽な雰囲気の集まりだが、今回ばかりはリリーナにとって気楽とは言い難かった。
(どんな話をされるのかは、だいたい分かっている)
鏡の前に立ちながら、リリーナは静かに息を整えた。
侍女のエマが、丁寧な手つきで髪を整えていく。淡い金色のドレス、小ぶりのイヤリング、指輪は婚約の証の一つだけ。いつもと変わらない支度をしながら、リリーナは自分が妙に落ち着いていることに気づいていた。
怖くないわけではない。ただ――覚悟というものは、時間をかけて積み上げると、こういう形になるのかもしれなかった。
「リリーナ様」
エマの手が止まった。
「……本当に、行かれるのですか」
「行かなければならないでしょう」
「でも――」
「エマ」
リリーナは鏡越しに侍女を見た。エマの目が、赤くなっている。
「大丈夫よ」
嘘かもしれなかった。でも、笑ってそう言えた。
◇ ◇ ◇
大広間は、すでに多くの生徒で賑わっていた。
シャンデリアの光が磨かれた床に反射して、笑い声と音楽が混ざり合っている。リリーナが扉のそばに立つと、近くにいた数人がすぐに気づいて、そっと距離を取った。もう慣れた、とは言えないが、驚きはしなくなっていた。
エルハルトはすぐに見つかった。広間の中央寄り、取り巻きに囲まれるようにして立っている。金髪に青い瞳、整った顔立ちは相変わらず絵画のように均整が取れていた。
そしてその隣に、マリカがいた。
(……なるほど)
リリーナはただ、そう思った。
エルハルトがこちらに気づいた。一瞬、何かを測るような目をしてから、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。マリカがその少し後ろをついてくる。周囲の会話が、徐々に静まっていく。
「リリーナ」
「殿下」
向かい合うと、エルハルトはわずかに眉を動かした。
「今日来てくれて良かった。実は、以前から少し気になっていたことがあって」
声は低く、落ち着いていた。公の場での話し方を心得た声だ。
「マリカから話を聞いた。図書室のことだ」
「存じております」
リリーナが答えると、エルハルトは少し意外そうな顔をした。
「知っていたのか」
「噂になっていることは。ただ、直接マリカと話す機会がなかなか得られなかったものですから、まず殿下にお話しするのが先になってしまいました。私の不手際です」
「……そうか」
エルハルトは一拍置いた。
「だがリリーナ、それだけではない。マリカは一人ではないんだ。他にも、お前に委縮させられたと言っている者がいる」
リリーナは静かに周囲を見渡した。
広間の人々が、もう完全に二人を――正確には、この一角を――見ていた。会話の止まった空間の中で、シャンデリアだけがきらきらと音もなく輝いている。
「殿下」
リリーナはできる限り穏やかな声を出した。
「その件については、私の側にも言い分がございます。少なくとも、意図的に誰かを傷つけたことは一度もありません。ただ、相手のペースを置いてきぼりにしてしまったことは――」
「言い訳はいい」
エルハルトの声が、少し硬くなった。
「俺が言いたいのはそういうことじゃない。リリーナ、お前は王太子の婚約者だ。その立場がどれほど周囲に影響を与えるか、もう少し自覚があってもいいはずだ」
「……おっしゃる通りです」
「それだけじゃない」
エルハルトが、一歩踏み出した。
「この件については、貴族の品位に関わる問題として、学園長にも報告が入っている。俺としても、婚約者がそういった評判を持つことは――」
「殿下」
今度はリリーナのほうが、遮った。
自分でも少し驚いた。ただ、このまま聞いているのは違う、と思ったのだ。
「もし殿下が私との婚約を解消なさりたいのであれば、はっきりとそうおっしゃっていただけますか」
広間が、しんと静まった。
エルハルトが目を見開いた。マリカが、その隣でかすかに息をのむ気配がした。
「回りくどく理由を並べていただくより、その方がお互いに誠実だと思いますので」
言ってから、リリーナは思った。これは少し、言いすぎたかもしれない、と。
だがエルハルトは、ゆっくりと――
「……そうだな」
と言った。
どこか、決意したような声だった。
「ならば、はっきり言う」
エルハルト・フォン・グランシアが、まっすぐにリリーナを見た。その目に、謝罪も迷いもなかった。
「リリーナ・エルフォード。俺はお前との婚約を、ここに解消する」
誰も声を出さなかった。
音楽がいつの間にか止まっていた。シャンデリアの光だけが、変わらず広間を照らしている。
リリーナは、エルハルトの顔をまっすぐ見た。その隣に立つマリカの顔も。マリカは俯いていたが、その口元が――ほんのわずかに、笑っているように見えた。
(そういうことか)
すべてが、一本の線でつながった。
初めからそういう筋書きだったのだ、と理解した。
理解して――リリーナは、不思議なくらい静かな気持ちでいた。怒りでも悲しみでもない。ただ、ひどく疲れたような感覚だけがあった。
