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婚約破棄された世話焼き令嬢は、隣国で問題児に捕まりました  作者: ミナト


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3/13

3 婚約破棄

 王太子エルハルトとの面会は、夜会の席で行うと返信があった。

 月に一度、学園の大広間で開かれる「交流夜会」は、貴族子弟同士の社交練習を兼ねた学校行事だ。普段は気楽な雰囲気の集まりだが、今回ばかりはリリーナにとって気楽とは言い難かった。


(どんな話をされるのかは、だいたい分かっている)


 鏡の前に立ちながら、リリーナは静かに息を整えた。

 侍女のエマが、丁寧な手つきで髪を整えていく。淡い金色のドレス、小ぶりのイヤリング、指輪は婚約の証の一つだけ。いつもと変わらない支度をしながら、リリーナは自分が妙に落ち着いていることに気づいていた。

 怖くないわけではない。ただ――覚悟というものは、時間をかけて積み上げると、こういう形になるのかもしれなかった。


「リリーナ様」


 エマの手が止まった。


「……本当に、行かれるのですか」

「行かなければならないでしょう」

「でも――」

「エマ」


 リリーナは鏡越しに侍女を見た。エマの目が、赤くなっている。


「大丈夫よ」


 嘘かもしれなかった。でも、笑ってそう言えた。


 ◇ ◇ ◇


 大広間は、すでに多くの生徒で賑わっていた。

 シャンデリアの光が磨かれた床に反射して、笑い声と音楽が混ざり合っている。リリーナが扉のそばに立つと、近くにいた数人がすぐに気づいて、そっと距離を取った。もう慣れた、とは言えないが、驚きはしなくなっていた。

 エルハルトはすぐに見つかった。広間の中央寄り、取り巻きに囲まれるようにして立っている。金髪に青い瞳、整った顔立ちは相変わらず絵画のように均整が取れていた。

 そしてその隣に、マリカがいた。


(……なるほど)


 リリーナはただ、そう思った。

 エルハルトがこちらに気づいた。一瞬、何かを測るような目をしてから、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。マリカがその少し後ろをついてくる。周囲の会話が、徐々に静まっていく。


「リリーナ」

「殿下」


 向かい合うと、エルハルトはわずかに眉を動かした。


「今日来てくれて良かった。実は、以前から少し気になっていたことがあって」


 声は低く、落ち着いていた。公の場での話し方を心得た声だ。


「マリカから話を聞いた。図書室のことだ」

「存じております」


 リリーナが答えると、エルハルトは少し意外そうな顔をした。


「知っていたのか」

「噂になっていることは。ただ、直接マリカと話す機会がなかなか得られなかったものですから、まず殿下にお話しするのが先になってしまいました。私の不手際です」

「……そうか」


 エルハルトは一拍置いた。


「だがリリーナ、それだけではない。マリカは一人ではないんだ。他にも、お前に委縮させられたと言っている者がいる」


 リリーナは静かに周囲を見渡した。

 広間の人々が、もう完全に二人を――正確には、この一角を――見ていた。会話の止まった空間の中で、シャンデリアだけがきらきらと音もなく輝いている。


「殿下」


 リリーナはできる限り穏やかな声を出した。


「その件については、私の側にも言い分がございます。少なくとも、意図的に誰かを傷つけたことは一度もありません。ただ、相手のペースを置いてきぼりにしてしまったことは――」

