1 よかれと思って
王立グランシア学園の図書室は、放課後になると静かになる。
蔵書棚が迷路のように立ち並ぶ奥の一角、窓際のテーブルに、リリーナ・エルフォードは今日も陣取っていた。広げているのは自分の教科書ではない。ざっと見渡しただけで三冊ある参考書と、整然と並んだノートの束――これはすべて、隣に座る少女のためのものだ。
「いい? ここがポイントなの。歴史魔法学の試験で頻出なのは条約の名称じゃなくて、締結の背景にある魔力均衡の概念のほう。だからまずここを押さえれば――」
「……はあ」
返ってきたのは、あくびを噛み殺したような声だった。
マリカ・ヴァントワーズは、頬杖をついたまま窓の外に目を向けている。栗色の巻き毛がふわりと揺れ、その横顔はどこか退屈そうだ。貴族令嬢にしては少々くだけた所作が、彼女を特徴づけていた。
(集中できていないのかしら。説明の仕方を変えてみようかしら)
リリーナは一つも気分を害さず、内心でそう考えた。そして次の瞬間、もうペンを走らせている。
「概念が難しければ、まず比喩から入りましょう。たとえば、魔力均衡というのは――天秤と同じなの。片方が重くなったとき、もう片方に重りを乗せて釣り合わせる。国と国の間で魔力が偏ったとき、それを条約という形で「重り」にしたのが、第三次グランシア協定なわけ。だからこそ締結の年より先に、その背景を問う問題が出やすい。ほら、こういう図にすると――」
すらすらと図を描きながら説明するリリーナの声に、熱がこもっていく。
これが彼女の悪い癖――というか、本人は悪いとまったく思っていないのだが――だった。「教える」モードに入ると、気づけば止まれなくなる。相手の理解よりも「もっと分かりやすい説明」を追い求めて、どんどん先へ進んでしまう。
「次に関連する第四次協定を見ておくと試験範囲が繋がってくるから、一緒に確認しましょう。ここのページと、あとこっちの図表も――」
「……ちょっと待って」
マリカがようやく口を挟んだ。
「リリーナ様。わたくし、もう三時間ここにいるんですけど」
「あら、もうそんなに?」
壁の時計を見て、リリーナは初めて驚いた顔をした。
窓の外はすっかり夕焼けに染まっている。放課後の図書室は、いつの間にか彼女たち以外に人影がなかった。
「……ごめんなさい、熱中しすぎてしまったわ。今日はここまでにしましょうか。でもね、マリカ。明日の分として――」
「結構です」
マリカはぱたんと参考書を閉じた。立ち上がり、椅子を引く音が図書室に響く。
「ありがとうございました、リリーナ様」
声だけは礼儀正しかった。だがその目が笑っていないことに、リリーナは気づかなかった。
扉が閉まる音がして、一人残される。
「……明日の試験範囲、ちゃんと復習してくれるといいんだけれど」
リリーナは少し心配そうに扉のほうを見てから、一人でぽつりとつぶやいた。
きっと大丈夫、と思うことにした。
◇ ◇ ◇
そもそもの始まりは、二週間ほど前のことだった。
歴史魔法学の小テストが返却された日、廊下でマリカが解答用紙を丸めて鞄に押し込む姿を見てしまったのだ。点数は見えなかったが、あの顔色と、乱暴なしまい方が、すべてを物語っていた。
声をかけたのはほとんど反射だった。リリーナにとって、「困っていそうな人が目に入る」と「声をかける」の間に、思慮というものが挟まる余地はない。
「あの、差し出がましいのだけれど――試験、よくなかった?」
マリカは一瞬固まってから、ふてくされたように視線を逸らした。
「……見てたんですか、リリーナ様」
「ごめんなさい、見ようとしたわけじゃないの。でもよかったら、一緒に勉強しない? わたし、歴史魔法学は得意なほうだから」
マリカは少し考えてから、「お願いします」と言った。
その声がどこか投げやりに聞こえたことも、リリーナは気に留めなかった。
以来、放課後のたびに図書室での勉強会が続いた。
リリーナは毎回、その日の授業内容をまとめたノートを用意してきた。試験に出そうな箇所を事前に調べて、参考書に付箋を貼っておいた。マリカが「難しい」と言うたびに、違う角度から説明を考えた。
楽しかった。教えることが楽しいのか、考えることが楽しいのか、自分でもよく分からなかったが――とにかく、誰かの役に立てているという感覚が、リリーナには心地よかった。
だからこそ、止まれなかった。
三時間があっという間で、五時間でも足りない気がした。「ここも関連してる」「ここが分かれば応用が利く」という連鎖が止まらなくて、結果として毎回が密度の高い特訓になった。
マリカが途中から返事をしなくなっていることも、窓の外を見る時間が増えていることも――リリーナは「疲れているのかしら」と思いながらも、説明をやめることができなかった。
(もう少しで全部繋がるのに。ここさえ分かれば絶対に試験も大丈夫なのに)
本人は純粋に、そう信じていた――。
◇ ◇ ◇
「ねえ、聞いた?」
翌日の昼休み、食堂の一角で、クラスメイトたちが声をひそめていた。
リリーナには聞こえていない。彼女は少し離れたテーブルで一人、明日の予習に没頭していたからだ。
「マリカが言ってたんだけど、リリーナ様に毎日図書室に呼び出されてるって」
「呼び出し?」
「放してもらえないらしいの。何時間も。帰りたいって言っても、ノルマが終わるまで帰れないって……」
声をひそめた一人が、ちらりとリリーナのほうを見た。
侯爵令嬢は相変わらず教科書を広げ、一心不乱にペンを走らせている。整った横顔に、影は一つもない。
「でもリリーナ様って、王太子殿下のご婚約者でしょう。そんなことするかしら」
「だからこそじゃない? 成績でマリカに負けるのが嫌なんじゃないかって」
「それに、あの人って授業中もすごく完璧じゃない。ちょっと怖いというか……」
声は小さく、しかし着実に広がっていく。
蜜のように甘く、棘のように細かく――誰かの悪意が混じった噂というのは、否定するより先に染み込んでいくものだ。
リリーナはまだ気づかない。
窓から差し込む昼の光の中、彼女は今日もひたすら、ノートにペンを走らせていた。