「……承知しました」
リリーナは、深く礼をした。
婚約者への礼ではなく、目上の人間への、礼儀としての一礼だった。
「殿下のご意向に従います」
顔を上げたとき、周囲の視線がいっせいにこちらに集まっているのが分かった。同情、好奇、困惑、幸災楽禍――様々な感情が混ざった目が、無数にある。
リリーナはそのどれとも目を合わせず、静かに広間を歩いた。
扉を開けて、夜の廊下に出た。
そこでようやく、足が止まった。
(痛い)
心の奥のどこかが、じんとした。悲しみというより、傷のような感覚。婚約が解消されたことへの悲しみではなく――信じていた場所が、最初からそうではなかったと知ったときの、あの感じ。
廊下の窓から、夜空が見えた。
星が出ている。こんなに晴れていたのに、気づかなかった。
リリーナはしばらくそこに立ってから、ゆっくりと歩き始めた。
泣かなかった。泣けなかったのではなく――今夜は、泣く気がしなかった。
(第4話へ続く)
改稿
第3話 公の場で
王太子エルハルトとの面会は、夜会の席で行うと返信があった。
月に一度、学園の大広間で開かれる「交流夜会」は、貴族子弟同士の社交練習を兼ねた学校行事だ。普段は気楽な雰囲気の集まりだが、今回ばかりはリリーナにとって気楽とは言い難かった。
(どんな話をされるのかは、だいたい分かっている)
鏡の前に立ちながら、リリーナは静かに息を整えた。
侍女のエマが、丁寧な手つきで髪を整えていく。淡い金色のドレス、小ぶりのイヤリング、指輪は婚約の証の一つだけ。
いつもと変わらない支度をしながら、リリーナは自分が妙に落ち着いていることに気づいていた。
エルハルトとの婚約は、物心がついたときにはすでにあった。
顔を合わせる機会は年に数回。夜会や式典の場では隣に並び、人前では互いに礼儀正しく振る舞った。悪い関係ではなかった――と思う。ただ、良い関係だったかと問われると、それも違う。二人の間にあったのは、親しさではなく、「婚約者として相応しく見せる」という共通の義務だった。
いつ頃からか、エルハルトの態度がよそよそしくなった。式典で隣に立っても言葉が減り、目が合っても何も映っていない感じがした。理由を聞こうとしたこともあったが、機会のないまま時間が過ぎた。
だから、呼び出しの手紙が来たとき――リリーナにはなんとなく、分かってしまった。
怖くないわけではない。ただ――覚悟というものは、時間をかけて積み上げると、こういう形になるのかもしれなかった。
「リリーナ様」
エマの手が止まった。
「……本当に、行かれるのですか」
「行かなければならないでしょう」
「でも――」
「エマ」
リリーナは鏡越しに侍女を見た。エマの目が、赤くなっている。
「大丈夫よ」
嘘かもしれなかった。でも、笑ってそう言えた。
◇ ◇ ◇
大広間は、すでに多くの生徒で賑わっていた。
シャンデリアの光が磨かれた床に反射して、笑い声と音楽が混ざり合っている。リリーナが扉のそばに立つと、近くにいた数人がすぐに気づいて、そっと距離を取った。もう慣れた、とは言えないが、驚きはしなくなっていた。
エルハルトはすぐに見つかった。広間の中央寄り、取り巻きに囲まれるようにして立っている。金髪に青い瞳、整った顔立ちは絵画のように均整が取れていた。
そしてその隣に、マリカがいた。
リリーナは一瞬、足を止めた。
マリカはエルハルトのそばで、ほんの少し俯き加減に立っていた。か弱そうに見えるが、細部が違う。夜会には不似合いなほど精巧なドレス、いつもより丁寧に整えられた髪――これは、今日のために用意してきた格好だ。
(いつから、だろう)
噂が広まるより前。マリカが図書室に来なくなるより前。もっとずっと前から、この二人は――。
リリーナの胸の中で、何かが静かにつながった。
エルハルトが気づいた。一瞬、何かを確かめるような目でこちらを見てから、ゆっくりと歩いてくる。マリカがその半歩後ろについてくる。その距離感が、ひどく自然だった。
二人が並んで近づいてくるのを見ながら、リリーナはようやく理解した。
これは婚約破棄の「通告」ではない。婚約破棄の「儀式」だ。舞台は整えられていた――人目のある夜会という場所も、マリカという存在も、今夜この場に集まったすべての生徒も。
喉の奥が、かすかに詰まった。
「リリーナ」
「殿下」
向かい合うと、エルハルトはわずかに眉を動かした。
「今日来てくれて良かった。実は、以前から少し気になっていたことがあって」
声は低く、落ち着いていた。公の場での話し方を心得た声だ。あまりにも落ち着きすぎていた。
「マリカから話を聞いた。図書室のことだ」
「存じております」
リリーナが答えると、エルハルトは少し意外そうな顔をした。
「知っていたのか」
「噂になっていることは。ただ、直接マリカと話す機会がなかなか得られなかったものですから、まず殿下にお話しするのが先になってしまいました。私の不手際です」