「言い訳はいい」


 エルハルトの声が、少し硬くなった。


「俺が言いたいのはそういうことじゃない。リリーナ、お前は王太子の婚約者だ。その立場がどれほど周囲に影響を与えるか、もう少し自覚があってもいいはずだ」

「……おっしゃる通りです」

「それだけじゃない」


 エルハルトが、一歩踏み出した。


「この件については、貴族の品位に関わる問題として、学園長にも報告が入っている。俺としても、婚約者がそういった評判を持つことは――」

「殿下」


 今度はリリーナのほうが、遮った。

 自分でも少し驚いた。ただ、このまま聞いているのは違う、と思ったのだ。


「もし殿下が私との婚約を解消なさりたいのであれば、はっきりとそうおっしゃっていただけますか」


 広間が、しんと静まった。

 エルハルトが目を見開いた。マリカが、その隣でかすかに息をのむ気配がした。


「回りくどく理由を並べていただくより、その方がお互いに誠実だと思いますので」


 言ってから、リリーナは思った。これは少し、言いすぎたかもしれない、と。

 だがエルハルトは、ゆっくりと――


「……そうだな」


 と言った。

 どこか、決意したような声だった。


「ならば、はっきり言う」


 エルハルト・フォン・グランシアが、まっすぐにリリーナを見た。その目に、謝罪も迷いもなかった。


「リリーナ・エルフォード。俺はお前との婚約を、ここに解消する」


 誰も声を出さなかった。

 音楽がいつの間にか止まっていた。シャンデリアの光だけが、変わらず広間を照らしている。

 リリーナは、エルハルトの顔をまっすぐ見た。その隣に立つマリカの顔も。マリカは俯いていたが、その口元が――ほんのわずかに、笑っているように見えた。


(そういうことか)


 すべてが、一本の線でつながった。

 初めからそういう筋書きだったのだ、と理解した。

 理解して――リリーナは、不思議なくらい静かな気持ちでいた。怒りでも悲しみでもない。ただ、ひどく疲れたような感覚だけがあった。


「……承知しました」


 リリーナは、深く礼をした。

 婚約者への礼ではなく、目上の人間への、礼儀としての一礼だった。


「殿下のご意向に従います」


 顔を上げたとき、周囲の視線がいっせいにこちらに集まっているのが分かった。同情、好奇、困惑、幸災楽禍――様々な感情が混ざった目が、無数にある。

 リリーナはそのどれとも目を合わせず、静かに広間を歩いた。

 扉を開けて、夜の廊下に出た。


 そこでようやく、足が止まった。


(痛い)


 心の奥のどこかが、じんとした。悲しみというより、傷のような感覚。婚約が解消されたことへの悲しみではなく――信じていた場所が、最初からそうではなかったと知ったときの、あの感じ。


 廊下の窓から、夜空が見えた。

 星が出ている。こんなに晴れていたのに、気づかなかった。

 リリーナはしばらくそこに立ってから、ゆっくりと歩き始めた。


 泣かなかった。泣けなかったのではなく――今夜は、泣く気がしなかった。


(第4話へ続く)


改稿


第3話 公の場で

 王太子エルハルトとの面会は、夜会の席で行うと返信があった。

 月に一度、学園の大広間で開かれる「交流夜会」は、貴族子弟同士の社交練習を兼ねた学校行事だ。普段は気楽な雰囲気の集まりだが、今回ばかりはリリーナにとって気楽とは言い難かった。


(どんな話をされるのかは、だいたい分かっている)


 鏡の前に立ちながら、リリーナは静かに息を整えた。

 侍女のエマが、丁寧な手つきで髪を整えていく。淡い金色のドレス、小ぶりのイヤリング、指輪は婚約の証の一つだけ。

 いつもと変わらない支度をしながら、リリーナは自分が妙に落ち着いていることに気づいていた。


 エルハルトとの婚約は、物心がついたときにはすでにあった。

 顔を合わせる機会は年に数回。夜会や式典の場では隣に並び、人前では互いに礼儀正しく振る舞った。悪い関係ではなかった――と思う。ただ、良い関係だったかと問われると、それも違う。二人の間にあったのは、親しさではなく、「婚約者として相応しく見せる」という共通の義務だった。

 いつ頃からか、エルハルトの態度がよそよそしくなった。式典で隣に立っても言葉が減り、目が合っても何も映っていない感じがした。理由を聞こうとしたこともあったが、機会のないまま時間が過ぎた。

