10 夜会のあとで
学園の秋の恒例行事に、「野外魔法実習」というものがあった。
学園から馬車で二時間ほどの距離にある森に一泊二日で出かけ、自然環境の中での魔法制御を学ぶ――というのが建前で、実態は飯盒炊爨あり星空観察ありの、ほぼ遠足だとテシアは言った。二日目の夜には学園に戻って、成果発表を兼ねた小さな夜会もある。
「アレスさん、行きますよね」
前日の朝、リリーナが確認すると、
「……考える」
「行きますよね」
「だから考えると――」
「行きましょう。外の空気は気分転換になります」
翌朝、アレスは不機嫌そうな顔で――前髪しか見えないので想像だが――集合場所に現れた。
リリーナは小さくガッツポーズをした。最近、回数が増えてきた気がする。
森の中は、思いのほか快適だった。
魔法実習の内容は、自然の魔力を感知して制御する初歩的なものだ。土や木に宿る微細な魔力の流れを読み取り、それを乱さずに自分の魔力と調和させる。リリーナには比較的得意な分野だったが、他の生徒の多くは苦戦していた。
アレスはというと、実習エリアの端の木の根元に座って、空を見上げていた。
「アレスさん、実習に参加してください」
「見ている」
「見るだけでは単位になりません」
「めんどくさい」
「やってみてください」
アレスはしばらく動かなかった。が、やがてのそりと立ち上がり、近くの木の幹に片手を当てた。
一分もしないうちに、周囲の空気が変わった。
引率の教師が振り向いた。リリーナも気づいた――
アレスの手のひらから、ごく静かに、でも確実に魔力が流れ出している。木の幹を伝って、根から土へ、土から周囲の草へ。まるで元から自分のものだったかのように、なめらかに馴染んでいく。
「……いつの間に」
そう教師が呟くと、アレスはすぐに手を離して、また木の根元に座った。
「できるじゃないですか」
「やれと言ったからやった」
「素直です」
「……うるさい」
でも、悪くなさそうだった。リリーナにはそう見えた。
◇ ◇ ◇
夜は焚き火を囲んだ。
学園の生徒たちがいくつかのグループに分かれて、思い思いに夜を過ごしていた。
「リリーナも来なよ!」
他のクラスメイトと賑やかに話していたテシアが声をかけてきた。
「ありがとう、少し後で……」
リリーナは一人でいるアレスを見ながら、そう返した。
焚き火から少し離れた場所に、石があった。アレスはそこに腰かけて、燃える火をぼんやり見ていた。いつも通り前髪が顔を覆っているが、炎の赤い光の中では輪郭だけが浮かび上がる。
「隣、いいですか」
「……好きにしろ」
リリーナは隣の石に座った。
しばらく、どちらも喋らなかった。
遠くでテシアたちの笑い声が聞こえる。木が燃える音がする。夜の森は思っていたより温かく、煙の匂いがした。
「こういう場所は好きですか」
ふと、聞いてみた。
アレスは少し間を置いてから、
「……嫌いじゃない」
と答えた。
「部屋より広いから?」
「……人が少ないから」
「正直ですね」
「別に」
また沈黙が来た。今度は少し違う質感の沈黙だった。悪くない沈黙、とリリーナは思った。
「リリーナは」
アレスが、先に口を開いた。
珍しかった。アレスが自分から話題を振ることは、ほとんどない。
「……故国に、戻りたいと思うか」
リリーナは少し考えた。
「今は、思いません」
「今は、ということは」
「最初は少し思いました。知っている場所の方が楽ですから。でも今は――ここが、ここになってきた感じがして」
「ここが、ここに」
「うまく言えないのですが……帰る場所、というのとも違って。いる場所、というか」
自分でも言いながらよく分からなかった。アレスは黙って聞いていた。
「アレスさんは、ここが好きですか。学園」
「……」
少し長い沈黙だった。
「嫌いじゃない」
また同じ答えだった。でも声音が、さっきとわずかに違った。
「前より、嫌いじゃない」
追加があった。
リリーナは炎を見たまま、小さく笑った。アレスには見えていないだろうけれど。
(前より、か)
そっと、胸の中で繰り返した。
◇ ◇ ◇
翌日、学園に戻っての成果発表夜会は、大広間で行われた。
正式な夜会ではなく、各自が実習の成果を魔法で演示するという形式だ。煌びやかなドレスではなく制服のままで、飲み物と軽食が並んで、比較的自由な雰囲気だった。
アレスは当然のように来ないかと思っていたが、珍しく現れた。大広間の隅の柱に寄りかかって、腕を組んで立っていた。
リリーナが近づくと、
「うるさいから来た」
と先に言った。
「部屋にいたら音が聞こえてきた」
「寮から大広間の音は聞こえないと思いますが」
「……うるさかった」
何がうるさかったのかは、聞かなかった。
演示の時間になって、リリーナは簡単な魔力制御の演示をした。空気中の魔力を収束させて、小さな光球をいくつか作る。実習の応用だった。光球がふわふわと漂うと、周囲から小さな歓声が上がった。
消したあと、隅の柱に戻ると、アレスがまだいた。
「きれいだった」
ぼそり、と言った。
「……ありがとうございます」
「事実を言っただけだ」
「それでも、ありがとうございます」
アレスが黙った。また耳が赤い気がした。夜会の灯りのせいかもしれないが。
夜会が終わって、生徒たちが三々五々に引き上げ始めたころ。
リリーナは大広間の扉を出たところで、アレスが来た道とは違う方向へ歩き始めるのに気づいた。
「寮はこちらですよ」
「分かってる。少し外に出る」
「一人でですか」
「そうだ」
「では一緒に」
「来るな」
来た。
アレスは少し立ち止まって、それから諦めたように歩き続けた。リリーナは少し距離を置きながらついていった。
渡り廊下を抜けると、中庭に出た。夜の中庭は静かで、月明かりだけが地面を照らしていた。アレスは噴水の縁に腰かけて、空を見上げた。
リリーナは少し離れた場所に立って、同じように空を見た。星が、思っていたより多く出ていた。
(悪くない夜だわ)
そう思った瞬間――。
視界の端に、何かが動いた。
中庭の外、学園の塀に沿った木立の陰。人の形をした影が、ひとつ。
リリーナは目を細めた。
動いていない。ただそこに、立っている。こちらを――
正確には、噴水のところに座っているアレスを――見ている。
(生徒?)
夜会帰りの生徒が外に出ることはある。でも、あの立ち方は違う。身を潜めている。気づかれないように、息を殺して、ただ一点を見ている――。
リリーナは視線を動かさないように気をつけながら、アレスの方を見た。
アレスは空を見上げたままで、影には気づいていない。
(あれは、学園の生徒じゃない)
確信した理由を言葉にするのは難しかったが、分かった。立ち方が違う。物の陰への隠れ方が違う。普通の生徒が暗がりに立つときの、うっかりした気配ではなかった。
見慣れた技術だった――リリーナ自身は持っていない技術だが、見たことがある。護衛の訓練を受けた者の立ち方だ。
次の瞬間、木立の影が、ない。
消えていた。
リリーナは息を整えた。鼓動が、少し速くなっていた。
「リリーナ」
アレスが声をかけてきた。
「どうした」
「……いえ」
リリーナは笑った。できる限り、普通の笑顔で。
「星がきれいだと思って」
アレスが、少しの間リリーナを見た――前髪越しに。
「……そうか」
それだけ言って、また空を見た。
リリーナも空を見た。
きれいだと言ったのは嘘ではなかった。本当に、星は多く出ていたから。
ただ、その美しさが少しも頭に入ってこなかったけど。