「……そうか」
エルハルトは一拍置いた。その間、マリカがちらりとエルハルトを見上げた。ほんの一瞬のことで、気づいた者がどれだけいたかは分からない。でもリリーナには見えた――「次の台詞を確かめるような」目だった。
「だがリリーナ、それだけではない。マリカは一人ではないんだ。他にも、お前に委縮させられたと言っている者がいる」
リリーナは静かに周囲を見渡した。
広間の人々が、もう完全に二人を――正確には、この一角を――見ていた。会話の止まった空間の中で、シャンデリアだけがきらきらと音もなく輝いている。
(他にも、というのは――誰だろう)
思ったが、口には出さなかった。今それを問うても、仕組まれた答えが返ってくるだけだと分かっていたから。
「殿下」
リリーナはできる限り穏やかな声を出した。
「その件については、私の側にも言い分がございます。少なくとも、意図的に誰かを傷つけたことは一度もありません。ただ、相手のペースを置いてきぼりにしてしまったことは――」
「言い訳はいい」
エルハルトの声が、少し硬くなった。
「俺が言いたいのはそういうことじゃない。リリーナ、お前は王太子の婚約者だ。その立場がどれほど周囲に影響を与えるか、もう少し自覚があってもいいはずだ」
「……おっしゃる通りです」
「それだけじゃない」
エルハルトが、一歩踏み出した。
「この件については、貴族の品位に関わる問題として、学園長にも報告が入っている。俺としても、婚約者がそういった評判を持つことは――」
「殿下」
今度はリリーナのほうが、遮った。
自分でも少し驚いた。ただ、このまま聞いているのは違う、と思ったのだ。どんな言葉を積み上げられても、この結末は変わらない。それが分かっていて、丁寧に傷つけられ続けるのは――もう、いい。
「もし殿下が私との婚約を解消なさりたいのであれば、はっきりとそうおっしゃっていただけますか」
広間が、しんと静まった。
エルハルトが目を見開いた。マリカが、その隣でかすかに息をのむ気配がした。
「回りくどく理由を並べていただくより、その方がお互いに誠実だと思いますので」
これは少し、言いすぎたかもしれない――と思った。でも、今さらだった。
エルハルトはしばらく黙ってから――ゆっくりと、
「……そうだな」
と言った。
準備していた言葉のような、滑らかさだった。
「ならば、はっきり言う」
エルハルト・フォン・グランシアが、まっすぐにリリーナを見た。その目に、謝罪も迷いもなかった。ただ、どこか晴れ晴れとした――そう、まるで重荷を下ろすような色があった。
「リリーナ・エルフォード。俺はお前との婚約を、ここに解消する」
誰も声を出さなかった。
音楽がいつの間にか止まっていた。シャンデリアの光だけが、変わらず広間を照らしている。
リリーナは、エルハルトの顔をまっすぐ見た。その隣に立つマリカの顔も。マリカは俯いていた――けれどその口元が、ほんのわずかに、笑っていた。勝ったという笑みではなかった。もっと素朴な、「やっと終わった」という笑みだった。
それが一番、堪えた。
喜んでいるのではない。安堵しているのだ。リリーナがいなくなることを、それほど自然に、望んでいた。
(そうか)
怒りは来なかった。ただ、何か大切なものが、音もなく落ちていく感覚があった。
努力が、誠実さが、ずっと守ろうとしてきたものが――最初から、誰にも必要とされていなかった。
「……承知しました」
リリーナは、深く礼をした。
婚約者への礼ではなく、目上の人間への、礼儀としての一礼だった。最後まで、それだけは崩さなかった。
「殿下のご意向に従います」
顔を上げたとき、周囲の視線がいっせいにこちらに集まっているのが分かった。同情、好奇、困惑、幸災楽禍――様々な感情が混ざった目が、無数にある。
リリーナはそのどれとも目を合わせず、静かに広間を歩いた。
扉を開けて、夜の廊下に出た。
そこでようやく、足が止まった。
(痛い)
心の奥のどこかが、じんとした。悲しみというより、傷のような感覚。婚約が解消されたことへの悲しみではなく――信じていた場所が、最初からそうではなかったと知ったときの、あの感じ。
マリカを助けようとしていた。エルハルトとの関係を保とうとしていた。その間に、二人は自分の知らないところで言葉を交わし、段取りを整え、今夜の舞台を作っていた。
誰も教えてくれなかった。気づけなかった、ではなく――教える気が、なかったのだ。
廊下の窓から、夜空が見えた。
星が出ている。こんなに晴れていたのに、今の今まで気づかなかった。
リリーナはしばらくそこに立ってから、ゆっくりと歩き始めた。
泣かなかった。泣けなかったのではなく――今夜は、泣く気がしなかった。
ただ、このまま歩いていけば、どこか遠くへ行けるような気がした。今いる場所よりも、もっと空気の違う場所へ。
廊下の先は、暗かった。