 だから、呼び出しの手紙が来たとき――リリーナにはなんとなく、分かってしまった。

 怖くないわけではない。ただ――覚悟というものは、時間をかけて積み上げると、こういう形になるのかもしれなかった。


「リリーナ様」


 エマの手が止まった。


「……本当に、行かれるのですか」

「行かなければならないでしょう」

「でも――」

「エマ」


 リリーナは鏡越しに侍女を見た。エマの目が、赤くなっている。


「大丈夫よ」


 嘘かもしれなかった。でも、笑ってそう言えた。


 ◇ ◇ ◇


 大広間は、すでに多くの生徒で賑わっていた。

 シャンデリアの光が磨かれた床に反射して、笑い声と音楽が混ざり合っている。リリーナが扉のそばに立つと、近くにいた数人がすぐに気づいて、そっと距離を取った。もう慣れた、とは言えないが、驚きはしなくなっていた。

 エルハルトはすぐに見つかった。広間の中央寄り、取り巻きに囲まれるようにして立っている。金髪に青い瞳、整った顔立ちは絵画のように均整が取れていた。

 そしてその隣に、マリカがいた。

 リリーナは一瞬、足を止めた。

 マリカはエルハルトのそばで、ほんの少し俯き加減に立っていた。か弱そうに見えるが、細部が違う。夜会には不似合いなほど精巧なドレス、いつもより丁寧に整えられた髪――これは、今日のために用意してきた格好だ。


(いつから、だろう)


 噂が広まるより前。マリカが図書室に来なくなるより前。もっとずっと前から、この二人は――。

 リリーナの胸の中で、何かが静かにつながった。

 エルハルトが気づいた。一瞬、何かを確かめるような目でこちらを見てから、ゆっくりと歩いてくる。マリカがその半歩後ろについてくる。その距離感が、ひどく自然だった。

 二人が並んで近づいてくるのを見ながら、リリーナはようやく理解した。

 これは婚約破棄の「通告」ではない。婚約破棄の「儀式」だ。舞台は整えられていた――人目のある夜会という場所も、マリカという存在も、今夜この場に集まったすべての生徒も。

 喉の奥が、かすかに詰まった。


「リリーナ」

「殿下」


 向かい合うと、エルハルトはわずかに眉を動かした。


「今日来てくれて良かった。実は、以前から少し気になっていたことがあって」


 声は低く、落ち着いていた。公の場での話し方を心得た声だ。あまりにも落ち着きすぎていた。


「マリカから話を聞いた。図書室のことだ」

「存じております」


 リリーナが答えると、エルハルトは少し意外そうな顔をした。


「知っていたのか」

「噂になっていることは。ただ、直接マリカと話す機会がなかなか得られなかったものですから、まず殿下にお話しするのが先になってしまいました。私の不手際です」

「……そうか」


 エルハルトは一拍置いた。その間、マリカがちらりとエルハルトを見上げた。ほんの一瞬のことで、気づいた者がどれだけいたかは分からない。でもリリーナには見えた――「次の台詞を確かめるような」目だった。


「だがリリーナ、それだけではない。マリカは一人ではないんだ。他にも、お前に委縮させられたと言っている者がいる」


 リリーナは静かに周囲を見渡した。

 広間の人々が、もう完全に二人を――正確には、この一角を――見ていた。会話の止まった空間の中で、シャンデリアだけがきらきらと音もなく輝いている。


(他にも、というのは――誰だろう)


 思ったが、口には出さなかった。今それを問うても、仕組まれた答えが返ってくるだけだと分かっていたから。


「殿下」


 リリーナはできる限り穏やかな声を出した。


「その件については、私の側にも言い分がございます。少なくとも、意図的に誰かを傷つけたことは一度もありません。ただ、相手のペースを置いてきぼりにしてしまったことは――」

