2 噂というもの
リリーナが異変に気づいたのは、月曜の朝のことだった。
廊下を歩いていると、すれ違いざまに視線が止まる。声が止まる。気のせいだと思えば、振り返ったときにはまた話し始めている。
(……気のせいかしら)
本当に気のせいかもしれない。リリーナは侯爵令嬢で、王太子の婚約者だ。人目を引くのは今に始まったことではない。
そう結論づけて、教室の扉を開けた。
会話が、一拍遅れて再開した。
一日のうちに、いくつかのことが起きた。
ひとつ目は、昼食のことだ。
いつもリリーナの隣に座るクラスメイトのソフィアが、今日は向かいの席に鞄を置いた。
「ごめんなさい、今日は少しそちらで……」
そう言ったきり、理由は言わなかった。リリーナは特段気にすることもなく「ええ、もちろん」と答えたが、ソフィアは目を合わせてくれなかった。
ふたつ目は、廊下での出来事だ。
授業と授業の間の短い休憩、マリカがクラスメイト数人と笑い合っているところに通りかかった。リリーナが会釈すると、笑い声がぴたりとやんだ。マリカはにっこりと微笑んで「ごきげんよう、リリーナ様」と返したが、リリーナが通り過ぎるか過ぎないかのうちに、ひそひそとした声が再び起き上がるのが聞こえた。
みっつ目は、図書室だった。
放課後、今日もマリカを待ったが、時間になっても来なかった。三十分ほど待ってから、仕方なく一人で帰ることにした。
(体調でも悪いのかしら。明日確認しておかないと)
そう考えながら廊下を歩いていると、角の向こうから声が聞こえてきた。
「――聞いたわよ。歴史魔法学の試験、マリカほとんど白紙だったんでしょう?」
「当然じゃない。だって何の成果もなかったんだもの」
「リリーナ様に毎日あれだけ拘束されてたのに?」
リリーナの足が、音もなく止まった。
「拘束、って」
「マリカが言ってたのよ。帰りたいって言っても帰してもらえないって。リリーナ様が全部終わるまで絶対に放さないって」
「……それってほとんど」
「しかも毎日よ。何時間も」
廊下の角の向こうで、声が潜められた。
「マリカって、ああ見えて令嬢でしょう。強くは言えないじゃない、相手が王太子殿下のご婚約者じゃ」
リリーナは角を曲がらなかった。
そのまま、廊下の端で、しばらく動けずにいた。
◇ ◇ ◇
夕暮れの中を歩きながら、リリーナは反芻した。
放してもらえない。帰りたいと言っても帰れない。
(……そんなつもりじゃなかったのに)
そんなつもりはなかった。本当に。時計を見るのを忘れていただけで、強制するつもりは一切なかった。帰りたければいつでも帰れたはずだし――
(でも、そう言えなかったのかもしれない。相手が私では)
そこまで考えて、リリーナは静かに息を吐いた。
侯爵令嬢で、王太子の婚約者。その立場が相手を萎縮させていたなら、いくら「悪意がなかった」と言っても、それは自分の話だ。
(明日、マリカに謝らないと……)
素直にそう思った。心当たりがある、というより――相手が困っていたなら、理由はどうあれ、まず謝るべきだと、リリーナはそう育てられてきた。
ただ一つだけ、うまく納得できないことがあるとすれば。
(なぜ、直接言ってくれなかったのかしら……)
その疑問だけが、夕風の中にひっそりと残った。
◇ ◇ ◇
謝罪の機会は、翌朝すぐに来た――と思ったが、そうはならなかった。
マリカを見つけて近づこうとするたびに、彼女の周りに人垣ができた。クラスメイトたちが自然に間に入ってくる、という形で。意図的かどうかは分からない。ただ、気づけばいつも、リリーナとマリカの間には誰かがいた。
授業中は問題なかった。だが休憩になるたびに、マリカの席は人に囲まれた。昼食のときも同じだった。
その日の放課後、リリーナは図書室には行かず、中庭のベンチに座った。
噂が広がっている。それはもう分かっていた。どの程度の速さかは分からないが、視線の密度が昨日より確実に増していた。廊下で誰かとすれ違うたびに、一拍の空白が生まれる。
(どうしたものかしら)
弁明をするべきか。でも何を。
「教えることに夢中になっていただけです」と言っても、それが相手を追い詰めていたなら言い訳にしかならない。
ため息をついて、空を見上げた。
雲が一つ、ゆっくりと流れていく。
「リリーナ様」
声に振り向くと、侍女のエマが小走りで近づいてきた。学園の敷地内への外部者の立ち入りは制限されているが、婚約者付きの侍女には例外的な許可が出ている。
「お手紙が届いております」
差し出された封筒には、見慣れた印章が押されていた。
王家の紋章。
リリーナは一瞬、目を細めた。
封を開ける。折りたたまれた便箋には、整然とした文字が並んでいた。
――近日中に話したいことがある。都合のよい日を知らせてほしい。
署名は、エルハルト・フォン・グランシア。王太子殿下の名前だった。
リリーナはその便箋を、しばらく見つめた。
エマが心配そうにこちらを見ている。
「……ありがとう、エマ」
声は穏やかに出た。我ながら感心するくらい、普通の声だった。
「返事を書くから、少し時間をちょうだい」
ベンチに腰を下ろし直して、リリーナは懐から小さなメモ帳を取り出した。
話したいことがある、か。
(どんな内容かは、だいたい想像がつくけれど)
そう思いながら、ペンを走らせた。噂が広まっている。王太子の耳にも届いたのだろう。呼び出しの内容がどういうものになるか、考えれば考えるほど、嫌な予感がした。
だがリリーナは、その予感を丁寧に心の引き出しにしまった。
今考えても仕方のないことは、今は考えない。それもまた、彼女の流儀だった。
書き上げた返事を封筒に入れながら、もう一度だけ空を見上げた。
雲はもう、どこかへ行ってしまっていた。