「言い訳はいい」


 エルハルトの声が、少し硬くなった。


「俺が言いたいのはそういうことじゃない。リリーナ、お前は王太子の婚約者だ。その立場がどれほど周囲に影響を与えるか、もう少し自覚があってもいいはずだ」

「……おっしゃる通りです」

「それだけじゃない」


 エルハルトが、一歩踏み出した。


「この件については、貴族の品位に関わる問題として、学園長にも報告が入っている。俺としても、婚約者がそういった評判を持つことは――」

「殿下」


 今度はリリーナのほうが、遮った。

 自分でも少し驚いた。ただ、このまま聞いているのは違う、と思ったのだ。どんな言葉を積み上げられても、この結末は変わらない。それが分かっていて、丁寧に傷つけられ続けるのは――もう、いい。


「もし殿下が私との婚約を解消なさりたいのであれば、はっきりとそうおっしゃっていただけますか」


 広間が、しんと静まった。

 エルハルトが目を見開いた。マリカが、その隣でかすかに息をのむ気配がした。


「回りくどく理由を並べていただくより、その方がお互いに誠実だと思いますので」


 これは少し、言いすぎたかもしれない――と思った。でも、今さらだった。

 エルハルトはしばらく黙ってから――ゆっくりと、


「……そうだな」


 と言った。

 準備していた言葉のような、滑らかさだった。


「ならば、はっきり言う」


 エルハルト・フォン・グランシアが、まっすぐにリリーナを見た。その目に、謝罪も迷いもなかった。ただ、どこか晴れ晴れとした――そう、まるで重荷を下ろすような色があった。


「リリーナ・エルフォード。俺はお前との婚約を、ここに解消する」


 誰も声を出さなかった。

 音楽がいつの間にか止まっていた。シャンデリアの光だけが、変わらず広間を照らしている。

 リリーナは、エルハルトの顔をまっすぐ見た。その隣に立つマリカの顔も。マリカは俯いていた――けれどその口元が、ほんのわずかに、笑っていた。勝ったという笑みではなかった。もっと素朴な、「やっと終わった」という笑みだった。

 それが一番、堪えた。

 喜んでいるのではない。安堵しているのだ。リリーナがいなくなることを、それほど自然に、望んでいた。


(そうか)


 怒りは来なかった。ただ、何か大切なものが、音もなく落ちていく感覚があった。

 努力が、誠実さが、ずっと守ろうとしてきたものが――最初から、誰にも必要とされていなかった。


「……承知しました」


 リリーナは、深く礼をした。

 婚約者への礼ではなく、目上の人間への、礼儀としての一礼だった。最後まで、それだけは崩さなかった。


「殿下のご意向に従います」


 顔を上げたとき、周囲の視線がいっせいにこちらに集まっているのが分かった。同情、好奇、困惑、幸災楽禍――様々な感情が混ざった目が、無数にある。

 リリーナはそのどれとも目を合わせず、静かに広間を歩いた。

 扉を開けて、夜の廊下に出た。

 そこでようやく、足が止まった。


(痛い)


 心の奥のどこかが、じんとした。悲しみというより、傷のような感覚。婚約が解消されたことへの悲しみではなく――信じていた場所が、最初からそうではなかったと知ったときの、あの感じ。

 マリカを助けようとしていた。エルハルトとの関係を保とうとしていた。その間に、二人は自分の知らないところで言葉を交わし、段取りを整え、今夜の舞台を作っていた。

 誰も教えてくれなかった。気づけなかった、ではなく――教える気が、なかったのだ。

 廊下の窓から、夜空が見えた。

 星が出ている。こんなに晴れていたのに、今の今まで気づかなかった。

 リリーナはしばらくそこに立ってから、ゆっくりと歩き始めた。

 泣かなかった。泣けなかったのではなく――今夜は、泣く気がしなかった。

 ただ、このまま歩いていけば、どこか遠くへ行けるような気がした。今いる場所よりも、もっと空気の違う場所へ。

 廊下の先は、暗かった。


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